江戸連講

2020年12月講「江戸芸能づくし」

日 時:12月5日(土)午後2時~4時
場 所:東京ウイメンズプラザ(青山)第一会議室B
演 目:落語「猫の災難」          花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
    狂言紙芝居「ぶす」「かたつむり」  寿々方さん(江戸連会員・江戸がたり家元)
    トランプマジック         三宮さん(江戸連会員・奇跡の会事務局長)
    落語「子別れ」          花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
会 費:会員1,000円(会場参加)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は20名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    恒例の忘年会は今回中止です。

報告

花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
   

   

   

寿々方(江戸連会員・江戸がたり家元)
   

   

   

三宮政一氏(江戸連会員・奇跡の会事務局長)動画出演
   

   

   



2020年11月講「高井鴻山」を語る

葛飾北斎を小布施に連れてきた高井鴻山。信濃の豪商の実態は、幕末維新に於ける先覚者であった。

日 時:11月28日(土)午後2時~4時
場 所:高井戸区民センター第9集会室(57名収容可)
講 師:新実正義氏(江戸連会員・元江戸連代表理事)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円(会場参加者)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は20名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    その場合、参加費はキャリーオーバーとします。

報告

小布施
 ・北国街道の近くにあり、中山道に通じ、北陸から京都、江戸に繋がる交通の要衝。
 ・六斎市という月6回の市が開かれた。米・麦の銭相場が立てられた。
 ・固定店舗が増大し、上町・中町・下中町という特権を持った店の町ができ、そのあと裏町・横町が分かれ
  町組五町と呼ばれた(町組は地域名ではなく町内会名で時代により変化)。
 ・茶・塩・魚など食料品、水油・太物・細物など衣料雑貨品を扱う店が多かった。
   

高井家と高井鴻山略伝
 ・詳細略(配布資料参照)
 ・上町の商人。穀物・塩・酒などを扱い、京都の公家へも出入り。総石高300石を超える大地主。
 ・大名貸しも行う。飯山藩から10人扶持を与えられ、家老待遇を受けていた。
 ・鴻山は15~31歳のあいだ京都へ2度、江戸へ1度遊学している。
 ・京都では書・画・詩を学び、陽明学に傾倒。
 ・江戸では、さらに陽明学を深め、多くの学者・文人等と交流。
 ・小布施での鴻山は、家業は弟に任せ、政治・社会・文化面に活動。
 ・葛飾北斎は晩年、小布施の鴻山を4度訪ねており、東町、上町の祭りの屋台の天井絵や岩松院の天井画を
  依頼され描いている。
 ・鴻山は当初攘夷思想であったが、後に開国論に変わる。
 ・幕府を支援、明治になると政府に建白書を提出したり、晩年は教育事業に力を尽くす。

高井鴻山と葛飾北斎
 ・鴻山が江戸遊学中に北斎と出会ったと思われる。北斎は80歳超え。
 ・小布施出身の小山中兵衛が江戸に開いた呉服店「十八屋」が関係しているかも。
 ・北斎への支払いは「十八屋」を通じて行われている。
 ・北斎83歳、天保13年(1842年)に初めて、小布施の鴻山を訪問し滞在する。鴻山37歳。
 ・北斎は鴻山に「画狂老人」と刻した自身の印を贈っている。
    

岩松院天井絵の謎
 ・講演者新実正義氏は、岩松院の天井絵は北斎の娘の「お栄」の作品ではないかと推測。
    

以上    文責:白石 徹



2020年10月講「歌舞伎へのお誘い~出雲のお国から瞼の母」

日 時:10月24日(土)午後2時~4時
場 所:寿々方邸よりオンライン配信
講 師:寿々方氏(江戸連会員)江戸がたり家元
    荒井孝昌氏(江戸連会員)元東京国際大学学長
演 目:1)お国かぶき
    2)江戸歌舞伎
    3)江戸三座
    4)芝居見物「名ごりの夢」
    5)明治維新以降の歌舞伎
    6)長谷川伸「一本刀土俵入り」
    7)長谷川伸「瞼の母」
その他:会員のみ参加。参加費無料

報告

1.お国かぶき (荒井孝昌さん・講演)
 ・関ヶ原の役で徳川方が勝利して3年後、世の中が落ち着いてきた慶長8年(1603年)、出雲のお国が京都で
  興行を行った。
 ・それまで女性が舞台に立つことはなく、お国は武士の格好をして踊った。
 ・これは、当時とても驚きであり、まともではないことの表現の「傾いたもの」といわれ、それが「かた
  ぶく」となり「かぶき」となった。
 ・踊りの興行は、鎌倉室町の頃から神社・仏閣の勧進興行として行われていたが、出雲のお国が、宗教とは
  関係なく、純粋に娯楽として興行を行ったのである。
 ・京都の四条河原で竹矢来を組んで行い(資料参照)、遊女かぶきともいわれた。
 ・この「女かぶき」はやがて舞台から客引き(売春)をするようになり、寛永6年(1629年)に禁止された。
 ・これにかわって「若衆かぶき」が出てきたが、これも同様に承応元年(1652年)に禁止となる。
 ・かわって「野郎かぶき」が出てきて、女形も生まれ、現在の歌舞伎にいたる。

2.江戸歌舞伎 (荒井孝昌さん・講演)
 ・上方と江戸で演劇としての歌舞伎が発展。それぞれに天才が出現する。都市の性格の違いによって異なった
  特徴がある。
 ・上方の和事(わごと)
  街が歴史・文化を共有している人々からなり、実際の心中事件を題材にした現代 劇をやわらかい写実演技
  で表現された。
  作者:近松門左衛門  役者:坂田藤十郎
 ・江戸の荒事(あらごと)
  街には全国から歴史・文化の違う多くの人が集まり、しかも男性が中心で方言が 飛び交い、江戸文化と
  して統一されていない状況。一見して面白い芝居が演じられた。顔の隈取り、実際にはあり得ない格好や
  派手な演技などはその典型である。
  役者:初代 市川團十郎

3.江戸三座 (荒井孝昌さん・講演)
 ・人形町に猿若座、市村座、木挽町に森田座、山村座ができる。
 ・山村座は江島生島事件により廃絶。
 ・芝居は照明がないため昼間に終日行われた。そのため、食事や女性のためのトイレや着替えなど、また、
  席の予約や札の購入のために芝居小屋が利用された。
 ・料金は、最上級の桟敷で一人2万円程度、平土間で5~6千円程度で、現在とあまり変わらない。一番安い
  2階の後ろは人数制限なしで入れたため、追い込みと呼ばれ、立見席で、役者の声が聞こえないこともあり
  「つんぼ桟敷」の語源ともなった。一人15~16文で200円前後。
 ・水野忠邦の天保の改革で芝居小屋は廃止の予定だったが、北町奉行の遠山金四郎の助言により、浅草聖天町
  に移転された。
 ・周りは田んぼで北側に吉原があり、その先には小塚原の処刑場があって寂しい処だったが、江戸三座が
  一か所に集まることにより賑やかになった(資料参照)。

4.名ごりの夢 (寿々方さん・語り)
 ・徳川将軍蘭方の唯一の奥医師、桂川家七代目当主、桂川甫周の娘、今泉みねさんが昭和9年、80歳のころ
  より語り始めた、幼少の頃の江戸時代の様子を記録した「名ごりの夢」
 ・寿々方さんが解説を交えながら、築地の隅田川沿いの屋敷から舟に乗り、芝居見物に出かける一日の様子の
  部分を、江戸がたりの口調で語られた。
 ・みねさんは安政2年(1855年)生まれ、昭和12年(1937年)に83歳で逝去。
 ・みねさんが13歳の時が明治維新であるから、この芝居見物は彼女が10~12歳の頃であったと思われる。

5.明治維新後の歌舞伎 (荒井孝昌さん・講演)
 ・維新の近代化の波は文化の面でも推奨され、演劇改良運動(主に歌舞伎)が起こった。
 ・九代目團十郎は熱心に活動。彼は「活歴物」といわれる旧来の荒唐無稽な時代ものでなく、史実による時代
  考証を重視した歌舞伎を演じた。
 ・井上薫の後押しもあり、天覧歌舞伎も催され、歌舞伎の地位は向上したが、知識階級以外の一般庶民の評判
  は悪く、やがて「活歴物」は廃れた。
 ・これまで、歌舞伎の作品は座付きの作者が台本を提供していたが、これより、歌舞伎に関係のない人達が
  台本を提供するようになった。
 ・代表的な作者として、坪内逍遥、岡本綺堂、長谷川伸などがいる。
 ・長谷川伸は幼少の頃、両親と別れ苦労して独学で学び、新聞記者となる。その経験をもとに書かれたのが
  「一本刀土俵入り」「瞼の母」である

6.長谷川伸「一本刀土俵入り」 (寿々方さん・紙芝居)
 ・関取になれず、やくざになった男が、昔世話になった女性の難儀を救う恩返しの物語

7.長谷川伸「瞼の母」 (寿々方さん・紙芝居)
 ・幼いころに別れた母を探し訪ねたが、やくざの身では受けいれてもらえず、あの懐かしい母は自分の瞼の裏
  にしかいない、と去っていく男の物語

以上    文責:白石 徹



2020年9月講「総合的知識人・大田南畝の魅力~狂歌・狂詩・エピソードなど」

日 時:9月26日(土)午後2時~4時
場 所:高井戸区民センター第9集会室(57名収容可)
講 師:森岡久元 氏  作家
    主な著作:南畝三部作「崎陽忘じがたく~長崎の大田南畝」
         「南畝の恋~享和三年江戸のあけくれ」 
         「花に背いて眠る~大田南畝という二世蜀山人」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円(会場参加者)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は25名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    その場合、参加費はキャリーオーバーとします。

報告

・大田南畝のお墓の話
・南畝研究家の玉林晴朗(たまばやしはるお)氏と浜田義一郎により戦前・戦後に出版された研究書によると、
 東京都文京区白山の本念寺にある南畝の墓所には、南畝の墓に並んで南畝の妾の島田香と娘の兼を祀った島田
 氏歴世の墓や、父母、妻、倅(せがれ)定吉夫婦、伯母、祖父母、曾孫の墓はあるが、吉原から身請けした
 お賤の墓はない。
・南畝びいきの永井荷風もお賤の墓がないことに落胆している。
・平成11年(1999年)、講師が本念寺を訪れた時には、南畝の墓と両親、お賤の墓があった。関東大震災・
 太平洋戦争を経て、無縁墓の整理が何度も行われた結果と思われる。
・近年、さる放送局が南畝特集を放映するにあたって、無縁墓の中から両親とお賤の墓を見つけ祀ったものと
 考えられる。
・南畝の墓は大きく立派なものだが、「南畝大田先生之墓」とあるのみで墓碑銘がない。これは、南畝亡き後、
 一家は困窮し、後の分を刻む金がなかったものと思われる。
・倅定吉は神経症の病があり、家督を孫の鎌太郎が継いだが、南畝のような役職には至らなかった。
・玉林氏は、お賤の墓は当初島田家歴世の墓があった南畝の隣だったと推定している。
・南畝と香の娘兼と暮らしていた、鎌太郎の孫の大田堅が香と兼の墓である島田家歴世の墓を建立するに
 あたり、兼の念願どおりに、お賤の墓を除いて堅の父親である南畝の墓の横に据えたのではないかと講師は
 推定している。
・南畝の死後、彼の墓の隣を本妻の里与、妾の賤、妾の香と娘の兼が取り合っているようだ。
・以下、妾お賤や妾香との経緯。時世におもねることなき気骨を持ちながら、学問と酒色を愛する享楽の文人
 南畝をこよなく愛した永井荷風の話。大田南畝の若き頃より発揮された天才ぶりを含めたその一生、南畝の
 狂歌等々について、豊富なレジメと軽妙な語り口でご講演された。

以上    文責:白石 徹



2020年8月講「江戸の謎めいた坂の名前~三年坂」

日 時:8月29日(土)午後2時~4時
場 所:東京ウイメンズプラザ(青山)第一会議室(80名収容可)
     JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線 渋谷駅 宮益坂口から徒歩12分、
     東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線 表参道駅 B2出口から徒歩7分、
     都バス(渋88系統)渋谷駅から2つ目(4分)青山学院前バス停から徒歩2分
講 師:松本崇男 氏(江戸連会員、坂学会理事長)
会 費:会員1,000円(会場参加者)、Zoom参加者は無料。
懇親会:無し
その他:Zoom配信あり(無料)。会場参加は30名限定。
    コロナ感染拡大の場合は中止もあります。

報告

・江戸における坂名は300余あった。
・坂名は、10%しかなかった町名を補うものとして、庶民によってつけられた。
・目印・目標物になるものを坂名にした。
  例)人名:佐内坂、堀坂、六角坂
    景観:富士見坂、潮見坂、八景坂
    形状:長坂、大阪
・三年坂は、これらに当てはまらない不思議な名前である。
・三年坂は全国各地に19か所あり、そのうち江戸に6か所ある。
・その多くは江戸時代に名付けられた。
・三年坂は寺・墓地への道筋にあることが多い。
・19か所の三年坂の場所の一覧とそのうち9か所について由来の説明があった(省略)。
・一番古い三年坂は、京都清水寺の参詣道の三年坂である。大同三年(809年)に開かれたとの伝承あり。
・三年坂周辺は鳥辺野への道筋であり、冥界への通り道であった。
・「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」との伝承の由縁でもある。
・清水寺の三年坂の名前が全国に広まった理由は
  *三年坂は清水寺の参道であった。
  *清水寺の勧進活動により、坂名が伝播された。
  *江戸時代に次々と刊行された京都案内(地誌)の影響があった。
・三年坂が産寧坂、再念坂、三念坂とも呼ばれた理由は
  *「三年のうちに死ぬ」という伝承を嫌い、清水寺参詣道にふさわしい坂名に言い換えた。
  *産寧坂:参詣すると安産する。
  *再念坂:再び念が深くなる。
  *三念坂:仏の名を三度念ずる。
・清水寺参詣曼荼羅では、霊場部分が全体の4分の3を占めており、参詣道部分は4分の1で、霊場に至るまでの
 道が圧縮して描かれている。
・参詣道部分:五条橋~六波羅蜜寺~八坂塔~産寧坂(三年坂)~清水寺門前町~(経書堂~大日堂~門前
 茶屋)
・同じころに描かれた「八坂法観寺塔曼荼羅」と比較すると、三年坂、鳥辺野を意図的に避けているようだ。

清水寺参詣道曼荼羅
 

以上     文責:白石 徹



2020年7月講「江戸無血開城-本当の功労者はだれか?」

日 時:7月25日(土)午後3時~5時
場 所:オンラインZoom
講 師:岩下哲典先生 東洋大学文学部史学科教授・博士(歴史学・青山学院大学)
    主な著書:「江戸無血開城」「病とむきあう江戸時代」「津山藩」 
         「高邁なる幕臣・高橋泥舟」「江戸の海外情報ネットワーク」
         「幕末日本の情報活動」「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」
         「徳川慶喜」「江戸のナポレオン伝説」「権力者と江戸のくすり」など他多数
会 費:無料
懇親会:無料

報告

・「山岡鉄舟」「高橋泥舟」「勝海舟」のいわゆる幕末の三舟に関する豊富な資料に基づき、本講演の主題で
 ある「江戸無血開城―本当の功労者はだれか」について語られた。
・聖徳記念絵画館展示「江戸開城談判」に西郷と勝海舟の江戸に於ける江戸無血開城の会談の様子が描かれて
 いるが、これに先立って行われた静岡での西郷と山岡鉄舟との会談が重要である。
・徳川慶喜が江戸城を撤収する前日の夜、旗本を集めた席で「江戸無血開城の最大の功労者は鉄舟である、と
 慶喜から「来国俊之御短刀」を拝領し「一番槍だとの上意」との言葉があった」と、鉄舟から家族宛ての
 書簡にある。
・鉄舟は西郷との会談で慶喜の謹慎の状況を何度も説明し、ついに西郷から江戸城引き渡しの「五箇条ノ御沙汰
 書」を得るが、最後の「慶喜の池田家預り」は断固拒否し、これは保留事項として「四箇条ノ朝命書」を受け
 取った。
・池田家は、慶喜の弟ではあるが勤王思想の強い家であり、また、当時の習慣として他家預りは結果として
 「死」を意味した。
・これを「保留・後日相談事項」としたことは、慶喜の助命が自明のこととなったことを意味した。
・結果、後の江戸会談で慶喜は水戸本家謹慎という極めて軽い処分となった。
・「国俊短刀」は、鉄舟の妻・英子の遺言書の中で「山岡家遺産の家宝の中で筆頭である」とされている。
・「来国俊」の「来」とは、「蓬莱の国から来た」という意味で、刀の価値として上の中以上のものである。
・大久保忠寛から勝海舟に宛てた書簡に、慶喜の意向として、当初、勝を西郷との交渉役に任命したが、勝は
 幕府最後の切り札の「千両箱」であるから、これを取り下げるとある。
・慶喜はその後、その役を高橋泥舟に定めるが、これも思いとどまり、結局、泥舟の推薦により山岡鉄舟に
 決まる。泥舟は山岡の才を高く評価していた。
・慶喜は自分で細かいところまで指示を出す上司である。
・したがって、鉄舟は慶喜から直接交渉役の任命を受けている。世に言う、海舟の代理ではない。
・鉄舟は、慶喜から任命されて初めて海舟に挨拶に行き、そこで、海舟が預かっていた薩摩藩の益光休之助を
 紹介され、彼と共に西郷の処へ行くこととなる。
・慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるが、彼はまた、慶喜に上野寛永寺の謹慎を強く勧めたと言われている。
 静岡会談の筋書きは泥舟が策したともいえる。
・後に、慶喜が公爵に叙された祝宴の席で、慶喜は、泥舟が作った和歌を軍楽隊に二度も演奏させたという。
・幕府側の「江戸無血開城」の一番の功労者は、西郷のもとへ単身乗り込み、その条件を引き出し、慶喜の助命
 まで実質的に実現した山岡鉄舟である。二番目は、高橋泥舟。三番目が勝海舟といえる。朝廷側では、勿論
 これを朝廷側内部で説得した西郷隆盛である。
・後に西郷は、「和宮」や「篤姫」からの接触はあったが、何を言っているのか良くわかなかった、と言って
 いる。朝廷側と幕府側が具体的・実質的に交渉したのは、西郷と山岡の静岡会談が始まりである。

・講演の中で示された多くの資料名については、事前に配布されたレジメを参照されたい。

以上。   文責:白石 徹



2020年6月講「江戸時代の色彩と文化-青の魅力-」

日 時:6月27日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:荻原延元 氏(江戸連会員、日本画家、川村学園女子大学名誉教授)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:なし

報告

(要約)

*Zoomによる初めてのオンライン配信が行われ、リアル参加者23名に対して、16名がオンライン参加となり
 ました。

本講座では、「青の歴史と文化」として ①徳島・阿波藍の歴史文化 ②古伊万里・有田の染付の魅力 ③北斎・広重のブルシャンブルー の3テーマについて語られた。

①徳島・阿波藍の歴史文化
・「魏志倭人伝」によれば、倭国から赤や青に染められた絹織物が献上された、とある。
・奈良時代では藍染を施業とする家が33戸、緋染めの家が30戸あった。
・平安時代には、毎年6月1日から8月末までの3か月間が染めの期間と定められていた。
・江戸時代には、京都の洛中では染屋の数が215軒あった。
・日本の藍染で有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、平安時代の村上天皇の御世の古文書に「阿波の藍を
 最勝とする」と記されている。
・戦国時代には、吉野川流域に藍栽培が広がっていった。
・天正13年、蜂須賀家正が阿波に入国すると、藍栽培がより盛んになった。
・明治時代になるとますます盛んになったが、末期になると、安価なインド藍と合成染料の輸入により日本の
 藍産業は衰退の道をたどる。
・徳島市藍住町の「藍の館」-阿波藍資料館
・藍住町及び近隣の上坂町周辺の地域は蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中、蓼藍の葉を深い甕に
 入れて発酵させ、染料となる「すくも」をつくり、阿波正藍染の伝統技術と文化を守り続けている。
・藍の栽培には良質の「金肥」として、粉末状の干鰯や鰊粕を大量に畑へ撒く必要があり、大変な費用が掛かり
 昔から藍作りは「肥え喰い農業」と呼ばれていた。
・藍の色相

・古代より高い身分の人しか使えなかった「禁色」が各時代にあったが、藍染めの色は誰もが自由に使えること
 ができた。
・明治時代に来日したラフカディオ・ハーンが「あらゆるものが紺色」だと日記に記載。

②古伊万里・有田の染付の魅力
・佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地である。
・江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平氏が鍋島藩内の有田泉山に白磁土を発見し、器の成形と焼成に成功
 したことに始まる。
・当初は李氏朝鮮風であったが、後に中国景徳鎮の影響を受け、呉須(コバルト)を用いて花・風景・瑞祥・
 吉祥文などを生産。
・やがて、白磁に赤の色付けをした柿右衛門様式が誕生。「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器
 をも生産し始める。
・鍋島藩は御用窯を大川内に築き、門外不出とした。朝廷と幕府への献上品と鍋島藩の調度品としてのみ生産。


③北斎・広重のプルシャンブルー
・18世紀初めプロイセンの首都であったベルリンで錬金術師で医師のヨハン・ディッペルの工房で偶然生ま
 れた鮮やかな青色。
・宝暦13年(1763年)平賀源内が「ベイレンブラーウ」として紹介している。
・大変高価で御用絵師でもない限り、浮世絵師の手に入ることはなかった。
・中国が量産に成功しアジア諸国に広まり、やがて日本でも出回るようになった。
・「藍摺り絵」の絵師として人気の渓齊英泉が浮世絵に初めて使用。
・葛飾北斎が70歳を過ぎてから仕上げた「富岳三十六景」にはプルシャンブルーがふんだんに用いられて
 いる。
・初代歌川広重も「東海道五十三次」「名所江戸百景」に、プルシャンブルーを巧みに生かし、江戸っ子
 の粋と爽やかさに満ちた独自の世界を作りだしている。



・以上。他に沢山の資料がありましたが割愛しました。  文責: 白石 徹



2020年2月講「水辺空間から見た中・近世の品川-品川宿の歴史の変容-」

日 時:2月22日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:柘植信行 氏
     品川歴史博物館元副館長・現専門委員
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・国宝「武蔵国品河湊船帳」称名寺所蔵・金沢文庫保管(配布資料参照)によれば、明徳3年(1392年)正月
 から8月に品川に入津した船が明記されている。上段に船名、中段に船主、下段に問(年貢・商品の輸送や
 保管に携わる事業者)が記された台帳である。
・船名や船主から伊勢大湊とのかかわりを伺うことができる。綿貫友子神戸大学教授は三重の伊勢と資料を突き
 合わせて同じものがあると言っている。
・大湊は、元禄8年(1726年)津波でつぶれる迄、伊勢地方の主要な港であった。他に安濃津(現在の津)、
 桑名、三津があった。
・これらの港は伊勢神宮と深いかかわりがあった。
・伊勢神宮は関東に御厨(みくりや)という領地を27か所所有していた。
・鎌倉時代、源頼朝は伊勢神宮との関係を深めるため関東の領地を寄進していた。
・この税の輸送や商取引のため伊勢と関東との往来に太平洋航路が使われていた。
・当時、品川に入る船は帆に対して税金を徴収していたが、伊勢からの船は神人の船「関東渡海之神船」として
 税を免除されていた。
・太平洋海運については文書資料が乏しい。関東各地で出土する、伊勢周辺の陶磁器によって知ることが
 できる。特に常滑の大甕などは船でしか運べないものである。
・中世、西国と東国を結ぶ海運は、伊勢と品川の間で行われていた。
・京都醍醐寺僧堯雅が関東下向を記した「関東下校印可授与記」によれば、伊勢から品川に渡り、そこから船を
 変えて、河川を使って関東各地へ赴いている。
・鎌倉時代、紀姓実直が大井郷に土着、大井姓を名乗る。その後、次男実春が大井姓を次ぎ、三男清実が品河郷
 に入り、品河姓を名乗る。
・実直の子供たちは、その他、春日部氏、堤氏、瀬田氏になどになる。
・品河氏は品河湊の管理を任される。もともと紀氏は伊勢国との関係の深い氏族で、品河氏は伊勢と品河の
 太平洋航路に関わっていた。
・大湊~品河の中間の江尻の港は重要な拠点であった。
・南北朝から室町時代に大井氏、品河氏は西国へ流れ、品川在地の武士団も没落し、海運を背景に町衆が勃興。
 町は大井郷から品川へ移る。鎌倉を支えた港町、後背地となる。
・有力町衆は有徳人と呼ばれ、海運で稼いだ金を寺社へ寄進した。紀伊半島熊野三山の神主出身で、鈴木道胤、
 榎本道琳、他に宇井氏が有名。
・多様な寺社が混在し、いくつかの主要道と寺社の境内・門前によって、自然発生的に町が開かれた。
・戦国時代から北条氏の支配下にかけて、新たな町衆、宇田川氏と鳥海氏が勃興。南北の品川宿が成立。江戸
 時代、宇田川氏は北品川の名主、鳥海氏は南品川の名主となる。
・江戸時代には江戸城を中心として都市が開発され、五街道も整備された。慶長6年(1601年)東海道品川宿
 となる。
・中世に造られた寺が多い品川に、将軍家光の私寺として、厭がる沢庵禅師を住職に据えて東海寺を建立した。
 本山は京都大徳寺、室町から鎌倉初期の釈迦三尊像を祀る。
・元禄7年(1694年)東海寺が焼失し再建されるにあたって、それまで中世の町場を臨む南向きであったもの
 が、再建後は東海道に向く東向きに変更、近世品川の都市的変容を象徴・西国から関東へ入る玄関口としての
 役割から、江戸の発展と共に立場が逆転し、江戸の近郊都市、周辺地域へと変容していった。

以上。    文責:白石 徹



2020年2月特別講「法泉寺釈迦涅槃図と東向島散策」

日 時:2月15日(土)10:30~15:00
場 所:10:30 東武スカイツリーライン 東向島駅改札口集合
行 程:東向島駅~法泉寺(涅槃図拝観・解説・昼食)~13:00白髭神社石碑~鳩の街商店街~
    15:00頃、曳舟駅~浅草駅(自由解散)
案内人:荻原延元 氏(江戸連会員)日本画家、川村学園女子大学名誉教授
会 費:会員2,000円 非会員2,500円(昼食弁当・お布施込み)
その他:定員30名 申込先着順、定員になり次第締め切り

報告

2月15日はお釈迦様の命日である。この日、墨田区の名刹「法泉寺」において涅槃会の法要にちなんで、江戸時代の作とされる大変大きな(縦310㎝ⅹ横218㎝)釈迦涅槃図が本堂に懸架される。法泉寺と関係の深い江戸連会員の荻原延元氏の紹介と、同寺の特別なご厚意により、この日江戸連会員30名がこの涅槃図を拝観できることとなり、急遽2月特別講が実施された。なお、法泉寺さんより立派な資料を多数いただいた。

法泉寺山門                書院にて住職の説明
  

釈迦涅槃図
 荻原延元氏より、仏教説話に基づく個々の人物や動物についての解説を伺い、鑑賞の内容を深めること
 ができた。
  

書院にて昼食(亀戸升本の弁当)        武蔵野(身体にやさしい手作り弁当)
  

 両国(牛ごぼうすきとワイン煮の二色
 味付け弁当)              お寺からのご接待、銀座空也のもなか 
  

法泉寺の文化財
 龍図(本堂)
 

 窪 俊満(くぼ としみつ)の歌碑  千鳥庵鳥奏の歌碑
  

銅像地蔵菩薩立像(延命地蔵)
 背面および衣全体に願主や結衆者等が彫刻されている
  

 永代供養墓・法泉廟(江戸時代の個人墓三百基に囲まれた静かな佇まい。空襲に合わなかったため、
 宝暦年間の過去帳より名前を特定できた)
  

 中山胡民墓(幕末期の蒔絵師。   タブノキ(樹齢600~800年)
 茶道、俳句も嗜む)        源頼朝が隅田川を渡る時、白旗を掛けた
    

この後、白髭神社、子育て地蔵、鳩の街商店街を回り、曳舟駅で解散。

白髭神社                    石碑群
   

 鷲津毅堂の碑(儒学者、永井荷風の
 母方の祖父)             墨田三絶の碑(桐生の織物商)
   

 浜辺黒人(太田南畝らの狂歌仲間) 白髭神社縁起碑      岩瀬忠震供養塔
     

子育て地蔵
 

鳩の街商店街
  

以上。   文責:白石 徹



2020年1月講「東久留米七福神巡り」

集合時間:1月4日(土)午後1時
集合場所:西武池袋線「東久留米駅」改札口
コース:落合川-多門寺(毘沙門天)-沢頭湧水-米津寺(布袋尊)-黒目川-大国寺(寿老人・福禄寿
    ・恵比寿)-黒目川-宝泉寺(弁財天)-浄牧院(大黒天)-東久留米駅
    全行程8㎞(約3時間)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
新年会:午後4時~6時半 「三代目鳥メロ」(東久留米駅西口を出てすぐ左のビルの3階)
    一人4,000円(飲み放題付き・税込)

報告

当日配布されたガイド役の圓山さん・松本さんの案内書に従って、写真を交えて報告します。

13:00 西武池袋線「東久留米駅」集合
 ~
落合川―南沢湧水群とともに平成20年に都内で唯一「平成の名水百選」に選定された。
    都内では、他に昭和60年に「昭和百選」に選ばれた「御岳渓流」「お鷹の道・真姿池湧水群」
    があるのみ
     

    カワセミと出会いました
     

 ~
多聞寺―毘沙門天。真言宗智山派。石神井公園にある三宝寺の末寺
     

 ~
南沢氷川神社―湧水の守護神。祭神は素戔嗚尊・櫛名田姫尊・大己貴尊
    

 ~
南沢湧水―平成の名水百選。日に1万トンの水が湧き出し、一部市内水道に供給
     

米津寺(べいしんじ)―布袋尊。家康と共に江戸へ移住した三河武士の大名米津(よねきつ)氏の菩提寺。
    臨済宗妙心寺派の寺で、後北条の流れをくむ浄牧院を監視する役目を持っていたという
     

 ~
黒目川―市内のさいかち窪を水源とし、落合川と合流。クロメ->クルメが東久留米市の名の元とか

 ~
大圓寺―寿老人・福禄寿・恵比寿。天台宗では本尊は不動明王
     

 ~東久留米駅西口(トイレ休憩)~ 東久留米駅西口 ~
浄牧院―大黒天。曹道宗。八王子城主北条安祝が1444年に開基。樹齢約400年のカヤの木
     

 ~
宝泉寺―弁財天。天台宗。駅までバス利用可
     
 ~
東久留米駅東口
 ~
新年会 「三代目鳥メロ」 東久留米駅西口すぐ

以上。    文責:白石 徹



2019年12月講「江戸の芸能と忘年会」

日 時:12月14日(土) 午後1時半~9時
場 所:堀切菖蒲園静観亭
企 画:13:30~15:00 投扇興(自由参加、無料)
    15:00~17:00 12月講
           「かっぽれ」鈴乃家流かっぽれ家元 鈴乃家梅奴
           「謡曲」圓山代表以下有志会員
           「紙芝居・金色夜叉」江戸がたり家元 寿々方
           「落語・火焔太鼓」花伝亭長太楼師匠
    17:00~17:30 宴会場準備中マジック 三宮氏、白石氏
    17:30~20:00 忘年会
    20:00~21:00 カラオケ大会(自由参加 歌声喫茶愛好会参加)
会 費:講2,000円+忘年会3,000円=5,000円(非会員はいずれも+500円)
その他:原則、会員及びその家族優先。席に余裕がある場合、非会員の参加も可(定員50名)

報告

・12月講に先立って、投扇興が催されました。優勝は圓山さんでした。
  

・12月講の冒頭、「そば連」来年廃止の案内があり、道場主の石綿さんより事情の説明と皆さんへのお礼の
 挨拶がありました。
 

・12月講トップは、鈴乃屋流かっぽれ家元の鈴乃屋梅奴さんの演技
  

・謡「大仏供養」シテ圓山さん、ワキ長谷田さん、ツレ小川さん、地頭一坂さん
 

・紙芝居「金色夜叉」 江戸がたり家元・寿々方さん
  

・落語「火焔太鼓」 花伝亭長太楼さん
  

・忘年会場設営の合間に階下でマジックショー
  白石さん               三宮さん
  

・忘年会
  乾杯                 中締め
  

・カラオケ 冒頭に歌声喫茶愛好会
 

以上



2019年11月講「江戸庶民を夢中にした富籤とご開帳について」

日 時:11月16日(土) 午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:滝口正哉 氏
    成城大学・立正大学などの非常勤講師。近世都市史・文化史の専門家
    著書「千円札にみる江戸の社会」「江戸の祭礼と寺社文化」「江戸の社会と御免富」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・江戸時代は神仏習合の時代で、寺社と言っていたが、明治になって神仏分離が図られ神社が上位とされ、廃仏
 毀釈などが行われ、社寺と呼ばれるようになった。
・江戸幕府は寺社を管理し助成を行った。
  拝料金、拝借金、開帳、御免勧化、相対勧化、御免富、勧進相撲、名目金貸付など
・特に徳川家と由緒があるところは特別に拝料金、拝借金を支給していた。拝料金は無償供与、拝借金は低利
 の融資である。
・元禄、5代将軍綱吉の頃から幕府財政は赤字となり、拝借金・拝料金の支給が困難となったため、以下の施策
 が取られることとなる。
・「開帳」寺社に安置される秘仏を期間を限って公開し寄付を募る。後に変化していく。後述。
・「勧化」募金活動を指す。廻って良い場所と期間が指定された。御免勧化は幕府によってお触れが出て強制力
 が働き、確実に集金できた。他に代行させることも可能。相対勧化は強制力はなく、代行不可で、金が集まり
 にくかった。
・「勧進相撲」見物料は募金となる。業務委託が多い。
・「名目金貸付」貸付をして利子を取る。幕府の後ろ盾があり取り立てが厳しい。次第に名義貸しが進み、商人
 が運用するようになる。
・「御免富」幕府公認の富くじ。富突・突富・富と呼ばれた。一定期間、一定期日に特定の寺社境内で興行を
 許可された。

<富くじ>
・発祥は摂津国箕面滝安寺の「福富」
  戦国時代から江戸初期に出てくる。護符を天皇家へ献上していたのが、庶民へも配布するようになり、
  その際、名前を書いた木札を富箱の中に入れ、箱の上の穴から僧が錐で突き、取り出された木札の名前の者
  に護符を授けるというスタイルであった。賭け事ではなく宗教行事として行われ江戸末期まで行われたが、
  明治時代に中止となり、今から10年前に復活した。やがて、これを真似していろんなところでやるように
  なり、景品を与えるようになり、賞金に変化した。
・江戸の富突は牛込の宝泉寺が鞍馬山の富にならって開始。元禄年間に谷中感応寺が宝泉寺を参考に始める。
 当初、幕府は寺社助成策として、宝泉寺と感応寺のみに許可したが、次第に御免富が浸透、不法富の発生、
 興行の定着化・規格化が進み、請負人が登場するようになる。小銭中心の「銭富」から高額の「金富」に
 変化。
・寛政の改革で一旦下火となるが、文化・文政の頃、復活し爆発的人気を得る。
・江戸・京・大阪に限られたが、興行件数は10か所迄拡大された。
・興行例  札料金 2朱 (1朱=5~6,000円)
       1の富-100両、 2の富-20両、 3の富-10両 ・・・・・・
       札は小分けされ庶民でも買える少額にしたものもある。
 興行は寺社奉行に出願し、年何回、何年間として認められる。賞金の額も寺によって最高額が定められて
 いる。また、寺社の収入安定、資本家の利殖、世話役の営業活動が結びついて、その多くが委託されていた。
 富札は茶屋などでも違法に売られていた。
・影富も流行。影富とは仲間内のノミ行為である。
・富くじは結果として形骸化し、文化としては残ったが寺社の助成にはならなかった。
(閑休話題)第二次大戦、日本政府は戦費捻出のため。昭和20年7月25日「勝札」と称する富くじを発売した
  が、8月25日が抽選日であったため、当選者は出なかった。

<開帳>
・寺社助成策の一環として、寺社奉行の許可を得て、秘仏を期限を限って公開すること。
・収入は、お賽銭、お札・お守りの販売、奉納金などである。
・天候や場所に左右されるため収入は安定しなかった。
・居開帳と出開帳とあった。前者は寺社の秘仏を自社で公開。後者は他所の寺社を借用して公開するもの。
・やがて、マンネリ化してきて展示する秘仏が、宝物に替わり、それが奉納物に替わる。
  奉納物では収入にならず、金を出せば名前を張り出すなども考えられた。
・奉納物が自己顕示の場や店の宣伝の道具として出され、創意工夫を凝らしたものが多く、参詣者の関心を集め
 流行を生む。

<結論>
・「富籤」も「開帳」も結果として寺社の助成にならず、庶民の娯楽として定着していった。

以上。   文責: 白石 徹



2019年10月講「秋の小布施観光日帰りバス旅行」

日 時:10月26日(土)
    出発:午前8時30分 JR荻窪駅北口  帰り:午後8時頃 JR荻窪駅北口
詳 細:以下参照

会 費:会員6,000円、非会員6,500円
その他:定員45名(満員になり次第締め切り。会員及びその家族優先無し)
       案内人:新実正義  幹事:白石 徹

報告

台風19号の影響で、高速道路・上信越道の碓井軽井沢-佐久の間が不通となり、この間は一般道を通ることとなるため、そこでの渋滞、混雑が予想されました。日帰りのバス旅行は難しいと判断され、中止とすることとなりました。



2019年9月講「歌舞伎鑑賞」

日 時:9月21日(土)11時開演(昼の部)
場 所:歌舞伎座3階A席
演 目:極付「幡随長兵衛」    幸四郎、雀右衛門 他
    「お祭り」        梅玉、魁春
    伊賀越道中双六「沼津」  吉右衛門、歌六 他
会 費:会員・非会員共 6,000円

報告



2019年8月講「江戸時代の伊賀者について」

「忍者」といえば、映画や漫画に出てくる彼等のイメージだと思いますが、この講演では、彼等のことではなく、史実の忍者を説明します。それも、伊賀国出身の忍者(その子孫の忍者)である伊賀者についてです。徳川幕府の伊賀者を主に取り上げます。

日 時:8月31日(土) 午後3時~5時
場 所:阿佐谷地域区民センター 第4集会室
    杉並区阿佐谷南1-47-17
講 師:高尾善希(たかおよしき) 氏
    1974年生れ。三重大学国際忍者センター准教授。日本近世史専攻。
    主な著書「やさしい古文書の読み方」(日本実業出版)、「驚きの江戸時代」(柏書房)、
    「忍者の末裔」(角川書店)など
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「いろはにほへと」和食。飲み放題付き4,000円(女性3,500円)
    区民センターから徒歩1分

報告

 

・江戸時代、忍者は「しのびのもの」と呼ばれていた。「にんじゃ」と呼ばれるようになったのは、昭和30年
 頃よりである。
・三重大学の国際忍者センターでは、史実の忍者とフィクションの忍者の両方を研究している。

(1)忍者とは何か
・本格的には、戦国時代、有事に備える特殊技能を持った足軽集団として発展した。これは軍勢の大規模化に
 より、戦い方が専門化していったことによる。鉄砲集団の雑賀衆、根来衆、築城の穴太衆などである。
 その他、伊賀者や甲賀者などは①情報探索②道案内③斥候(敵情偵察)④奇襲⑤守備などの特殊任務に
 就いた。彼らは、下級武士(足軽)や傭兵である。江戸時代になると、江戸城の警備や情報探索が主となる。
・奇襲の例として、大久保彦左衛門の「三河物語」に、武田方が刈谷城に伊賀者80人を入れて城主の首を
 切ったが、その後取り囲まれて全滅した、とある。また「伊賀者由緒書」には、天正10年甲州江草という砦
 に敵が数多く立てこもっていたが、服部半蔵配下の伊賀者が味方を手引して攻め落とした、とある。
・服部半蔵は、忍者ではない。忍者を束ねる管理職。
・上忍と下忍の区別は身分差ではなく、上手・下手の技術の差を指す。
・なぜ伊賀・甲賀に忍者が多いのか? この地域は小城持ちが多く、城の密集度が極めて高く、互いに抗争を
 繰り返し、戦闘技術が高度化、専門化していった。

(2)徳川幕府伊賀者松下家・松下家文書について
・古文書教室の生徒の中に松下恵治さんという人がいて、忍者の末裔で膨大な古文書を所有していた(帳もの
 39点、状もの8点。5代目菊蔵の書いた帳面が多い)。
・初代~9代までの系図あり(省略)。
・2代目松下金左衛門は伊賀者としては最大の禄(30俵二人扶持)を得ていた。これは3斗5升の玄米俵30俵と
 二人扶持で合計40俵ほどもらっていたことになる。しかし、現在の価値に換算すると、年間100万円程度で
 低賃金である。御広敷の上司が、伊賀者の給料が安いという問題意識をもっていた、という文書がある。
・屋敷は四ツ谷鮫河橋谷町、現在の新宿区若葉(地図略)
・マンションが建設されるということで新宿区が発掘調査をしている場所が、松下家とその親戚の遠藤家が
 あった場所である(地図略)。
・伊賀者が住む村々は甲州街道、大山街道、川越街道沿いに配置されており、軍事拠点として使われていた可能
 性あり(地図略)。

(3)徳川幕府伊賀者の制度的位置付け
・御家人身分
・江戸時代は戦争がないので、情報収集・江戸城の守衛に使われる。
 ①大奥御広敷番-経済的離籍はないが晴れがましい役。勤務中は羽織・袴を着用できる。能力的に優れている
 と認められている。②明屋敷番-屋敷替えなどによる空き家の番。誰でもできる。③西の丸山里番-五代目
 菊蔵が初代。④小普請方伊賀者-普請場の現場監督。
・伊賀者は役職名になっている。伊賀者でなくてもそのような仕事に就いたときは、伊賀者と呼ばれる。
 例えば、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番も、伊賀者と呼ばれるようになる。
・伊賀者由緒書きには、家康の伊賀越えを助け、就き従ってきたとあるが、疑わしい。甲賀については資料が
 残っているが、伊賀については一件も見つかっていない。自身を権威づけるために創作したのではないかと
 疑われる。

(4)5代目松下菊蔵について
・筆まめで一番資料が多い。
・10歳で家督相続。最後は本丸御広敷役まで昇進。
・西の丸山里番の時に情報探索をしていた可能性あり。他出の処に御庭御用とあり、将軍から褒美ももらって
 いるのに、筆まめにしては内容の記述がない。

(5)その後の松下家
・9代目松下金五郎天保7年(1836年)~明治4年(1871年)
・伊賀者から外れている。
・外国奉行手附出役の時、東禅寺事件(尊王攘夷の浪人たちが英国公使館に討ち入った事件)に遭遇。
 ビクトリア女王からお褒めのメダルを授与されている。
・16代徳川家当主家達に従って静岡藩に仕える。

以上   文責:白石徹



2019年7月講「江戸時代の花形輸出品は金・銀・銅であった」

江戸時代、武家社会が最も必要としていた輸入品は何といっても絹や絹製品。その支払いの為、日本から大量の金属資源(金・銀・銅)が輸出されました。そのうちあまり知られていない銅輸出に焦点を当て、日本銅の華麗な変身を紹介します。

日 時:7月27日(土) 午後3時~5時
場 所:阿佐谷地域区民センター 第6集会室
    杉並区阿佐谷南1-47-17
講 師:関昭雄 氏
    パンアメリカン(航空会社)のドイツ駐在、ドイツ化学会社を経て、BMWジャパンを
    定年退職。その後、50年近い古銭収集の趣味を生かしてジャパンコインキャビネット
    (西洋古銭の売買)を設立。世界中を飛び回って活躍。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「キタノイチバ 阿佐ヶ谷南口店」和洋食。飲み放題つき会費3,500円
    区民センターから徒歩1分

報告

1)江戸時代の日本への輸入品
  17世紀には、生糸・絹織物を中心とした繊維製品が圧倒的な量を占めていたが、18世紀に入り、元禄の頃
  より皮革・染料・香料・薬物が増え、特に砂糖の量が急増した。
   

2)江戸時代の日本からの輸出品
  ・銀
   当初、メキシコや南アメリカで産出された銀は、ヨーロッパや中国へ運ばれていた。
   主に、絹獲得のためVOCは銀(銀塊)をヨーロッパからアジアへ送った。

       VOCが運んだ銀
       

   やがて、日本の銀がVOCにより1622年以降、本格的に輸出され始めた。
   銀は中国貿易に不可欠、1640年以降はインド、トンキンへ銀輸出本格化。
   銀輸出のピークは1639年(寛永16年)で輸出総額の98%を占める。
   やがて、日本の銀は枯渇し1668年、銀輸出禁止となり、銅が取って代わる。
    

   銀は丁銀という形で出された。慶長丁銀は品位80%であった。
    

  ・金
   輸出は1640年から小判の形で本格化。21,000枚の小判と300枚の大判がバタビア経由でインドの
   スーラトとコロマンデルに送られた。貿易拡大と同地からの生糸の輸入の為。

       大判 中央にオランダの象徴であるライオンの刻印
       

   1641年金輸出禁止。1664年金輸出再開。
   毎年1,000枚~3,000枚の小判がアジア市場向けに輸出された。主にコマンデルやベンガルへ。
   1673年バタビアでは小判が正式通貨として認められ、VOCの主な拠点であるセイロンやマラッカでも
   貨幣として流通した。
   1668年から4年間で約40万両が輸出されるがその後、輸出価格が引き上げられた(1672年)のと、
   品質の低下をオランダ側が敬遠したため、輸出量が減少した。
      慶長小判  品位金857 銀143 重量17.33g
      元禄小判  品位金564 銀436 重量17.81g
      宝永小判  品位金834 銀166 重量9.38g

    慶長小判
      

    文政小判
      

    天保小判
      

    万延小判
      

    小判輸出の終焉 1763年(宝暦13年)
     

  ・銅
   用途:大砲・銃器など軍需品、貨幣、仏像、家庭用品、船のバラストなど
   1620年代はおよそ銀輸出量の4分の1程度であったが、1636年からの寛永通宝の本格生産により、翌年
   輸出禁止令が出たが、1946年に解禁され、1650年代後半から輸出は急上昇する。日本の輸出を支える
   存在となる。
   貨幣(銭)は、寛永通宝以前は中国からの輸入品、宗銭であった。
    

    

3)日本が17世紀の欧州の銅市場に多大な影響を与えた?
  欧州での主な銅供給国はスウェーデン。18世紀以降中国雲南省の銅が出てくる。
  日本の銅は1623年オランダに初上陸、価格が下落。1657年スウェーデン×デンマーク戦争により価格
  高騰。さらに1672年スウェーデン・イギリス・フランス軍のオランダ侵入により、銅の価格が急上昇、
  欧州全体の銅の需要の半分まで日本の銅が賄ったと言われる。
  アジアでは、どこで使われたか?
   ペルシャ:1659年以降減少
   ベンガル:1649年以降
   コロマンデル:1654年から
   スーラト:1652年から。日本銅のアジア最大の消費地。アフガニスタンまで売られた
   セイロン:1670年から。その他、シャム、ベトナム、バタヴィア
   

4)長崎でオランダ商人の為に銅銭を作った?
  1659年長崎奉行はオランダの希望である貨幣鋳造を許可した。
  銭文は北宗銭から引用、書式を変えて判別可能とした。貿易決済に限られた。
  主な輸出先は、慢性的に小銭が不足したベトナム、中国、バタヴィア
  北宋銭に比べて長崎銭は鋳造技術が劣るため、微量の金が含まれていた。
   
   

   

5)金は小判の形で、銀は慶長丁銀の形で、銅は主に棹銅の形で輸出された
  

  

  インドネシア・セイロンでは小銭が不足し、棹銅を切って使った。
   

  銅棹の入った見事な紫檀の箱
  

  

  

  講演
  

*参考文献:山脇悌二朗 「長崎のオランダ商館」 1980年 中公新書
      科野孝蔵 「オランダ東インド会社の歴史」 1988年 同文社
      鈴木康子 「近世日蘭貿易の研究」 2004年 思文閣
      八百啓介 「近世オランダ貿易と鎖国」 1998年 吉川弘文堂

以上。   文責:白石 徹



2019年6月講「日本最大の中世の城郭『小田原城』から最大の近世城郭『江戸城』へ」

日 時:6月22日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:田代道彌 氏
    小田原の城と緑を考える会の会長。元神奈川県自然保全審議会委員
    近世城郭研究の第一人者
    著書「小田原城の古絵図集」「日本城郭体系神奈川県」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華料理「龍府」
    飲み放題つき会費3,500円

報告



当日講師・田代道彌氏が配布した資料は別添11枚だった。講演の主な要旨は下記の通り。

●小田原城の歴史は駿河国黄瀬戸川流域(静岡県裾野市)を根拠地として徐々に勢力を展開してきた大森頼顕氏
 に始まる。上杉禅秀の乱のあと、大森頼顕が小田原に入り、大森氏によって八幡山に築かれたと考えられる。
●城づくりは15世紀半ばから始まった。小田原城は1456年、大森氏によって築城されたとの記録がある。
●明応10(1501)年頃、大森藤頼を遂って北条早雲・氏綱親子は小田原城に入り、北条2代氏綱が初代城主と
 なる。それから1世紀近く北条時代の繁栄が続く。この間、城は外周に水の輪状に城域を拡大し続け、
 いわゆる「輪郭式縄張」を完成させた。
●小田原城は北条2代目氏綱の時代から始まり、3代目氏康の時代に完成した。
●氏康は関八州7万人に声をかけて城づくりに協力させた。
●小田原城は攻撃的な郭が特徴で上杉謙信、武田信玄が攻めたが、城内にうまく誘導されて負けた。氏康の城
 づくりはさすがだ。
●北条3代氏康の偉い点は堅牢な城づくり以外に地元早川の水を利用して「都市水道」を敷設したことだ。
 今でも小田原市内を掘ると、当時の面影を残す「木管」が出てくる。
●城づくりには4つのパターンがあり、輪郭式縄張以外に、連郭式縄=水戸城、方郭式縄張=二条城、円郭式
 縄張=田中城、梯郭式縄張=若松城がある。
●日本最大の中世城郭「小田原城」の堀幅は19m、深さ10m。これほど巨大なものはない。
●小田原城に関する絵図はこれまで50件ほど見てきた。絵図そのものは当時秘密性が高かったので制作年代の
 特定は難しい。私の場合、絵図にある侍や寺社の名前で年代を推察している。
●絵図の傾向は大別すると①城と城下をしっかりと描くもの②城だけしっかりと描くもの③城下だけしっかりと
 描くもの-の3パターンある。
●中世小田原城の発展を外郭で見ると「後期大森氏時代」→「二の丸外郭期」→「三の丸外郭期」→「大外郭
 (総構)成立期」と経る。大外郭成立期は小田原城とその城下を取り巻いて空堀とその内側に土塁を平行
 させ、総延長は3里(12㎞)に達していた。秀吉の攻撃に備えて天正15(1587)年頃~18(1590)年までの
 施工と思われる。
●秀吉攻めに備えて小田原城内に百軒米蔵を作った。北条が滅んだあと、秀吉が米蔵を拝借した。その米蔵は
 その後、江戸城紅葉山付近に移ったという説があるが、この件はまだ調べていない。
●関東にあるお城はいつできたか、ほとんど分かっていないが、江戸城と川越城だけは1456年着工したことが
 はっきりとわかっている。太田道真・太田道灌の親子で着工し完成は1457年、この記録だけは信用できる。
●江戸城の作り方をみると小田原城と一緒。輪郭式縄張となっている。これは家康が小田原城をみて小田原の人
 たちに作らせた。
●その影響で江戸の開発に参加したことを証明する小田原の名残が今も東京日本橋周辺を歩くと「本小田原
 1丁目」「伊勢町」「萬町」「青物町」「道浄橋」などとして町名や橋名などに残っている。
●家康は城づくりで小田原城の輪郭式を模しただけでなく、「都市水道」に関しても、神田上水の開発の際、
 小田原を模して、氏康が採用した小田原用水の技術をしっかりと踏襲した。
●私がいま気になっているのは小田原戦役の際、小田原に籠城して山王口を守備した三浦浄心のことだ。生前、
 天海僧正について自ら浄心寺を建立し逆修塔を建てた。それは上野下寺通りの普門院にあったが、大正年間
 に寛永寺に併合されて塔も仏像も行方不明になったままだ。また浄心が80歳で亡くなった時、上野桜木の
 凌雲寺に墓が建てられたが、昭和30年代に寛永寺に併合され、その後、西洋美術館が建ったこともあり墓も
 所在不明となっている。江戸連の皆さんでこれらのことが分かったら教えてほしい。

【まとめ】小田原城の歴史に関して田代道彌氏は第一人者と称されるだけに2時間の講演の大半は小田原城に終始した。現在御年85歳。小田原高校時代から小田原城に関わったとのこと。連衆から田代講演を拝聴しての感想として「歴史の一断面をきめ細かく証明してもらって大変面白かった」「中世城郭小田原城の築城のノウハウや都市水道用水の敷設の技術が、近世城郭江戸城に引き継がれていたことを知り、ここに歴史ありと感じた」との声が聞けた。(文責・長谷田一平)