江戸連講

5月講「日帰りバス旅行 行田・埼玉古墳群と忍城、その城下町(足袋蔵)巡り」

5月講は日帰りバス旅行「行田・埼玉古墳群と忍城、その城下町(足袋蔵)巡り」です。

行田は、映画「のぼうの城」で知られた町。秀吉の北条攻めの折、石田三成の攻撃に耐え抜いた忍城(行田市郷土博物館)を見学します。又、当日、忍城下の足袋蔵が数多く公開されます。ガイドさんに足袋蔵巡りを案内してもらいます。
さらに、埼玉県の名称の由来となった関東最大の古墳のある「埼玉(さきたま)古墳群」が世界遺産登録準備中です。この現場を見学します。そして「加須の古民家」では郷土史家による北武蔵の武士文化の講演を拝聴します。盛り沢山の内容ですが、多数の皆様のご参加をお待ちしています。

日 時: 5月21日(土)
集 合: 午前9時 JR駒込駅改札北口前
バ ス: 東武観光バス大型(定員53名)
参加費: 5,000円(交通費、施設入館料、昼食代その他。飲み物は
各自持参)
振込先 ゆうちょ銀行「とくほ江戸連」
募集人員:53名、希望者多数となることが予想されますので会員及び
その家族限定とし、申し込み順で満席となり次第締め切ります。
コース: JR駒込駅-さきたま古墳公園(稲荷山古墳等)-さきたま
史跡の博物館-昼食(割烹魚豊)-足袋とくらしの博物館
-足袋蔵めぐり(ガイド)-行田市郷土博物館(忍城)
-加須古民家(休憩・講演)-帰着・解散
JR池袋駅18時予定
案内人: 新実由無

報告

 5月21日、これ以上無いと言うほどの皐月晴れ。51人という多勢での町歩きツアーは3年ぶり。江戸時代を江戸周辺から見てみようという思いから始めたバスツアーは、第1回の平成21年長月講「もうひとつの日光-日光東照宮の謎」で東照宮の謎を徹底して勉強してみようという旅から始まりました。

 今回は7回目。その内5回は利根川流域を訪ねる旅でした。これまで、銚子・外川湊の他、北関東の鬼怒川、渡良瀬川流域に江戸文化を訪ねてきました。それは、江戸地廻り経済と文化を訪ねる旅ということになります。

 そして今回は利根川本流右縁、武蔵国。いよいよ徳川家康が江戸へ入府以降の核心部分になるわけです。豊臣秀吉の小田原北条征伐によって徳川家康が関東に配流された、関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍として江戸に幕府を開いた思いは関東平野の可能性を確信していたからに違いないと思われる。一方、今一つの理由は京都・大阪の宗教・朝廷政治から距離を置きたいという思いであったことだというのも又、確かである。大きな決断には多面的な考察があるのは道理であるから。その意味で今回の潜在的なテーマである利根川東遷論、荒川西遷論も利水が主目的とか、治水が主目的とか、明治以来論が交わされているが、裏表の関係で、利水があってこそ治水が必要になっていたことが今回の旅行資料作成過程で当然のように理解できた。

 今回の旅は、その関東平野の可能性に賭けた家康の行動の端緒を見付けたいとのことで企画したものであるが、何故家康は関東開発の端緒に行田地域に目を付けたのであろうか。
 埼玉平野は低地・台地よりなるが、その周辺は丘陵・山地よりなる山地部である。埼玉低地は二つの地形から構成される。山に近い所に発達する扇状地と、その先の平野部に広がる自然堤防地帯である。行田加須地域は高崎・秩父の山地部から扇状地と自然堤防地に切り替わる所にあり、行田辺りの利根川は水深が深く、水量が年間を通して安定している区間である。更に地下水も豊潤で沼地も多く、新田開発と水運の便に富むという特性を持っている。
 そこで、高崎周辺から埼玉にかけての古墳群の多様さと、関東武士の発生の大きな要因となるこの地域の経済の発展は、この自然特性によるところが大きいことが理解できる。

今回一番注目したのは
(1)中条堤が鎌倉時代から整備が進み、徳川家康によってさらに整備され明治時代までの利根川治水の根幹であったこと
(2)家康が関東開発の最初期に伊奈忠次に中条堤から1㎞下流の会の川を締め切り、利根川と荒川に挟まれた埼玉平野の見沼溜井を整備し、新田開発をさせたという事実
(3)8代将軍吉宗の指示で、井沢弥惣兵衛が見沼代用水を行田の利根川筋から取り入れた地点が、昭和43年の東京大渇水問題の発生により、利根大堰から荒川への武蔵水路の導水口に成ったこと

 このような地域が行田であり、近世、忍藩領の戦略上・治水上・利水城の重要性であり、近代・昭和に時代までその重要性が踏襲されてきたことがわかる。

 さあ、バスの中で配布した資料が説明しきれないうちに早や東北道・加須ICに到着。間もなく最初の訪問地、埼玉古墳群。解説は時間切れ、終了。

 埼玉古墳群へ何故江戸連がと思われるが、戦国時代の北条の北の固めとなる忍城、江戸時代の治水・利水の要となった行田地区は、古墳群の誕生に関わる埼玉の津から窺えられる水運と周辺居住群の発達に重なる部分が多く、埼玉平野の江戸地廻り経済の発展に欠かせない要素であることが改めて理解できたと思う。

 埼玉古墳群の見学には意外にも連衆の関心が高く、丸墓山古墳にはなんと、皆さん登り、さきたま史跡の博物館の金錯銘鉄剣などの国宝展示にも興味をもたれ、もっと時間がほしかったという意見をもらうほどであった。

古墳1 古墳2

さきたま史跡の博物館 国宝

 さて、いよいよバスツアー恒例の昼食。ガイドをする者にとって一番悩むところ。今回は行田と言えば鰻でしょうということで、創業文久2年(1862年)の川魚割烹店「魚豊」。先ずは少々鰻を味わってみたいと肝吸いをお付けいたしました。今の時世、久しぶりに鰻を食べたなという感想を聴き、楽しんでいただけたかなと安心しました。料亭にも多勢の利用で喜ばれ、地域貢献できたかな。

昼食

 さて、午後の部は足袋蔵めぐり。年1度の足袋蔵まつりというのに、江戸連の一行ばかりが目立つこと。お祭りを引立てに行ったようで、お役に立てましたかね。行田観光ボランティア5名による案内は大通り、横丁、路地とめまぐるしく曲がりくねった町歩きになりましたが、心配した迷子もなく無事忍城に到着と言いたいのですが、直前に疲れたということで小休止。考えてみれば江戸連の平均年齢は、前回平成25年から3歳高くなっているんですね。暑い日差しの中での町歩きでした。私が8年ほど前に行田に行ったとき初めて地元にNPO足袋蔵ネットワークがスタートして、足袋蔵ミュージアムで活動を始めたばかりだったことから考えると、わずか8、9年で大きく発展したことに敬意を表します。

足袋1 足袋2

 さて、忍城・行田市郷土博物館見学。忍城の壮大なジオラマを見ていただき、水城と言われた城で三成も攻めあぐんだという伝説に納得されたと思います。しかし皆さん40分位の見学を精力的に、そして三重の櫓(やぐら)も見てきましたという人もいて、連衆の元気度がわかりました。お見事。忍城をバックに我が江戸連の名カメラマンによる記念撮影。それにしても多勢だなと久しぶりの感嘆。

 そろそろ帰路に懸り、何とか利根大堰を見たいと、見沼代用水と武蔵水路(荒川連絡水路。東京の朝霞浄水場への水路)が並行する水路を見ながら利根大堰へ(水流の速さと、その先の沈砂池を見て、不自然に思い、後日川口中央図書館にて再調査の結果、バスの中で沈砂の水かきのためと言う説明が誤っていたことがわかり、訂正して陳謝いたします)。しかし残念ながら、時間がなく沈砂池をみて素通り。残念でした。

 いよいよ最終コース。江戸連理事の長谷田氏お知り合いの加須の古民家で郷土史家・奥澤市孝氏の講演を聴く。江戸幕府直轄領の幕末の治安の悪化から生まれた農民の天然理心流による武装、そして利根川の備前堀管理統一に果たした奥澤氏の曽祖父の尽力の話などには、昨年日野宿本陣で聞いた、佐藤家と近藤勇の天然理心流稽古の話と合い通づる、江戸周辺の幕府直轄地の農村文化というものを感じ、思わず聞き入ってしまいました。連衆も、もっと話を聞きたかった様子でしたが、帰路の時間が迫り残念。

古民家

 帰路から見える夕焼けに映える大麦の畑は、来週位にも刈り入かも。そして、この地域の麦生産農家はサッポロビールの契約農家。間もなく美味いビールになるそうで、楽しみです。しかし喉が渇いた、ビールが待てない、早くコンビニに寄ってとバスガイドに急かす。

 池袋帰着は予定を20分過ぎ。二次会がこれまた大勢で先ずはビールで喉を潤しました。



報告

(講演レジメより抜粋、文責:白石 徹)

~火事と火消制度~
1. 江戸は“火災都市”
  江戸時代を通じて大火の回数を比較すると、京都9回、大阪6回、金沢3回、その他合計して17回なのに対して江戸では49回。
2. 江戸の主な大火
(1)寛永18年(1641) 桶町火事
   死者は数百人という。幕府は「大名火消制度」を創設。
(2)明暦3年(1657) 明暦の大火(別名 振袖火事)
  焼死者は「十万七千四十六人といえり」。またこの時、江戸城天守閣も焼失し、江戸の市街地の大半を焼き尽くした。幕府は従来の「大名火消」に加えて「定火消制度」を新たに創設した。
(3)明和9年(1772) 明和の大火(行人坂火事)
  「焼死怪我人其の数知らず」明暦の大火に次ぐ大被害(死者数千人)
(4)文化3年(1806) 文化の大火(車町火事)
  「焼死溺死千二百余人といえり。」松平定信の寛政の改革に一環で「町会所」が、米・金を貯蓄、類焼にあった貧民用の御救小屋(15箇所)がすぐに建てられ米、銭が支給された。
(5)文政12年(1829) 文政の大火(神田佐久間町の火事)
  「焼死溺死の輩千九百人と聞けり」今回も御救小屋(9箇所)が建設
(6)安政2年(1855) 地震火事
  深川・本所あたりを震源地とした推定マグニチュード7強の直下型地震。「市内震死者の総数は約7千人なるべし、地震後市内諸所より火事起こり焼失面積は14町四方」

3. 江戸の火消制度
(1)江戸初期
  きちんとした消防組織はなかった
(2)大名火消制度
  寛永20年(1643)にできた制度。大名16家を4組に編成、1万石に着き30名の人足を、1組(420人)が10日ずつ防火に当たる。その後10家・3組体制になる。
(3)定火消制度
  万治元年(1658)にできた火消制度。3千石から5千石程度の大身旗本4名に「火消役」を命じ、それぞれ火消屋敷(約3000坪)を与えた。また火消人足を抱えるための役料300人扶持を給し与力6名、同心30名を付属させた。その後火消役は追加され、寛文2年(1662)には10組体制になった。
(4)町火消制度
  享保3年(1718)に、町奉行大岡越前が作った町人自身の火消制度。47の小組に分けいろは四十七文字を組名とした。小組はそれぞれ鳶人足20~150人と店人足50~500人くらいからなっていた。
(5)火の見櫓
  定火消の櫓には大太鼓と四隅に半鐘、大名屋敷は板木、町方は半鐘。

~火事の経済学~
 火事による被害が大きく、かつ復興費用の持ち出しが多いのは武家層。他方火事による比較的少ない割に、復興の利益が大きいのが町人層。
1. 幕府の損得
(1)火事による直接的被害
  ①江戸城、②幕府の公共施設(直轄の橋、米蔵、材木貯蔵所など)
(2)復興による持ち出し
  ①幕臣、②大名、③御三家、④町人に対しても銀1万貫(約17万両)を下賜、配分。寛政の改革で町人自身の積み立て制度を導入。
(3)火事による幕府のメリット
  復興に伴い江戸市街の拡張整備を行った。
2. 幕臣(旗本・御家人)の損得
  時代を下るに従って幕府からの援助額が低下、火事被害は家計の「火の車」状況を増幅させる要因だったと思われる。
3. 大名の損得
  幕府は大名の石高に応じて恩賜金を出したがそれも時代と共に減少。10万石以上の大名は対象外で自力再建。
4. 商人の損得
  復興需要の取り込み。商家の火事に対する備え。①土蔵、②穴倉、③家訓、④積立金制度(保険制度)
5. 職人の損得
  職人たちにとっていつも仕事に困らない状況を作り出している。
復興関連の職人:大工、左官、瓦師、穴倉師、屋根職、石工、鳶職
職人手間賃の高騰
6. 日庸人の損得
  借家住まいで財産を持たず、失うものは何もない。災害復興事業で日雇い仕事にありつける。それまでは御救小屋で世話になる。
7. まとめ
  幕府は消火体制の強化や放火犯の取り締まりに力を入れたが、火事は減少するどころか増加する一方であった。特に幕末にかけては急増している。火事の原因は出火より放火が多かった。不景気になると火事が多くなる。江戸が焼けることにより建築をはじめ産業や商業が全国的活性化した。
4月講1 4月講2

(参考文献)
『江戸学事典』(弘文堂)・斎藤月岑『武江年表』(平凡社)・黒木喬『江戸の火事』(同成社)・稲垣史生監修『江戸の大変』(平凡社)・北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館)・安田政彦『災害復興の日本史』(吉川弘文館)・寒川旭『地震の日本史』(中公新書)・小沢詠美子『災害都市江戸と地下室』(吉川弘文館)・荒川秀俊編著『実録大江戸壊滅の日~安政見聞記ほか』(教育者)・『図説江戸考古学研究事典』(柏書房)・佐藤雅美『将軍たちの金庫番』(新潮文庫)・吉田豊『江戸のマスコミ「かわら版」』(光文社新書)・魚谷増男『消防の歴史四百年』(全国加除法令出版)・吉原健一郎『江戸東京年表』(小学館)



3月講「赤坂周辺の歴史と花見散策」

開催日:3月26日(土)
集合場所:日比谷線「神谷町」2番出口
集合時間:午後2時
コース:
神谷町駅~西久保八幡宮~雁木坂~三年サカ~我善坊谷~御組坂~アークヒルズ(休憩・花見)~南部坂~氷川神社~勝海舟屋敷跡~報土寺・三分坂~赤坂サカス
懇親会場:
「北の味紀行と地酒 北海道赤坂見附店」
港区赤坂3-10-4 赤坂月世界ビル3F
℡ 050-5798-8716
会費:一人3,300円(呑み放題無料)17時まで入店の事
懇親会当日ドタキャンはキャンセル料を徴収します。

報告

3月26日(土)に開催された講「赤坂周辺の歴史と花見散策」には41人の連衆が参加しました。この日も天気は“江戸連日和”の快晴でしたが、寒の戻りで寒く、期待していた桜は六本木スペイン坂辺りを除いては一分咲きで、満開の桜を期待していた連衆からは「来週あたりが見頃だね」「せっかくカメラを持ってきたのに…」と残念がる声が出ていました。

期待した桜は一分咲き
当日の散策コースは、日比谷線神谷町駅→西久保八幡宮→雁木坂→三年坂→我善坊谷→御組坂→泉通り→スペイン坂→六本木アークヒルズ→南部坂→氷川神社→本氷川坂→勝海舟屋敷跡→報土寺→三分坂→TBS赤坂サカスまでの4.5㎞。この辺りは都内でも屈指の坂多発地帯で、しかも高低差の激しい急坂ばかりとあって、この日はある意味で坂との闘いの日でもありました。
坂歩き アークヒルズで一休みする連衆
見所解説は江戸と坂に精通している松本崇男さんと圓山稔さんのお二人が担当。その主なポイントをまとめると下記の通りです。
説明役・松本氏 説明役・圓山氏
「西久保八幡宮」=寛弘年中(1004~12)に源頼信が霞ケ関あたりに創建したものを、太田道灌がこの地に遷したと伝えられている。二代将軍秀忠室・お江が1600年の関ヶ原の戦いの折、戦勝を祈願したことでも知られている。
「三年坂」=港区麻布台1丁目にある坂。この坂で転ぶと3年のうちに死ぬとの迷信があったことに由来する。
「南部坂」=アメリカ大使館宿舎(信濃松代藩十万石の中屋敷跡)の北側の坂。坂名は、この近くに南部家(陸奥盛岡藩二十万石)があったことに由来する。急峻な坂のため「難歩坂なんぽ坂」とも書いたとか。この南部坂は播州赤穂の上代家老・大石内蔵助が雪の中を南部坂上にある浅野家(備後三次藩五万石)に身を寄せる瑞泉院(浅野内匠頭奥方)を訪ねた際、歩いた坂としても有名。また南部坂は都内に二つあるという。もう一つは港区南麻布にある有栖川宮記念公園近くの坂。浅野家と南部家の屋敷が相対替となり、南麻布に移った南部家の近くにも坂があるためそう呼ばれている。
「報土寺」=雷電為衛門(江戸時代の大力士)や井部香山(江戸時代の儒学者)の墓があることで有名。とくに雷電は寛政8(1796)年に30歳で大関に昇進し、引退する文化8(1811)年の春場所までの16年間で32場所大関を務め、その成績が254勝10敗1引き分け2預かり5無勝負で勝率が何と96.2%を記録する無類の強さだった。このためあまりの強さで横綱に推挙されなかったという。またこの寺の塀は慶長19(1614)年の創建当時の築地塀で、その姿の美しさから訪れた人々を魅了している。
雷電の墓
「三分坂」=これを「さんぶざか」と呼んではいけない。「さんぷんざか」が正しい。急坂であるため荷揚げする際、車夫に払う料金に銀三分(さんぷん100円余り)増したのでそう呼ばれるようになった。「さんぶ」では1両の4分の3となり、現在の貨幣価値に直すと7万5,000円追加払いすることになってしまう。
三分坂
一行は約2時間半ぶらり散策を満喫、歩数は約1万2,000歩でした。二次会は「北の味紀行と地酒 北海道赤坂見附店」で開催、27人が参加しました。皆様お疲れ様でした(平)。