江戸連講

2019年1月講「小石川七福神巡り」

集合時間:1月5日(土)午前10時
集合場所:地下鉄丸ノ内線「茗荷谷駅改札口」
コース:茗荷谷駅~深光寺(恵比寿)~蛙坂・切支丹坂・庚申坂~徳雲寺(弁財天)~播磨坂~
    極楽水(弁財天)~宗慶寺(寿老人)~真珠院(布袋尊)~百人坂・伝通院~福聚院
    (大黒天)~沢蔵司稲荷・善光寺坂~堀坂~源覚寺(毘沙門天)~東京ドーム(福禄寿)
    (約2時間~2時間半のコース)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
昼食&新年会:丸ノ内線「後楽園駅」ビル6階「北海道」。食事&飲み放題で3,300円

12月講「江戸の芸能と忘年会」

日 時:12月15日(土) 午後1時半~7時半
場 所:堀切菖蒲園静観亭
企 画:13:30~15:00 投扇興(自由参加、無料)
    15:00~16:30 講
            かっぽれ:鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元、会員)
            江戸語り&紙芝居:寿々方(江戸がたり家元、会員)
            落語:花伝亭長太楼師匠(会員)
    17:00~19:30 忘年会
会 費:講2,000円+忘年会3,000円=5,000円
その他:原則、会員及びその家族優先。席に余裕がある場合、非会員の参加も可。
    非会員参加の場合+500円

11月講「ゴッホ事情今・浮世絵との出会い」

日 時:11月25日(日) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:吉屋 敬氏(オランダ在住画家・作家・ゴッホ研究家・フリーランスジャーナリスト)
    オランダ芸術家協会正会員。日本旅行作家協会評議員。
    1965年オランダに留学。1973年(故)ユリアナ女王戴冠25周年肖像画展で女王の肖像画を描く。
    以後オランダ、ベルギー、アメリカ、日本等で展覧会、講演会、イベント企画等で活躍中。
    作品のコレクション:ハーグ市立美術館、ライデン大学、佐倉市立美術館、鎌倉市(除、個人)
              アムステルダム日本人学校、ロッテルダム日本人学校、等々。
    著書:「楡の木の下で=オランダで想うこと」「母の秘蔵の絵」「みずうみの家」
       「ネーデルランド絵画を読む」「青空の憂鬱-ゴッホの全足跡を辿る旅」
        その他共著多数。
講演内容:一部 Up to dateなゴッホの今事情
     二部 浮世絵との出会いと影響
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:講終了後自由参加。中華料理「龍府」伊場仙ビルより徒歩3分
    食べ放題、飲み放題つき会費3,500円

報告

*ゴッホはどのようにしてゴッホになったか?
 ・アムステルダム国立美術館で「浮世絵とゴッホ」の展覧会が開催された。
 ・ゴッホが浮世絵と出会わなかったらゴッホにならなかった、ということを示している展覧会であった。
 ・吉屋さんは、この展覧会でゴッホについての講演を行った。
 ・アルルで耳を切った後の4枚の絵について:この落ち着いた筆使いは、浮世絵から学んだものである。
 ・パリ近郊の精神病院にいた頃の最晩年の絵は、その筆法は荒れたものであった。調子の良い時と悪い時では
  極端に違いがある。
 ・アントワープに行った時に浮世絵と出会い、何枚か買い求める。
 ・パリに行き印象派と出会い目覚める。
 ・その後、精神を病み、すべての人に拒否されていると感じるようになる。
 ・弟テオの援助でアルルに黄色の家を借りる。画家達の集う協同のアトリエにしようと考えていた。
 ・どうもゴッホは浮世絵が共同作業で出来ていると勘違いして、画家たちの共同制作を目指したようだ。
 ・テオの資金援助で、黄色の家に来た画家には月200フランを与え、その代わりに描いた絵の1枚をテオに
  渡すという条件を付けていたが、誰も来なかった。

*ゴッホとゴーギャン
 ・貧困で食べ物にも困窮していたゴーギャンだけが、この条件に惹かれてやってきた。
 ・しかし彼らは、この黄色の家の中で論争を繰り返していた。

*ゴッホの耳切り事件
 -ゴーギャンの証言―
 ・12月24日ゴッホは剃刀を持ってやって来て、自分に切りつけた。身の危険を感じて逃げ出し、その日は
  ホテルに泊まった。翌日かえって見ると、ゴッホは前夜耳たぶを切り落とし、それを娼婦に与えた。
 ・これはゴーギャンの証言のみで他に誰も証人はいない。
 ・2017年この事実は覆された。
 ・ゴッホの伝記作家が、ゴッホを診たメイ博士に手紙を書き、その返事が来た。
 ・ゴッホは耳たぶではなく、耳全体を切り落としていた。

*ゴッホ病気は何だったか?
 ・恐らく、境界線人格障害(B.P.D.)であったろうと思われる。
 ・気分のムラが激しい。正邪を極端に考える。妄想の中で棄てられることを恐れ、強い不安感を持つ。見捨て
  られたと感じて発症し自殺を図る。
 ・最晩年の「自画像」は安定している。
 ・渦巻の絵は渦巻く大気を表し、彼の狂気ではない。
 ・「狂気の人」の絵は一見、雑に見えるが、よく観察して描かれている。
 ・「ガッシュ博士」の絵のブルーと赤の色は、浮世絵から学んだものである。

*ゴッホの自殺
 ・ゴッホがアルルからパリへ戻って来た時に、テオが画商を辞めるという相談を家族で行っていた。テオは
  画商の方針に反して、当時まだ認められていない印象派の絵を1,000点ばかり売りまくっており、画商から
  クレームがついていた。テオの妻は、テオが画商を辞めることに強く反対していた。さらに彼女がゴッホの
  作品を居間に架けていなかったことでゴッホと論争になり、ゴッホは疎外感を感じ、また自分は見捨てられ
  ていると思い、アルルへ引き返した。屋根裏部屋で左脇腹をピストルで打ち抜き、腹に弾を残したまま、
  ピストルを捨てに外出し、やがて部屋に戻り、息を引き取った。1890年ゴッホ37歳。
 ・自殺者の葬式は教会では許されない為、黄色の家の1階のレストランで行われた。
  壁にゴッホの絵を掛け、葬儀の後、出席者に譲られた。ゴッホは近くの教会の共同墓地に埋葬された。

*テオの死
 ・テオは7月にゴッホの葬式を行い、9月にその遺作展を行い、翌年1月25日に梅毒の悪化によって死去した。
 ・1914年テオの妻ヨウが、ゴッホとテオの書簡集を発表、大変な評判となる。
 ・テオの墓をユトレヒトからゴッホの横へ並べて埋葬し直した。

*ゴッホと江戸
 ・ゴッホは1852年生まれ。これは安政元年。
 ・1867年大政奉還
 ・1868年明治維新:ゴッホ15歳
 ・1869年(明治2年):ゴッホ16歳、ハーグの画商で働き始める。
 ・1885年(明治18年):アントワープで浮世絵に出会う。
 ・1886年(明治19年):ゴッホ33歳、パリへ移住。本格的に浮世絵を収集。
 ・ゴッホがパリに滞在したころは、ジャポニスム全盛であった。
 ・1890年(明治23年):ゴッホ37歳、逝去。
 ・27歳から絵を描き始め、死ぬまでの10年間でその作品は2,000点に及ぶ

*ジャポニスム
 ・1867年パリ万国博覧会。日本政府、薩摩藩、鍋島藩が出展。
 ・1873年ウイーン万国博覧会。日本政府と民間が協力、「起立工商会社」を設立。日本美術を紹介する。
 ・サミエル・ビーム(ユダヤ系ドイツ人、フランスに帰化)なる人物が、日本の美術品を売りまくった。
  ゴッホは、此処に通い600点の浮世絵コレクションを作り上げた。
 ・林忠正なる人物がいた。パリ万博の通訳をしていたが、その後日本の美術品を扱う。
  クオリティの高いものを扱い、正しい日本文化を伝えようと努力していた。一方で彼は印象派の作品を
  集めていたが52歳で亡くなり、ビームの手で売り捌かれた。
 ・パリに留学していた黒田清輝に法律の勉強を辞めさせて絵画の道に行かせたのは林忠正である。
 ・「パリ・ルストレ」という日本美術の本に林が論文を載せているが、その本の表紙の美人画の挿絵を
  ゴッホが模写している。
 ・当時のアカデミズムの主流は宗教画や歴史が出会った。それに対して印象派は自然や身近なものを対象
  とした。アール・ヌーボ(新芸術)と称する。
 ・シャルルブラインド―補色の原理。色を混ぜないで、隣に置くことで網膜の中で混ざる、印象派が考え出し
  た。
 ・クレポン絵。紙を縦・横、皴にして圧縮すると色が濃くなり重厚さが出る。
 ・ゴッホはクレポン画を好み、その感じを油絵の筆使いで出そうとした。
 ・浮世絵にはヨーロッパの絵にはない色の配合が取り込まれており、ゴッホはその色を学び取ろうとして
  いた。
 ・マネは浮世絵には影がないことに衝撃を受けた。
 ・広重の「鯉幟と富士山」「水道橋」「亀戸の梅」などに見られる手前を大きく描く遠近法も彼らにとって
  は、目新しいものであった。
 ・浮世絵は彼らに、色・構図・遠近法・線などで多大な影響を与えた。

*ひまわり
 ・ゴッホはゴーギャンがアルルへ来る以前、ゴーギャンの影響を受けたくないと考えていた。
 ・5枚のひまわりを描いている。
 ・東京・ロンドン・アムステルダムにある。
 ・ゴッホはロンドンにあるひまわりを一番気に入っていた。他はそれの写しである。
 ・東京にあるひまわりの偽物説
  ゴタゴタしている、絵の上の部分に空間がある、サインがない、など。
  粗いジュートのキャンバス地に下塗りせず、厚塗りで描かれている。これはゴーギャンが好んだ手法で、
  ゴーギャンと一緒の時に描かれたと考えられる。また鑑定の結果、絵の上の部分は買い手が後でつぎ足した
  ものと判明。-これは本物である。アムステルダムの絵はその後から描かれたもの。

*その他
 ・ゴッホの絵には、麦・糸杉・コブヤナギが描かれる。
 ・北斎の絵に草だけや、根だけを描いたデッサンがあり、ゴッホも麦だけを描いた。
 ・植物の部分だけを描くという手法は、ヨーロッパのこれまでの絵画にはないものでありゴッホは浮世絵の
  影響を強く受けているといえる。



 以上



10月講「象、旧街道を歩いて江戸へ」

日 時:10月20日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:大谷眞範氏
    岡山在住。五街道をはじめ旧街道を歩き(総延長2,677㎞)、「旧街道を歩く」を出版。
    徳川吉宗の時代にベトナム~長崎~京都~江戸へ旅をした象の話を旧街道の旅と重ね合わせて語る。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華料理店「龍府(ロンフ)」(以前の「天豊」と同じ場所)
    食べ放題、飲み放題。一人3,500円

報告




*徳川吉宗が所望したと言われる。何故か?
 ・吉宗は海外へ興味があった。また軍事用としても興味を持った。
 ・徳川傍系から将軍になったため権威付けを狙った。
 ・宝永地震、富士山噴火、京都の大火、大坂の大火と災害が頻発、明るい話題でのデモンストレーション
  効果を狙った。
 ・当初、神の使いとしての白象を希望したが叶わなかった。


 *船体 長さ39M、幅6.6M、高さ4.3M
 *ベトナムから37日間掛かって長崎へ到着。唐人屋敷の象小屋へ入った。
 *象小屋2ツ、7.9M×3.9M






 *関門海峡は石を運ぶ平らな船を使用。
 *船の揺れで象が暴れるので、その後は瀬戸内海を避け陸路を進む。
 *大阪に3日間逗留
 *京都で中御門天皇に天覧。天皇に会うため殿上人の資格である従4位の位を賜ったとの由(真偽不明)。
  天覧の日4月28日は象の日となる。
 *坂道には砂を撒く。橋は補強。犬や猫を見ると驚くので家内へ入れる。一丁毎に清水を用意する。川は
  歩きまたは船で渡す。船は川が見えないように筵で囲う。
 *桑名は使わず、中山道へ。途中姫街道に象なき坂と呼ばれる急坂がある。
 *箱根は1泊の予定が4泊掛かった。


 *餌代の費用が嵩み、象も大人になると狂暴になり世話人が殺されるという事件も起きたので民間へ引き渡し
  をアナウンス。年間130両の飼育料、見世物OK。


 *現在の中野旭丘公園あたりに見世物小屋を開く。その他に糞を漢方薬として売り、三色饅頭や一文饅頭
  などを売る。
 *死亡原因は栄養失調との説あり。
 *骨や牙を見世物として評判になる。


 *昭和20年5月25日東京空襲





以上



9月講「歌舞伎鑑賞」

日 時:9月9日(日)10時半 歌舞伎座正面集合、11時開演(昼の部)
場 所:歌舞伎座
演 目:金閣寺、鬼揃紅葉狩、河内山
出 演:中村梅玉、松本幸四郎、中村吉右衛門他
会 費:会員・非会員共 6,000円

報告



8月講「江戸の水運と河岸」

日 時:8月25日(土) 午後3時15分~5時
場 所:高井戸区民センター
講 師:菅原健二氏
    東京都中央区立京橋図書館司書・地域資料室担当
    江戸(東京)の都市史研究家として有名、特に川に精通。
    主な著書「川の辞典 江戸・東京23区編」「川の辞典 多摩・東部編」
    「川跡からたどる江戸・東京案内」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・江戸は現在の地面の4メートル下にある。江戸期は天災や火災があり、次第に埋もれていった。現在はアスファルトで覆われているため、堆積することはない。
・かって、江戸・東京の街中には、多くの運河や入堀が張り巡らされていた。
・関東大震災の帝都復興事業で基本的街区、道路、橋が決められた。
・東京オリンピックが開催された1960年代から最近の都市開発によって、水路と水辺空間が失われ街区が大きく変わろうとしている。
<江戸の特徴>
・臨海部の都市。水運は当時唯一の大量・高速輸送手段。
・低地の埋め立てによる都市建設は下水の処理が問題であり、そのための町割りが優先。
・江戸が全国の政治と軍事の中心となり、経済活動も活発化。大量の資材や物資の輸送が必要となり、運河と河岸地を利用した都市造りが行われた。

江戸湊の河岸


<江戸はこうして造られた>




・直営工事は徳川家臣団によって行われ、家康は江戸にいない。
・天下普請とは、必要な資金、資材、人員のすべてを大名の石高に応じて供出させて、工事・役務を行わせるもの。第一次天下普請では、西国の大名三十一家が命じられた。



・第二次天下普請は西国三十四家に命じられたが、途中、大坂の陣の始まりにより中止となる。
・その後、家康が他界し、日光東照宮造営、利根川・鬼怒川流域の川普請が、本多家他十二家に命じられる。
・第三次天下普請は、東北大名八家と黒田家・細川家の十家。



・第四次天下普請は、東北・関東・北陸の七十家。
・第五次天下普請は、百二十家。
<都市河川の誕生>
<上水道の整備>
・玉川上水の完成。新たに造成された市街地と江戸湊に停泊する千石船に給水することを目的とした。
<物揚場と河岸>
・物揚場は大名の敷地で国元からの資材などの陸揚げ施設として利用され、後に蔵屋敷・下屋敷などと呼ばれる。
・河岸は町人地に付属する荷揚場をいった。単に物流センター的な役割だけでなく、商人たちの取引の場としての市場の役割も果たす。



以上。     文責: 白石 徹



7月講「子孫が語る榎本武揚」

日 時:7月21日(土) 午後3時15分~5時
場 所:セシオン杉並
講 師:榎本隆一郎氏
    榎本武揚の玄孫。榎本家に伝わる武揚に関する諸々のエピソードを語っていただきます。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:華屋与兵衛 高円寺店(和食) 一人4,000円(飲み放題付き)

報告



①父は武家の株を買い幕臣となる。5人扶持55両。伊能忠敬の弟子。71歳で他界。
②配布資料あり。省略
③昌平黌に学も成績は良くなかった。当時の慣習の付け届けをしなかったからと思われる。蘭学に興味を持つ。1855年長崎海軍伝習所に入学。カッテンデイッケより高い評価を得る。1858年築地軍艦操練所教授。江川太郎左衛門の門下でジョン万次郎に英語を学ぶ。大鳥啓介はこの時の先輩
④配布資料「年表」参照。省略
⑤配布資料「佐藤家家系図」参照。省略
⑥開陽丸。1855年進水式。1856年完成。帰国。1857年武揚、艦長となる。1868年、明治元年江差沖で座礁。クルップ砲塔載のため重量オーバーでバランスを崩したといわれている。舳先に三つ葉葵が付いていた。開陽とはオランダ語で「夜明け前」の意。
⑦略
⑧敗戦を前に、攻撃方の大将の黒田清隆へオランダで学んだ国際法の書物「海律全書」他、重要な書物を贈る。
⑨略
⑩2年半入牢。牢名主であったという。
⑪講の当日持参。懇親会の折、ジャンケンで一人の会員へ渡された。
⑫黒田清隆が頭を丸めて西郷へ除名嘆願。最初は拒絶されたが、黒田の熱心な嘆願による受け入れられた。
⑬放免後、北海道開拓使。マリアブス号事件発生。駐露全権公使となり「樺太・千島交換条約」を成功させる。公使となるため海軍中将という肩書が作られ付与された。
⑭略
⑮略
⑯酒好きで、様々な処にエピソードを残している。
⑰吉祥寺
⑱略
⑲略
⑳略
㉑隅田川と東京農大世田谷キャンパス内にあり
その他。 家紋は丸に梅鉢。
*ご子孫ならではの榎本武揚の貴重なエピソードをお伺いすることができました。まことに申し訳ないことですが、筆者が次の懇親会の段取りのために席を外すことが多く、その他多くのお話を聞き洩らしており、欠落した内容が多々ありますことをお詫び申し上げます。
特に、後半の流星刀のお話は、写真を示しながらの極めて興味深いお話で、誠に残念で、ご報告できないことは大変申し訳なく思っております。出席の会員の方で、上述の報告内容に付け加える情報をお持ちの方は、是非、江戸連理事の山本さんへ連絡して下さい。





以上。    文責: 白石 徹



6月講「貝原益軒「養生訓」(その2)~認知症は克服できるか」

日 時:6月9日(土) 午後3時~5時
場 所:ハロー貸会議室湯島御徒町
    文京区湯島3-35-9 湯島白川ビル3F
講 師:謝心範氏
    武蔵野学院大学・大学院・教授
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華小皿居酒屋「雅亭」
    食べ放題、飲み放題、一人3,500円

報告

・講師 謝心範先生の履歴と活動
 1953年 上海生まれ
 1981年 上海師範大学卒業
 1987年 来日
 1991年 (株)協通事業設立。代表取締役、社長就任
 1997年 日本国籍を取得
 2016年 武蔵野学院大学博士号取得。学位論文:「養生訓」の分析研究―漢籍の影響
 2016年 同大学、大学院教授就任

 漢方養生食品を開発、米国、欧州、カナダ、中国、日本で合計7件の特許取得。
 現在も認知症に関する漢方製剤に関して特許出願中。
 1999年~2013年 日本及び海外の肝臓学会、癌学会等に於いて40回以上の交流と発表。
 2002年~2005年 特に肝硬変、非アルコール性脂肪肝炎に関する研究論文は日本肝臓学会に於いて2度の
          優秀賞を受賞。
 2006年~2013年 学術専門誌への掲載歴16回
          アメリカ国立医学図書館のデーターベースに於いて15件の研究結果が世界に公開
          されている。
・著書
  「驚異の田七杜仲パワー健康法」 廣済堂出版 平成8年
  「真・養生学」 広葉書林 平成9年
  「日本で買える本場中国の漢方薬ガイド」 講談社 平成10年
  「C型肝炎=肝臓ガンの時代は終わった」 海竜社 平成12年
  「肝臓を元気に」 漢方養生研究所 平成16年

・貝原益軒の経歴
  1630年   黒田藩祐筆、貝原利貞の子として誕生
  1655年25歳 長崎へ2度遊学
  1656年26歳 江戸へ、柔齊と号し医者を志して剃髪
  1658年27歳 京都へ遊学。35歳まで儒学・医学の勉強、著名な学者の教えをうける。
         中でも長崎出身の朱子学者で医者の向井元升の教えを受けた。
  1665年35歳 江戸で正式な藩士の待遇を得る。「黒田家譜」「筑前国続風土記」等を著す。
  1668年38歳 京都へ淋病の治療。下痢・喘息の発作には継続して悩まされる。
  1669年39歳 江戸へ戻る。髪を伸ばし名を九兵衛と改める。秋月藩の友人医師、江月道達の姪、
         のちの東軒夫人(17歳)と結婚。
  1700年70歳 隠居
  その後も85歳で亡くなるまで、幅広分野にわたって著作の整理、完稿、出版を続けた。
 「大和本草」(全16巻、付図2巻)
  益軒生涯の成果ともいえる80歳の時の著作。
  中国・李時珍の「本草綱目」から720種、他の本草書から200種、日本固有種358種など1,362種の
  自然物が引用され、独自の方法で配列されている。
 「養生訓」
  亡くなる前年84歳の時の著作。
  中国の伝統薬学や養生文化関係の文献をまとめ再整理をして、庶民でも読めるように、平易な和文で
  書いたもの。医薬学の専門書ではないにもかかわらず、医学・薬学の内を多く含み、また、儒学・道学
  や仏教の視点、さらに生命と健康、社会道徳と倫理に拘る価値観のなども解説、そのうえ健康な生活を
  守る為の効果的な作法や行動、有益な食材の使用方法、そして心の働きが健康のために重要であること
  まで、医薬学の領域を超えて、こと細かに述べられている。
・生活習慣病
  加齢による発病の側面からの「成人病」の概念から生活習慣重視への視点の転換。
  現段階で生活習慣と疾病との関連が明らかになったものは、食習慣、運動習慣、喫煙、飲酒である。
  ウイルスや細菌による伝染病ではなく、また生活習慣には個人差がある。
・認知症とその予防の可能性
  ・米国の大手製薬会社が「認知症」の研究開発から相次ぎ撤退している。しかし人口の高齢化に伴い
   患者の増加が予想される中、新薬開発への期待は高まるばかりだ。
  ・米食品医薬品旭(FDA)はこれまでに6種類の薬を承認したが、根本的な治療薬は開発されていない。
   一方、ベンチャー企業の活動に期待する動きもある。
  ・日本では漢方薬「抑肝散」が神経症、うつ病、不眠症、幼児夜泣きなどの適用に使用されていること
   に注目し、肝機能改善に効果のある漢方養生食品が認知症の治療につながる可能性を検討した。
  ・田七及び杜仲を含む漢方養生食品について脳細胞への影響と使用者への効果を調査
  ・ニュフィラメントの発現、及び神経細胞の神経突起の伸長を含む神経細胞の分化・成長に有意な効果
   を有する。したがって認知症もしくはその心理症状、又は神経変性疾患の予防もしくは治療に優れた
   効果を有することが期待される。
  ・使用者への効果は、46歳以上の男女62名につて調査。EX-1とEX-2(詳細略)の両方の服用では3年
   未満でも効果の発現がみられた。また高齢者の運転免許統計による高齢運転者で、田七及び杜仲を
   含む漢方養生食品の利用では認知症が疑われる人は見られなかった。さらなるデータの蓄積と分析を
   実施中。
  ・最後に、上述の分析に基づき開発した漢方薬「養脳力」の紹介とサンプルの提供があった。
以上。  文責:白石 徹



5月講「江戸の街はどのように拡大したのか」

日 時:5月13日(日) 午後2時~4時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:黒田涼氏
    早大政経卒。大手新聞社勤務後作家デビュー
    著書「江戸城を歩く」「江戸の大名屋敷を歩く」「江戸の神社・お寺を歩く」
    「東京の名所今昔ものがたり」他多数
    テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍する人気「江戸通人」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円

報告

 黒田涼氏は、大手新聞社勤務後作家デビューされ、江戸に関する多くの著作を出され、テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍される人気「江戸通人」である。したがって黒田氏は、研究者としての立場ではなく、作家としての立場から江戸を語られた。

1.江戸は当初、本当に寒村だったのか? 違うのではないか。
 当時、江戸には既に、浅草湊、江戸湊、品川湊と3つの湊=港があった。江戸から北へ行く道があり、隅田川を渡るので、古くから浅草に湊があった。次に品川湊は、太田道灌の根拠地は御殿山にあり、品川に湊を作った。
 これが道灌の財力の基になったと考えられる。この地には鎌倉時代創建の寺があった。江戸川区長島に古い寺が残っている。江戸川沿いに渡し場があったと考えられる。江戸湊は何処か?日比谷入江は昔は深かった。湊があったと考えられる。当時、石神井川が不忍池からお玉が池を経由して江戸湾に注いでいた。そしてこの川下は円覚寺の荘園があり繁栄していた。家康の頃は浅くなっていたので埋め立てて、江戸湊を日本橋へ移した。
 江戸城のあったところは、局沢(つぼねざわ)と呼ばれ、16もの寺があった。江戸湊の繁栄があり、1,000人規模の集落があったと思われる。戦国時代からみれば、寒村というのは言い過ぎで、家康の功績を大きくするために寒村と言ったと思われる。
 

2.家康は秀吉にはめられたのか?
 鎌倉や小田原には港がなく、大量の物資をさばくことができない。相模湾は大きな津波が来るが、江戸湾は高潮はあるが津波は来ないし、後背地が広い。江戸湾には利根川が注いでおり、北条の旧領地総てに速やかに移動でき、戦後の北条氏の残党平定に有利である。家康は小田和城の東側や北側を攻撃する布陣になっており、秀吉にとっては、家康を三河から切り離すというメリットはあるが、かつて北条と同盟関係にあった家康が北条と手を結ぶと極めて危険である。秀吉は家康を信頼していたとみられる。また、家康にとって、三河から切り離されるということは、拠り所を失った家臣の反乱を防ぐことができるということであり、領地は120万石から250万石に増え、新田開発を進めて行けば将来性のある最適地と考えたであろう。恐らく家康は喜んでいたであろうが、家臣はそうでなかったと思われる。


3.江戸は本当に100万都市だったか?
 江戸の人口数値は農民と寺社地の人口であり、武家の人口は含まれていない。定住人口ではないとみられたと思われる。1位は北京である。武家の人口を加えると110万~120万人ではないか。江戸に入るコメの量は140万石である。一人年間一石を消費すると考えると140万人であるが、飲み水の普及度合いから推定すると、100万人を超えるのは無理があると思われる。


4.家康の都市計画
 徳川3代ぐらいまでは、文字による記録が残っていない。5代綱吉ぐらいから制度、記録がハッキリしてくる。したがって、家康がどのような都市計画を考えていたかは不明である。家康は外堀の中まででしか考えていない。その中を大名、旗本、町人できちんと配置している。これは城下町を堡塁と堀で囲う「総構え」という方式で小田原城が始まりで非常に堅固な城塞都市となっている。したがって、秀吉は城攻めはせず、兵糧攻めに徹した。小田原攻め以降、各地の大名はこの総構えを採用するようになった。
 参勤交代が制度化されるのは3代家光の時代で、家康の頃は想定されていない。参勤交代は幕府が大名の財政圧迫を目論んだもの、という説は嘘。幕府は度々、参勤行列を華美にするなという通達を出しており、華美にしているのは各大名の意地の張り合いである。費用が掛かるのは江戸の屋敷の維持費である。江戸市中がギュウギュウ詰めになったときに、明暦の大火が起きる。その後、総構えの外に街を拡げる。御三家、大大名は外堀の外に、また、寺や神社は江戸防衛の意味もあり、総構えの外の街道沿いに集中的に移転させられた。日比谷稲荷が新橋と八丁堀にあるのは、もともと日比谷にあったものが移転させられたからである。
 

5.江戸の発展
 幕藩体制は、中央集権体制ではない。しかし、参勤交代によって全国の大名が毎年大量の家臣を連れて江戸へやって来る。どのくらいの人数がやって来たかはデータがなく不明であるが、彼らの生活を支えるための町人の数も、それに伴って増える。また、全国から江戸への流通網が整備され、各地に特産物が生まれ、江戸へ送られる。江戸は一大消費都市であり、娯楽・観光・売春都市でもある。
 新田開発によって各地で耕地面積が増えるが、人口は全国で3,000万人を超えたぐらいで頭打ちになる。これは新田開発で土砂が流れ、海岸に砂浜が沢山できるようになり、幕府は自然保護に方針を転換、新田開発を止めた。結果、各地で食えない溢れ者が、江戸へ流れ込んでくることになり、江戸の人口はますます増えた。
 江戸図で朱引きされている枠内が行政区域で、墨引きされている内部が町奉行の管轄範囲内である。
 明治維新になって、武家が江戸から引き揚げ、町人だけになったため、江戸の人口は激減し、60万人ぐらいになった。


黒田涼氏著作集
 「江戸城を歩く」祥伝社新書、「江戸の大名屋敷を歩く」祥伝社新書、「江戸の神社・お寺を歩く 城東編、城西編」各、祥伝社新書、「東京名所 今昔ものがたり」祥伝社黄金文庫、「大軍都・東京を歩く」朝日新書、「おれの細道 江戸東京狭隘路探索」アートダイジェスト社、「美しいNIPPONらしさの研究」ビジネス社、「江戸の街道を歩く」祥伝社新書、「江戸・東京の事件現場を歩く」マイナビ出版、「江戸東京の幕末・維新・開化を歩く」光文社知恵の森文庫



4月総会および講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」

日 時:4月21日(土)
    14:00~15:00 総会
    15:15~17:15 講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」
場 所:高井戸区民センター 第1・2集会室
    井の頭線高井戸駅から徒歩3分
    高井戸区民センター案内
講 師:渡辺憲司氏
    自由学園最高学部長
    著書「江戸遊里盛衰史」「江戸遊里の記憶」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

 渡辺氏は行動の人である。資料をじっくり読みこんでから書くのではなく、考える前に走り出す。変体仮名は難しく、向き不向きがある。漢文ならば読めるだろうと考え、山鹿素行から研究活動を始めた。そしてすぐに平戸へ調査に行った。そこの松浦資料館で松浦静山に接し、松平定綱やその周りの学者・俳人などを調査することになり、最初の学会発表「山鹿素行と松平定綱」となった。博士号は九州大学で取った。全国の県庁所在地の図書館を訪ねて回り、博士論文「近世大名文芸圏研究」にまとめた。その際に、行く先々で、昼間は図書館、夜は昔の遊郭跡や料理屋を巡り、その後の遊里研究につながることになった。
 下関は遊郭の発祥の地である。源平合戦の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が亡くなり、残された官女たちが身過ぎのために、最初花を売っていたが、それがやがて身を売るようになっていった、という伝承がある。今でも下関では、安徳天皇の陵がある赤間神宮まで歩く太夫道中がある。最初の焼香は遊女がやる。下関市史を出すというので、民俗学としての遊女についての執筆を頼まれたのがきっかけで、遊里の研究に入ることになった。下関では、明治天皇の巡幸の時に接待に出たのは遊女だったという。とにかく面白くて、全国の遊郭を訪ね歩いてみるという一念発起。七夕祭りは遊郭の行事、遊女が自分の好きな人に会いたいという思いを短冊に書いて竹笹に吊るした。しかし、仙台の七夕ではそれはない。処によって違うようだ。
 渡辺氏が遊里研究やその話をするときに大事にしている立ち位置がある。それは廊噺は「辛からんことを人情深く」話すこと、即ち「言葉やはらかに、苦界勤めの、つらからん事を、人情深くはなすべし」ということである。氏の著書である「江戸遊里の記憶」の中に次の言葉がある。遊里の悲惨を直視しなければならない。ノスタルジーを感じたり、安易な人情など無用である。ましてや、遊里の文化に一種の憧憬を持つなど、非道である。-中略― 直視とは光を当てることである。そしてその光は影を生じる。遊里の持つ根源的な苦痛に光を当て、その影を追ってみたいと思ったのである。その陰の底に、現代の我々に訴えかける遊里の記憶があるはずである、と。
 人に嫌われる三要素は、相手の過去を聞くことである。即ち、どこの生まれ? なぜ一人なの? 母親は元気? 遊郭では身元を隠し、客も遊女も平等である。 遊郭といっても一律に語ることはできない。場所によって異なる。下関の遊女は足袋を履く。吉原と深川では異なる。吉原の中でも遊女と芸者とは違う。遊女は床の間を背負って上座に座るが、芸者は下座に座る。しかし全国そうだとは限らない。
 一律にどこでも遊郭があったとは言えない。金沢と米沢では、一時期遊郭はなかった。また、殆どの城下町の中には遊郭はなかった。近代、明治以降になってゴチャゴチャになった。遊郭は人の多い処にできる。例えば、軍隊や大会社のある地域など。しかしそれも状況による。旭川に連隊ができたが、連隊長が嫌って遊郭はできなかった。また北見ではキリスト教が強くできなかった。他に遊女の多い処として港が挙げられるが、鉱山も見逃すことはできない。遊郭は人の集まる処にできたため、江差追分やハイヤ節などは、遊郭が伝えてきた。
遊郭には学校(女紅場)があり遊女を教えた。また病院もあった。権力のコントロール下にあった。遊郭の門は「オオモン(大門)」と呼ばれた。これは公式の門に対する呼称。これに対して神社や寺の門は「ダイモン」という。
 子供を公娼にしないために、女の子が生れたときに戸籍に入れないことが、行われていた。なぜならば、公娼になるには戸籍が必要だったからである。 俳句に聞き句というのがある。例えば、芭蕉の句に-秋深し隣は何をする人ぞ-は、孤独な独り身の寂しさか、懐かしく感じるのか両説ある。松尾芭蕉の弟子の其角の句に-闇の世は吉原ばかり月夜かな-という句がある。これはどこで区切るかで意味が違ってくる。-闇の世は、吉原ばかり月夜かな-、-闇の世は吉原ばかり、月夜かな-、と吉原を見るとき常に二面性を見なければならない。レッテルを張ってはならない。
国によって素晴らしい遊女とされる性格が違う。中国-侠、韓国-義、日本-情。
 以上、渡辺憲司先生によって、辛からんことを人情深くお聞きすることができました。



3月講 日帰りバス旅行「江戸と房州・船文化を探る」

日 時:3月17日(土) 午前9時~午後6時
集 合:午前9時 JR東京駅丸の内北口改札口前
会 費:会員6,000円、非会員6,500円(昼食代込み)
定 員:45名(江戸連会員及びその家族)
コース:東京駅-東京湾アクアライン・海ほたる-木更津漁港(昼食)-菱川師宣生誕地・墓地参拝-源頼朝
上陸・再起地見学-館山歴史博物館・渚の博物館-洲崎神社-白浜フラワーライン経由-安房神社-
野島崎灯台・白浜海洋美術館-帰路・東京湾アクアライン-東京駅
案内人:新実氏
昼 食:DSC_0020

報告

 東京駅を予定どおり出発一路房総へ。君津でトイレ休憩、さらに金谷でトイレ休憩すると共に現地ガイドさんが同乗、布良埼神社及び小谷邸へ向かう。当地で二組に分かれてそれぞれを見学。
布良埼神社
 安房神社の祭神天太玉命の孫である天富命を祭神とし、阿波神社が祭殿で布良埼神社は前殿だったと伝えられる。江戸時代までは蔵王権現と呼ばれ、明治初年に布良埼神社と改名した。


小谷邸
 小谷家は江戸期から昭和初期まで続いた上層漁家。分棟型民家の系統を引く建物。明治37(1904)年に洋画家の青木繁が2ヵ月間逗留した建物で、重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。青木繁の作品が幾つか展示されている。
 

次に洲崎神社に向かう
 当神社は天太玉命の后神を祀る式内大社。神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃*命の奉持された御神鏡を神霊として洲辺(すさきべ)の美多良洲山(みたらしやま)に祀られたことに始まる。
 鎌倉時代の治承4(1180)年に安房に逃れた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。
 

 

昼食「漁師料理たてやま」一人1,500円のキンメダイの刺身の入った海鮮丼


 昼食後、すぐ裏手にある「大嚴院」に向かい、境内にある「四面石塔」を見る。
1642(元和10)年、雄誉霊巌上人が建立、高さは219㎝。東西南北の各面に、朝鮮ハングル・中国篆字・和風漢字・印度梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。特に東面の「ハングル字形」が朝鮮国第4代王世宗が1446年に公布したものの短期間で消滅したという創生初期の「東国正韻」式の字形といわれ、韓国にもない非常に貴重なものである(新実氏資料より)。
 

次に向かったのは「渚の博物館」
 

 

菱川師宣博物館と師宣の墓
 

アクアライン・首都高を経由して東京駅着19:00。



2月講「明暦大火前の古地図から見えてくること」

日 時:2月24日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:芳賀啓(ひらく)氏
    出版社社主、地図研究家、エッセイスト、東経大客員教授
    著書「古地図で読み解く江戸東京地形の謎」二見書房
      「デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖」講談社
      「地図・場所・記憶」 けやき出版
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「天豊」を予定。3,500円/人

報告

・太陽は直径10万光年の銀河系の中心から28千光年の位置で時速70万kmのスピードで一周約226百万年を公転している。
・「言葉」がなければ地図といえない。地図は表現ではなく認識である。
・中央(為政者)がいる場所で時間の区切りをしている。江戸時代→東京時代
・「伊能図」は海辺図・経路図である-白い処が多いが形は正確
・これに対して「国絵図」-幕府が国持大名に作らせた正式な地図
・最新版以前の地図は「古地図」とする。
・明治初期の測量図は江戸と現代を繋ぐ役割を持つ。
    1884年測量-1886年製版-18887年出版
      
    点線は神田上水の地下水路(木樋)
    #は木樋につながる井戸
    建物の囲いの中が斜線は木造、クロス線は煉瓦作りまたは土蔵
    色の濃いものは官または共有、薄いものは民間
    点線を青色鉛筆でたどった。江戸時代網の目のように水道が完備されていたことがわかる
・江戸時代に作られていても古地図といえないものがある。
・江戸大絵図・江戸切絵図などほとんど複製品や模写品である。
・復刻版と記され、原図についても記載があるものが正しい。
・「江戸学事典」-江戸の項目存在せず。
・「国史大事典」-第2巻に江戸図の項目あり。
・「古版江戸図集成」全5巻-1959年 蘆田伊人、真山青果
・「江戸切絵図集成」全6巻-斉藤直成
・「明暦江戸大絵図」-三井文庫
    狩野派絵師による。明暦の大火前後を読み込む。江東を描いた最古の地図
      
    江戸切絵図は江戸の住宅地図ではない。将軍に仕える家臣団の配置図
    それが民間に流れ、そのまま使われた。
    道路に町の名前が書かれている-道路がその地域のコミュニティであった。
    御殿-ごてん、将軍が鷹狩の時に使う場所
    木ヤの庄兵へ-江戸に材木を入れている商人
    長崎平蔵-末次平蔵、貿易商、キリシタンから転向、弾圧に加わる。
・「寛永江戸全図」
    測量図。緑のグラデーションが崖を表し、地形が良くわかる。
    高田馬場、中野、新宿、青山、麻布など
以上



1月講「隅田川七福神巡り」

日 時:1月6日(土) 午後1時~4時(予定)
集 合:午後1時 東武東京スカイツリー線(北千住~浅草間)
   「堀切駅」1番線(北千住方面行き)改札口
差 配:圓山氏、松本氏
コース:堀切駅~多聞寺~木母寺~白鬚神社~百花園~長命寺~弘福寺~三囲神社~東京スカイツリー駅
   (約5.5km。2時間半~3時間)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円(百花園の入場料込み)
懇親会:「塚田農場東武浅草駅前店」16:40頃~2時間。飲み放題付き4,000円/人

報告

隅田川七福神巡り 地図


ご集印色紙




12月講「江戸の芸つくし」

日時:12月9日(土) 午後1時半~8時
場所:堀切菖蒲園静観亭
企画:13:30~14:45 投扇興(自由参加、無料)
   14:50~16:35 12月講
           かっぽれ:鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元、会員)
           江戸紙芝居:寿々方(江戸がたり家元、会員)
           謡 曲:圓山代表以下会員有志
           落 語:花伝亭長太楼師匠(会員)
   16:35~17:30 忘年会会場準備中マジック:三宮会員
   17:30~20:00 忘年会
会費:5,000円、講のみ参加は2,000円
定員:講65名、忘年会45名

報告

2017年12月講 「江戸の芸つくし」 投扇興 (親善試合)
12月9日、場所は堀切菖蒲園静観亭、例年通り「江戸の芸つくし」の前座として皆さんに楽しんでいただきました。
参加者15名、始めての方、始めてではないけれども1年ぶりという人が5名、残り10名は投扇連の常連でした。
親善試合とは言え、プレイされた皆さんの表情は真剣でした。
 2ヶ月に一度何年も練習している常連が初心者に負けたら。。。と心配する向きもありましたが、準決勝に残ったのは宮川さん、白石さん、佐藤さん、仲下の常連4名。
投扇興は実力以上に運と言われますが、やはり神様は練習に汗を流した努力に報いてくれました。
決勝は常連に加入したばかりの宮川さんと2011年8月の投扇連発足以来、練習通いをしている仲下の対戦。
「プロとアマの対戦だ」などとうそぶいた仲下の言葉に発奮した宮川さんがいきなりの早蕨( さわらび)、焦る仲下に高得点の技は出ず、試合は最後の10回目にもつれ込み仲下が須磨で7点を出しかろうじてリード。
最後を7点以上の技を出せば優勝と言う場面で少し緊張した宮川さんの一投は惜しくも行幸(みゆき)5点!
24点対23点の1点差で勝負が決まりました。手に汗握る一戦でした。
十分楽しみ前座の役割を果たし、鈴乃家梅奴さんの「かっぽれ」にバトンタッチしました。

1.かっぽれ 鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元)
   演目「奴さん」「深川」「かっぽれ」
    かっぽれ 鈴乃家梅奴

2.謡曲 謡曲連衆(圓山稔、長谷田一平、一坂洋三の各氏)
   演目「隅田川」
    謡曲 謡曲連衆

3.落語 花伝亭長太楼
   演目「二番煎じ」
    落語 花伝亭長太楼

4.忘年会
   37名の会員が参加。



11月講「紀州徳川家の400年」

日 時:11月11日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:徳川宜子(とくがわことこ)氏(紀州徳川家19代当主)
内 容:藩祖徳川頼宣公が元和5年(1619年)紀州へ転封されてから来年で400年を迎えます。
    紀州徳川家の歴史から現代につながる想いを19代当主徳川宜子さんが語ります。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。一人3,500円

報告

・紀州徳川家について
   徳川家康の十男である徳川頼宣が元和元年に(1619年)に55万石を拝領して紀州藩主として和歌山城
  に入城したことで始まる。
  初代・頼宣-2代・光貞-3代・綱教-4代・頼職-5代・頼方(八代将軍吉宗)-6代・宗直-7代・宗将
  -8代・重倫-9代・治貞-10代・治寶-11代・斉順-13代・慶福(十四代将軍家茂)-14代・茂承
  -15代・頼倫-16代・頼貞-17代・頼韶-18代・剛-19代・宜子

・江戸に残る紀州藩ゆかりの地
  上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷があった。火事により所替えがあり、江戸市中に30数か所屋敷跡が
  あった。
 1.竹橋邸  千代田区千代田
    吹上御所近く。元和元年初代頼宣が紀州へ行く前に拝領。
 2.赤坂邸  港区元赤坂
    1603年完成。その後9回火災にあっている。中屋敷から上屋敷に変更。明治4年まで使用。皇居火災の
    折に明治天皇へ献上された。
 3.麹町邸  千代田区紀尾井町
    上屋敷。明暦の火災の後明暦3年(1850年)に拝領。現在の赤坂プリンスホテルの地。屋敷裏に清水が
    湧いていて清水町の地名を今に残す。
 4.千駄ヶ谷邸  渋谷区千駄ヶ谷
    下屋敷。江戸崩壊後、天璋院、家達公が住む。
 5.木挽町邸  中央区銀座
    蔵屋敷。江戸初期に拝領。現在の銀座2丁目の東半分を占める。
 6.松濤邸  渋谷区松濤
    下屋敷。のち鍋島藩に譲る。現在松濤公園。
 7.築地邸  中央区築地
    蔵屋敷。1864年築地ホテルとなる。奇しくも、この地に石橋徳川設計所で築地市場脇公衆便所を
    設計、2014年グッドデザイン賞を受賞。
 8.蛎殻邸  中央区日本橋蛎殻町
    下屋敷。築地が手狭という事で同時期に拝領。

・紀州徳川家とモダ二ティ 近代の紀州徳川家が残したもの
  第15代 徳川頼倫 (明治5年・1872年~大正14年・1925年)   
     日本図書館協会総裁・史跡名勝天然記念物協会会長・侯爵
  ・8歳で田安徳川家より14代茂承の養子となる。
  ・久子と結婚後イギリスのケンブリッジ大学に留学
  ・紀州徳川家の蔵書10万冊を納める南葵文庫を建立。関東大震災後、東大図書館へ寄贈。
  ・皇居火災の折、赤坂邸を明治天皇へ献上。その後飯倉の屋敷に居住。敷地内には西洋造りの建物も
   作られた。
  ・現在の文化財保護法に繋がる、史跡や文化財の保護に尽力。
  ・頼倫公の茶室「高風居」は、現在三鷹の国際基督教大学に移築されている。

  第16代 徳川頼貞 (明治25年・1892年~昭和29年・1954年)
   ユネスコ国会議員連盟会長・全日本音楽協会会長・侯爵
  ・西洋音楽に造詣の深い音楽の殿様
  ・ケンブリッジ大学に留学、音楽の道を志す
  ・大正7年南葵音楽堂を建立。その開堂式では80名あまりの混成管弦楽団によるベートーベンの曲が演奏
   され日本文化への大貢献と評判をよんだ。座席数350名。高名な音楽家を招きしばしばコンサートを
   開催。
   地下の南葵音楽文庫に数多くの音楽関係の資料が収蔵されていた。現在和歌山県立図書館で公開中。
  ・大正7年6月、ベートーベンの第九がドイツ軍の捕虜によって徳島の捕虜収容所で日本で最初に演奏
   されたと聞き、その8月には徳島に演奏を聴きに行っている。
  ・大正9年日本初のアポット・スミス社製のパイプオルガンを設置。関東大震災で南葵音堂は壊れ、パイプ
   オルガンは東京芸大に寄贈された。
  ・2回目のヨーロッパ旅行の折、英国ジョージ5世に拝謁した。其の拝謁の前1週間、拝謁のマナー学校へ
   通ったという。
  ・プッチーニと会談した時に、彼の蝶々夫人のオペラの旋律は日本人としては違和感を感じるとコメント
   した折、中国のオペラの楽譜を頼まれたので帰国後送ったが、どうも届かなかったようだとのエピソード
   あり。

徳川宜子(ことこ)氏 経歴
  東京都出身。紀州徳川家19代当主。
  1977年東洋英和女学院短期大学英文科を卒業後、文化学院で建築を学び1981年卒業、同年大成建設株式
  会社入社。1985年大成建設の石橋利彦氏と共に株式会社石橋徳川建築設計所を設立。
  <著書>
   「建築家のワークスペース-VectorWorks製図ガイド」(石橋氏との共著)
   「相関のデイテール」(石橋氏との共著)
  <事務所の主な作品>
   ケルヒャ―ジャパン本社工場、千葉大学創造工学センター、米澤工機本社ビル、Ī邸、数寄屋橋公園内
   公衆便所、慈眼山成願寺、港南ビル、他

     頼倫公の茶室「高風居」
     高風居

    頼貞公「南葵楽堂」
     南葵楽堂

    徳川宜子氏講演
     徳川宜子氏講演



10月講 歌舞伎鑑賞

日時:10月14日(土) 昼の部(午前11時開演)
演目:極付印度伝 マハーバーラタ戦記
   日印交流60周年に因んでヒンドゥ教の聖典とされる古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」を題材
   にした新作歌舞伎
出演:尾上菊之助、市川左團次 他
会費:6,000円

報告

マハーバーラタ戦記



江戸連有志 東京駅見学会報告

2017年9月22日(金)9:00~12:00

 江戸連会員坂本さんの尽力により、大林組さんのご協力で東京駅見学会が実現しました。現場の安全の都合上、人数は30名に限定されましたが、あっという間に参加者満員となり、その後もキャンセルが出ず、10名のキャンセル待ちの方は残念でした。
朝9時に東京駅丸の内側北口改札集合、大手町の大林組工事事務所へ向かいました。まず、永年東京駅の工事に携わった経験をお持ちの坂本さんから、東京駅の歴史やその時々の東京駅や周辺の様子、駅舎の構造、レンガ又工事のエピソードの紹介がありました。1872年(明治5年)に新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通したのに、東京駅の開業はそれから42年後の1914年(大正3年)とは意外でした。
また、首都圏の鉄道網の整備を委託されたドイツの鉄道技術者のルムシュッテルとバルツアーは、100年後の今日の鉄道の発展を見据えた鉄道造りを実施していた。高架方式、鉄骨造でなく煉瓦方式、駅の拡張を予見等々、ただ、駅舎のデザインは寺院洋式であった為、西洋的近代化を目指す明治政府に採用されず、辰野金吾博士に引き継がれ現在の形になった由。その大きさはほぼ戦艦大和に匹敵するとのこと。
また、帝室用御休憩室(松の間)、貴賓用待合室(竹の間)などを写真で紹介、松の間に飾られた横山大観の絵にまつわるエピソード、工事中に湧き出る地下水の処理に関しての皇居のお堀や白鳥、環境庁・宮内庁・大林組本社とのやり取りなどや、レンガの驚異的頑丈さ等大変面白く説明されました。
ひき続いて大林組の現役現場所長より、本日見学して廻る箇所について、特に北通路改良工事現場について工程や現況の説明を受けました。その後、所長はじめ数名のスタッフ方々の案内で現場見学を実施しました。我々の日常生活のすぐ下や裏でこのような大掛かりな工事が日夜行われているとは、大変な驚きでした。また工事現場が大変綺麗なのは流石でした。以下写真参照。
大林組さん有難うございました。

東京駅見学会1 東京駅見学会2

東京駅見学会3 東京駅見学会4

工事概要書 施工ステップ1

施工ステップ2 施工ステップ3

9月講「江戸期の布工芸について」

日 時:9月16日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:服部早苗さん(江戸連会員)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:天豊

 講演に寄せて、服部さんからコメントを頂きましたので、ご紹介します。 
「日本伝統文様を駆使した作品制作を30年余続けていますが、江戸期の250年の安定した時代は、日本の代表的な工芸品も華開いた時期といえます。そうした中で染織、刺繍など身の回りの工芸について、あれこれひもといてみます。」

 服部さんは、タペストリーから打掛キルトまでたくさんの作品を手がけてきました。また、海外を含めた各地で「布工芸展」を開催し、好評を博しています。
 なお、9月16日~9月30日までの間、伊場仙ビル1階ギャラリーで服部早苗さんの作品展を開催していますので、是非ご覧下さい。

報告

最初に、講師の服部早苗さんから過去30年余の200回あまりになる国内、海外における展示会やショーなどの公演、講演会などの事蹟についての紹介がありました。次に、これまでの展示会の一部を配布されたパンフレットに基づいて丁寧な説明がなされました。

以下に要旨を簡単に報告致します。
・「桃山の夢」と題された京都高台寺のお庭での夜間ライトアップによる展示会(1998年10月7日~13日)
   太陽光は布に良くないとの事で、庭に設えたマネキンにキルトの打掛けを着せ光を当てて展示。
・「風林火山“ヨロイ”とともに」日本橋三越本店新館7階ギャラリー(2007年5月15日~27日)
   元々、父の影響で歴史が好きで、特に武田軍団のファン。
   藍染をテーマに陣羽織をキルトで製作、ヨロイ武者に着せて展示。その他打掛け等。
・「布の優しさと仏像の癒し」初公開の仏像シリーズ・江戸期藍染シリーズを中心に
   大倉集古館(2011年4月2日~5月29日)
   大倉集古館には東京都唯一国宝指定の仏像「普賢菩薩騎象像」が収蔵されている。
   ここでの展示会は稀有のことである。また今回有名な写真家小川光三先生の仏像写真をキャノンの
   最新鋭の技術により布にカラープリントしキルティングし展示することができた。
・「仏像・藍染・打掛~鮮やかに時を再生する布の芸術~」渋谷・東急本店3階イベントサロン
   (2012年12月28日~2013年1月8日)
   江戸後期の豪商や豪農が娘の嫁入り道具として街の普通の紺屋に1年前から注文して作らせた物で
   江戸時代の藍染が今に残っているのは奇跡的。今の価格で1千万円はする。
・「藍染・仏像。布切り絵」品川区O美術館(2017年2月24日~3月8日)
   浮世絵を題材にされた布切り絵は当会場伊場仙ビル1階に展示中

<質疑応答から>
・展示会では毎回主催者からオリジナルな作品の出典を求められ大変。
・作品は貸し倉庫に保管している。独自の美術館は持ちたいがそこまで至っていない。
・海外ではモデルに作品を着せてファッションショーをやったりもしている。
・自分の特徴はカラーにあると思う。カラーセンスは生来のものとの思いが強い。
・奈良時代の色に興味があり、灌仏会の再現を試みたが大変ケバケバシかった。
・色物を使えたのは一部の特権階級のみで庶民には色はなかった。
・江戸時代平和になり後期になって色が使えるようになったが、当初幕府に許可されたのは藍染だけであった。
・山形の紅花1gは金1gと同じで大変高価な物であった。
・奈良東大寺のお水取りの時、紙で作った椿の花に紅花で色付けされていた。
・平安時代に中国との交易が途絶えたときに、特権階級の間では独自のデリケートな色を生み出していった。
・秀吉の朝鮮戦争では陶工ばかりでなく職工も朝鮮から連れ帰り、その後、日本の染色技術は飛躍的に伸びた。
・海外での展示会で打掛けを選んだのは、方形の作品ばかりの中、日本的な特徴を一見して表すには
 打掛けが良いと思った。案の定、好評であった。

<1階エントランスで展示作品の紹介と説明-写真参照>
・仏像のキルトと浮世絵の布切り絵が展示。
・サイズ的に大きな作品が多く展示できないため「室生寺・釈迦如来像」1点のみの展示。
・布切り絵は江戸初期の浮世絵、信長に虐殺された荒木村重一族のたった一人の生き残り岩佐又兵衛
 の浄瑠璃物語を作品化したもの。

講演風景  伊場仙ギャラリー

ギャラリートーク 室生寺・釈迦如来像



江戸連有志 大相撲秋場所観戦報告

日時:2017年9月13日(水)
場所:両国・国技館

 江戸連会員の小嶋さんの尽力により、20名限定で大相撲秋場所4日目の観戦チケットを購入出来る事になり、有志を募ったところ直ぐに満杯となりました。
今場所は、3横綱(白鵬、鶴竜、稀勢の里)、1大関(高安)、3前頭(碧山・宇良・佐田の海)らが休場となり、稀勢の里人気で盛り上がる予定の土俵が淋しく感じられるかと思っていましたが、さすがに現場で生で見る相撲の取り組みは素晴らしく、一番一番興奮させられました。
3横綱が初日から休場するのは昭和以降初めて、3横綱と1大関の休場は1999年3月場所以来18年振り、また幕内7人の同時休場は2005年千秋楽以来12年振りとの事。

館内の様子 幕内力士土俵入り

日馬富士土俵入り 遠藤対豊山

琴奨菊対嘉風 4日目勝敗

8月講「微笑仏の木喰~廻国巡礼と故郷への旅路」

日 時:8月19日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:荻原延元氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 昭和53年5月初旬に甲斐路を数日旅して、平安期や鎌倉期の古刹を巡りながら画帖にスケッチを重ねました。
旅の目的の一つでもあった、木喰上人の故郷である身延・古畑古関を訪ねると、血縁の伊藤平厳氏から”木喰五行”の廻国巡礼についてのお話しを頂き、より一層に微笑仏木喰の魅力を深く感じる事となりました。
14才で江戸に出て様々な仕事についた後、やがて木食戒を受けて56才頃から日本廻国巡礼の旅に出ると、人々の平安を祈り千体造仏の祈願を達成し、93才まで生きた江戸期の偉人であると確信いたしました(荻原延元)。

<講師略歴>
 1947年東京生まれ。武蔵野美術大学を卒業。日本画家・奥村土牛先生・塩出英雄先生に師事。日本美術院所属。
 美術教育に携わり40年間、個展5回、大学紀要ほか著作物など少々。オギ・アートクラブ(代々木・松戸教室)主宰。
昨年、江戸連のお仲間となり、月例講や投扇興などで大いに人生を楽しんでいます。この度の《江戸連》表紙絵を担当。

報告

廻国巡礼による布教・庶民救済の行で数多くの木彫仏や神像を造った僧として円空が有名だが、木喰上人はその円空入寂22年後、享保3年(1718年)に甲斐の国、身延古関丸畑に生まれ、14歳の時に故郷を出て、江戸で働きながら、22歳の時に大山不動尊で古義真言宗の高僧に出会い出家。やがて 45歳で日本廻国の大願をおこし、常陸国で観海上人の弟子となって木喰戒を受けた。やがて全国各地の山村、漁村を巡錫。多くの寺社を詣でて納経。人々の平安を祈り、独自の微笑仏を50歳代後半より千体造像の願をかけて、北海道、九州、四国、島々を巡り多数を造仏した。天明8年71歳で、縁のより日向国分寺の住職となる。73歳の時に伽藍が炎上したことで、国分寺再建に尽した。その後には再び各地を巡錫。83歳に丸畑に戻ると村人の願いを受けて四国堂を共に建立し、弘法大師像と88体仏を造像して開眼。さらに90歳では京都、兵庫において多数の微笑仏を造像し、二千体の造仏を祈願。その後は甲斐へ戻ると甲府の善光寺にて阿弥陀如来図を描き。93歳6月5日至寂の紙位牌を背負い箱に残し、何処かに消え去り、その終焉の地は定かではない。
木喰上人は彫物だけでなく和歌等詩を沢山残している。造形性だけでなく文学性にも優れていた。
木喰上人の作品には子安観音像や子安地蔵菩薩像が多くある。当時子供達が多く亡くなっていたのであろう。
木喰仏の笑顔は上人80歳代後半から始まる。

木喰とは
 五穀(米、麦、粟、黍、大豆)を食さず、塩、火を使わず、木の実、草、そば粉等を食し、木喰戒を守り修行する密教系の行者。生涯、廻国巡礼の僧もいる。

木喰と柳宗悦
 柳宗悦は民藝運動を提唱して、その活動を仲間と進め始めた頃、山梨で木喰仏に出会い、その時の感動を友人の彫刻家に「私の直覺が謝る事無くば、上人は幕末における最大の彫刻家だ」と書き送った。柳はその日から熱情を持って、仲間と共に木喰仏を訪ねて研究。木喰を世に知らしめた。

荻原延元氏「甲斐路」画帖2 荻原延元氏「甲斐路」画帖1

8月講風景 荻原延元氏画「現存する木喰仏の地点」

木喰五行上人 自刻像 木喰五行上人作 三十三観音像 荻原延元氏画「木喰礼賛」