江戸連講

5月講「江戸の謎めいた坂の名前・・・三年坂」

日 時:5月23日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:松本崇男氏(江戸連会員、坂学会理事長)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(予定)

3月講「玉川上水散策その2-三鷹~小金井公園」

集合時間:3月28日(土)午後1時
集合場所:JR吉祥寺駅中央改札口
行  程:井の頭公園~玉川上水/万助橋~紫橋~ぎんなん橋~松美橋~桜橋~境橋~曙橋~梶野橋
     ~小金井橋~小金井公園(散策距離:約8km、散策時間:約3時間)
案 内 人:宮川さん、水越さん(江戸連会員)
参 加 費:会員1,000円、非会員1,500円


「江戸名所花暦」金井橋

 

2月講「水辺空間から見た中・近世の品川-品川宿の歴史の変容-」

日 時:2月22日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:柘植信行氏
     品川歴史博物館元副館長・現専門委員
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・国宝「武蔵国品河湊船帳」称名寺所蔵・金沢文庫保管(配布資料参照)によれば、明徳3年(1392年)正月
 から8月に品川に入津した船が明記されている。上段に船名、中段に船主、下段に問(年貢・商品の輸送や
 保管に携わる事業者)が記された台帳である。
・船名や船主から伊勢大湊とのかかわりを伺うことができる。綿貫友子神戸大学教授は三重の伊勢と資料を突き
 合わせて同じものがあると言っている。
・大湊は、元禄8年(1726年)津波でつぶれる迄、伊勢地方の主要な港であった。他に安濃津(現在の津)、
 桑名、三津があった。
・これらの港は伊勢神宮と深いかかわりがあった。
・伊勢神宮は関東に御厨(みくりや)という領地を27か所所有していた。
・鎌倉時代、源頼朝は伊勢神宮との関係を深めるため関東の領地を寄進していた。
・この税の輸送や商取引のため伊勢と関東との往来に太平洋航路が使われていた。
・当時、品川に入る船は帆に対して税金を徴収していたが、伊勢からの船は神人の船「関東渡海之神船」として
 税を免除されていた。
・太平洋海運については文書資料が乏しい。関東各地で出土する、伊勢周辺の陶磁器によって知ることが
 できる。特に常滑の大甕などは船でしか運べないものである。
・中世、西国と東国を結ぶ海運は、伊勢と品川の間で行われていた。
・京都醍醐寺僧堯雅が関東下向を記した「関東下校印可授与記」によれば、伊勢から品川に渡り、そこから船を
 変えて、河川を使って関東各地へ赴いている。
・鎌倉時代、紀姓実直が大井郷に土着、大井姓を名乗る。その後、次男実春が大井姓を次ぎ、三男清実が品河郷
 に入り、品河姓を名乗る。
・実直の子供たちは、その他、春日部氏、堤氏、瀬田氏になどになる。
・品河氏は品河湊の管理を任される。もともと紀氏は伊勢国との関係の深い氏族で、品河氏は伊勢と品河の
 太平洋航路に関わっていた。
・大湊~品河の中間の江尻の港は重要な拠点であった。
・南北朝から室町時代に大井氏、品河氏は西国へ流れ、品川在地の武士団も没落し、海運を背景に町衆が勃興。
 町は大井郷から品川へ移る。鎌倉を支えた港町、後背地となる。
・有力町衆は有徳人と呼ばれ、海運で稼いだ金を寺社へ寄進した。紀伊半島熊野三山の神主出身で、鈴木道胤、
 榎本道琳、他に宇井氏が有名。
・多様な寺社が混在し、いくつかの主要道と寺社の境内・門前によって、自然発生的に町が開かれた。
・戦国時代から北条氏の支配下にかけて、新たな町衆、宇田川氏と鳥海氏が勃興。南北の品川宿が成立。江戸
 時代、宇田川氏は北品川の名主、鳥海氏は南品川の名主となる。
・江戸時代には江戸城を中心として都市が開発され、五街道も整備された。慶長6年(1601年)東海道品川宿
 となる。
・中世に造られた寺が多い品川に、将軍家光の私寺として、厭がる沢庵禅師を住職に据えて東海寺を建立した。
 本山は京都大徳寺、室町から鎌倉初期の釈迦三尊像を祀る。
・元禄7年(1694年)東海寺が焼失し再建されるにあたって、それまで中世の町場を臨む南向きであったもの
 が、再建後は東海道に向く東向きに変更、近世品川の都市的変容を象徴・西国から関東へ入る玄関口としての
 役割から、江戸の発展と共に立場が逆転し、江戸の近郊都市、周辺地域へと変容していった。

以上。    文責:白石 徹



2月特別講「法泉寺釈迦涅槃図と東向島散策」

日 時:2月15日(土)10:30~15:00
場 所:10:30 東武スカイツリーライン 東向島駅改札口集合
行 程:東向島駅~法泉寺(涅槃図拝観・解説・昼食)~13:00白髭神社石碑~鳩の街商店街~
    15:00頃、曳舟駅~浅草駅(自由解散)
案内人:荻原延元氏(江戸連会員)日本画家、川村学園女子大学名誉教授
会 費:会員2,000円 非会員2,500円(昼食弁当・お布施込み)
その他:定員30名 申込先着順、定員になり次第締め切り

報告

2月15日はお釈迦様の命日である。この日、墨田区の名刹「法泉寺」において涅槃会の法要にちなんで、江戸時代の作とされる大変大きな(縦310㎝ⅹ横218㎝)釈迦涅槃図が本堂に懸架される。法泉寺と関係の深い江戸連会員の荻原延元氏の紹介と、同寺の特別なご厚意により、この日江戸連会員30名がこの涅槃図を拝観できることとなり、急遽2月特別講が実施された。なお、法泉寺さんより立派な資料を多数いただいた。

法泉寺山門                書院にて住職の説明
  

釈迦涅槃図
 荻原延元氏より、仏教説話に基づく個々の人物や動物についての解説を伺い、鑑賞の内容を深めること
 ができた。
  

書院にて昼食(亀戸升本の弁当)        武蔵野(身体にやさしい手作り弁当)
  

 両国(牛ごぼうすきとワイン煮の二色
 味付け弁当)              お寺からのご接待、銀座空也のもなか 
  

法泉寺の文化財
 龍図(本堂)
 

 窪 俊満(くぼ としみつ)の歌碑  千鳥庵鳥奏の歌碑
  

銅像地蔵菩薩立像(延命地蔵)
 背面および衣全体に願主や結衆者等が彫刻されている
  

 永代供養墓・法泉廟(江戸時代の個人墓三百基に囲まれた静かな佇まい。空襲に合わなかったため、
 宝暦年間の過去帳より名前を特定できた)
  

 中山胡民墓(幕末期の蒔絵師。   タブノキ(樹齢600~800年)
 茶道、俳句も嗜む)        源頼朝が隅田川を渡る時、白旗を掛けた
    

この後、白髭神社、子育て地蔵、鳩の街商店街を回り、曳舟駅で解散。

白髭神社                    石碑群
   

 鷲津毅堂の碑(儒学者、永井荷風の
 母方の祖父)             墨田三絶の碑(桐生の織物商)
   

 浜辺黒人(太田南畝らの狂歌仲間) 白髭神社縁起碑      岩瀬忠震供養塔
     

子育て地蔵
 

鳩の街商店街
  

以上。   文責:白石 徹



1月講「東久留米七福神巡り」

集合時間:1月4日(土)午後1時
集合場所:西武池袋線「東久留米駅」改札口
コース:落合川-多門寺(毘沙門天)-沢頭湧水-米津寺(布袋尊)-黒目川-大国寺(寿老人・福禄寿
    ・恵比寿)-黒目川-宝泉寺(弁財天)-浄牧院(大黒天)-東久留米駅
    全行程8㎞(約3時間)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
新年会:午後4時~6時半 「三代目鳥メロ」(東久留米駅西口を出てすぐ左のビルの3階)
    一人4,000円(飲み放題付き・税込)

報告

当日配布されたガイド役の圓山さん・松本さんの案内書に従って、写真を交えて報告します。

13:00 西武池袋線「東久留米駅」集合
 ~
落合川―南沢湧水群とともに平成20年に都内で唯一「平成の名水百選」に選定された。
    都内では、他に昭和60年に「昭和百選」に選ばれた「御岳渓流」「お鷹の道・真姿池湧水群」
    があるのみ
     

    カワセミと出会いました
     

 ~
多聞寺―毘沙門天。真言宗智山派。石神井公園にある三宝寺の末寺
     

 ~
南沢氷川神社―湧水の守護神。祭神は素戔嗚尊・櫛名田姫尊・大己貴尊
    

 ~
南沢湧水―平成の名水百選。日に1万トンの水が湧き出し、一部市内水道に供給
     

米津寺(べいしんじ)―布袋尊。家康と共に江戸へ移住した三河武士の大名米津(よねきつ)氏の菩提寺。
    臨済宗妙心寺派の寺で、後北条の流れをくむ浄牧院を監視する役目を持っていたという
     

 ~
黒目川―市内のさいかち窪を水源とし、落合川と合流。クロメ->クルメが東久留米市の名の元とか

 ~
大圓寺―寿老人・福禄寿・恵比寿。天台宗では本尊は不動明王
     

 ~東久留米駅西口(トイレ休憩)~ 東久留米駅西口 ~
浄牧院―大黒天。曹道宗。八王子城主北条安祝が1444年に開基。樹齢約400年のカヤの木
     

 ~
宝泉寺―弁財天。天台宗。駅までバス利用可
     
 ~
東久留米駅東口
 ~
新年会 「三代目鳥メロ」 東久留米駅西口すぐ

以上。    文責:白石 徹



12月講「江戸の芸能と忘年会」

日 時:12月14日(土) 午後1時半~9時
場 所:堀切菖蒲園静観亭
企 画:13:30~15:00 投扇興(自由参加、無料)
    15:00~17:00 12月講
           「かっぽれ」鈴乃家流かっぽれ家元 鈴乃家梅奴
           「謡曲」圓山代表以下有志会員
           「紙芝居・金色夜叉」江戸がたり家元 寿々方
           「落語・火焔太鼓」花伝亭長太楼師匠
    17:00~17:30 宴会場準備中マジック 三宮氏、白石氏
    17:30~20:00 忘年会
    20:00~21:00 カラオケ大会(自由参加 歌声喫茶愛好会参加)
会 費:講2,000円+忘年会3,000円=5,000円(非会員はいずれも+500円)
その他:原則、会員及びその家族優先。席に余裕がある場合、非会員の参加も可(定員50名)

報告

・12月講に先立って、投扇興が催されました。優勝は圓山さんでした。
  

・12月講の冒頭、「そば連」来年廃止の案内があり、道場主の石綿さんより事情の説明と皆さんへのお礼の
 挨拶がありました。
 

・12月講トップは、鈴乃屋流かっぽれ家元の鈴乃屋梅奴さんの演技
  

・謡「大仏供養」シテ圓山さん、ワキ長谷田さん、ツレ小川さん、地頭一坂さん
 

・紙芝居「金色夜叉」 江戸がたり家元・寿々方さん
  

・落語「火焔太鼓」 花伝亭長太楼さん
  

・忘年会場設営の合間に階下でマジックショー
  白石さん               三宮さん
  

・忘年会
  乾杯                 中締め
  

・カラオケ 冒頭に歌声喫茶愛好会
 

以上



11月講「江戸庶民を夢中にした富籤とご開帳について」

日 時:11月16日(土) 午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:滝口正哉氏
    成城大学・立正大学などの非常勤講師。近世都市史・文化史の専門家
    著書「千円札にみる江戸の社会」「江戸の祭礼と寺社文化」「江戸の社会と御免富」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・江戸時代は神仏習合の時代で、寺社と言っていたが、明治になって神仏分離が図られ神社が上位とされ、廃仏
 毀釈などが行われ、社寺と呼ばれるようになった。
・江戸幕府は寺社を管理し助成を行った。
  拝料金、拝借金、開帳、御免勧化、相対勧化、御免富、勧進相撲、名目金貸付など
・特に徳川家と由緒があるところは特別に拝料金、拝借金を支給していた。拝料金は無償供与、拝借金は低利
 の融資である。
・元禄、5代将軍綱吉の頃から幕府財政は赤字となり、拝借金・拝料金の支給が困難となったため、以下の施策
 が取られることとなる。
・「開帳」寺社に安置される秘仏を期間を限って公開し寄付を募る。後に変化していく。後述。
・「勧化」募金活動を指す。廻って良い場所と期間が指定された。御免勧化は幕府によってお触れが出て強制力
 が働き、確実に集金できた。他に代行させることも可能。相対勧化は強制力はなく、代行不可で、金が集まり
 にくかった。
・「勧進相撲」見物料は募金となる。業務委託が多い。
・「名目金貸付」貸付をして利子を取る。幕府の後ろ盾があり取り立てが厳しい。次第に名義貸しが進み、商人
 が運用するようになる。
・「御免富」幕府公認の富くじ。富突・突富・富と呼ばれた。一定期間、一定期日に特定の寺社境内で興行を
 許可された。

<富くじ>
・発祥は摂津国箕面滝安寺の「福富」
  戦国時代から江戸初期に出てくる。護符を天皇家へ献上していたのが、庶民へも配布するようになり、
  その際、名前を書いた木札を富箱の中に入れ、箱の上の穴から僧が錐で突き、取り出された木札の名前の者
  に護符を授けるというスタイルであった。賭け事ではなく宗教行事として行われ江戸末期まで行われたが、
  明治時代に中止となり、今から10年前に復活した。やがて、これを真似していろんなところでやるように
  なり、景品を与えるようになり、賞金に変化した。
・江戸の富突は牛込の宝泉寺が鞍馬山の富にならって開始。元禄年間に谷中感応寺が宝泉寺を参考に始める。
 当初、幕府は寺社助成策として、宝泉寺と感応寺のみに許可したが、次第に御免富が浸透、不法富の発生、
 興行の定着化・規格化が進み、請負人が登場するようになる。小銭中心の「銭富」から高額の「金富」に
 変化。
・寛政の改革で一旦下火となるが、文化・文政の頃、復活し爆発的人気を得る。
・江戸・京・大阪に限られたが、興行件数は10か所迄拡大された。
・興行例  札料金 2朱 (1朱=5~6,000円)
       1の富-100両、 2の富-20両、 3の富-10両 ・・・・・・
       札は小分けされ庶民でも買える少額にしたものもある。
 興行は寺社奉行に出願し、年何回、何年間として認められる。賞金の額も寺によって最高額が定められて
 いる。また、寺社の収入安定、資本家の利殖、世話役の営業活動が結びついて、その多くが委託されていた。
 富札は茶屋などでも違法に売られていた。
・影富も流行。影富とは仲間内のノミ行為である。
・富くじは結果として形骸化し、文化としては残ったが寺社の助成にはならなかった。
(閑休話題)第二次大戦、日本政府は戦費捻出のため。昭和20年7月25日「勝札」と称する富くじを発売した
  が、8月25日が抽選日であったため、当選者は出なかった。

<開帳>
・寺社助成策の一環として、寺社奉行の許可を得て、秘仏を期限を限って公開すること。
・収入は、お賽銭、お札・お守りの販売、奉納金などである。
・天候や場所に左右されるため収入は安定しなかった。
・居開帳と出開帳とあった。前者は寺社の秘仏を自社で公開。後者は他所の寺社を借用して公開するもの。
・やがて、マンネリ化してきて展示する秘仏が、宝物に替わり、それが奉納物に替わる。
  奉納物では収入にならず、金を出せば名前を張り出すなども考えられた。
・奉納物が自己顕示の場や店の宣伝の道具として出され、創意工夫を凝らしたものが多く、参詣者の関心を集め
 流行を生む。

<結論>
・「富籤」も「開帳」も結果として寺社の助成にならず、庶民の娯楽として定着していった。

以上。   文責: 白石 徹



10月講「秋の小布施観光日帰りバス旅行」

日 時:10月26日(土)
    出発:午前8時30分 JR荻窪駅北口  帰り:午後8時頃 JR荻窪駅北口
詳 細:以下参照

会 費:会員6,000円、非会員6,500円
その他:定員45名(満員になり次第締め切り。会員及びその家族優先無し)
       案内人:新実正義  幹事:白石 徹

報告

台風19号の影響で、高速道路・上信越道の碓井軽井沢-佐久の間が不通となり、この間は一般道を通ることとなるため、そこでの渋滞、混雑が予想されました。日帰りのバス旅行は難しいと判断され、中止とすることとなりました。



9月講「歌舞伎鑑賞」

日 時:9月21日(土)11時開演(昼の部)
場 所:歌舞伎座3階A席
演 目:極付「幡随長兵衛」    幸四郎、雀右衛門 他
    「お祭り」        梅玉、魁春
    伊賀越道中双六「沼津」  吉右衛門、歌六 他
会 費:会員・非会員共 6,000円

報告



8月講「江戸時代の伊賀者について」

「忍者」といえば、映画や漫画に出てくる彼等のイメージだと思いますが、この講演では、彼等のことではなく、史実の忍者を説明します。それも、伊賀国出身の忍者(その子孫の忍者)である伊賀者についてです。徳川幕府の伊賀者を主に取り上げます。

日 時:8月31日(土) 午後3時~5時
場 所:阿佐谷地域区民センター 第4集会室
    杉並区阿佐谷南1-47-17 地図
講 師:高尾 善希(たかお よしき)氏
    1974年生れ。三重大学国際忍者センター准教授。日本近世史専攻。
    主な著書「やさしい古文書の読み方」(日本実業出版)、「驚きの江戸時代」(柏書房)、
    「忍者の末裔」(角川書店)など
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「いろはにほへと」和食。飲み放題付き4,000円(女性3,500円)
    区民センターから徒歩1分

報告

 

・江戸時代、忍者は「しのびのもの」と呼ばれていた。「にんじゃ」と呼ばれるようになったのは、昭和30年
 頃よりである。
・三重大学の国際忍者センターでは、史実の忍者とフィクションの忍者の両方を研究している。

(1)忍者とは何か
・本格的には、戦国時代、有事に備える特殊技能を持った足軽集団として発展した。これは軍勢の大規模化に
 より、戦い方が専門化していったことによる。鉄砲集団の雑賀衆、根来衆、築城の穴太衆などである。
 その他、伊賀者や甲賀者などは①情報探索②道案内③斥候(敵情偵察)④奇襲⑤守備などの特殊任務に
 就いた。彼らは、下級武士(足軽)や傭兵である。江戸時代になると、江戸城の警備や情報探索が主となる。
・奇襲の例として、大久保彦左衛門の「三河物語」に、武田方が刈谷城に伊賀者80人を入れて城主の首を
 切ったが、その後取り囲まれて全滅した、とある。また「伊賀者由緒書」には、天正10年甲州江草という砦
 に敵が数多く立てこもっていたが、服部半蔵配下の伊賀者が味方を手引して攻め落とした、とある。
・服部半蔵は、忍者ではない。忍者を束ねる管理職。
・上忍と下忍の区別は身分差ではなく、上手・下手の技術の差を指す。
・なぜ伊賀・甲賀に忍者が多いのか? この地域は小城持ちが多く、城の密集度が極めて高く、互いに抗争を
 繰り返し、戦闘技術が高度化、専門化していった。

(2)徳川幕府伊賀者松下家・松下家文書について
・古文書教室の生徒の中に松下恵治さんという人がいて、忍者の末裔で膨大な古文書を所有していた(帳もの
 39点、状もの8点。5代目菊蔵の書いた帳面が多い)。
・初代~9代までの系図あり(省略)。
・2代目松下金左衛門は伊賀者としては最大の禄(30俵二人扶持)を得ていた。これは3斗5升の玄米俵30俵と
 二人扶持で合計40俵ほどもらっていたことになる。しかし、現在の価値に換算すると、年間100万円程度で
 低賃金である。御広敷の上司が、伊賀者の給料が安いという問題意識をもっていた、という文書がある。
・屋敷は四ツ谷鮫河橋谷町、現在の新宿区若葉(地図略)
・マンションが建設されるということで新宿区が発掘調査をしている場所が、松下家とその親戚の遠藤家が
 あった場所である(地図略)。
・伊賀者が住む村々は甲州街道、大山街道、川越街道沿いに配置されており、軍事拠点として使われていた可能
 性あり(地図略)。

(3)徳川幕府伊賀者の制度的位置付け
・御家人身分
・江戸時代は戦争がないので、情報収集・江戸城の守衛に使われる。
 ①大奥御広敷番-経済的離籍はないが晴れがましい役。勤務中は羽織・袴を着用できる。能力的に優れている
 と認められている。②明屋敷番-屋敷替えなどによる空き家の番。誰でもできる。③西の丸山里番-五代目
 菊蔵が初代。④小普請方伊賀者-普請場の現場監督。
・伊賀者は役職名になっている。伊賀者でなくてもそのような仕事に就いたときは、伊賀者と呼ばれる。
 例えば、八代将軍吉宗が紀州から連れてきたお庭番も、伊賀者と呼ばれるようになる。
・伊賀者由緒書きには、家康の伊賀越えを助け、就き従ってきたとあるが、疑わしい。甲賀については資料が
 残っているが、伊賀については一件も見つかっていない。自身を権威づけるために創作したのではないかと
 疑われる。

(4)5代目松下菊蔵について
・筆まめで一番資料が多い。
・10歳で家督相続。最後は本丸御広敷役まで昇進。
・西の丸山里番の時に情報探索をしていた可能性あり。他出の処に御庭御用とあり、将軍から褒美ももらって
 いるのに、筆まめにしては内容の記述がない。

(5)その後の松下家
・9代目松下金五郎天保7年(1836年)~明治4年(1871年)
・伊賀者から外れている。
・外国奉行手附出役の時、東禅寺事件(尊王攘夷の浪人たちが英国公使館に討ち入った事件)に遭遇。
 ビクトリア女王からお褒めのメダルを授与されている。
・16代徳川家当主家達に従って静岡藩に仕える。

以上   文責:白石徹



7月講「江戸時代の花形輸出品は金・銀・銅であった」

江戸時代、武家社会が最も必要としていた輸入品は何といっても絹や絹製品。その支払いの為、日本から大量の金属資源(金・銀・銅)が輸出されました。そのうちあまり知られていない銅輸出に焦点を当て、日本銅の華麗な変身を紹介します。

日 時:7月27日(土) 午後3時~5時
場 所:阿佐谷地域区民センター 第6集会室
    杉並区阿佐谷南1-47-17
講 師:関昭雄氏
    パンアメリカン(航空会社)のドイツ駐在、ドイツ化学会社を経て、BMWジャパンを
    定年退職。その後、50年近い古銭収集の趣味を生かしてジャパンコインキャビネット
    (西洋古銭の売買)を設立。世界中を飛び回って活躍。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「キタノイチバ 阿佐ヶ谷南口店」和洋食。飲み放題つき会費3,500円
    区民センターから徒歩1分

報告

1)江戸時代の日本への輸入品
  17世紀には、生糸・絹織物を中心とした繊維製品が圧倒的な量を占めていたが、18世紀に入り、元禄の頃
  より皮革・染料・香料・薬物が増え、特に砂糖の量が急増した。
   

2)江戸時代の日本からの輸出品
  ・銀
   当初、メキシコや南アメリカで産出された銀は、ヨーロッパや中国へ運ばれていた。
   主に、絹獲得のためVOCは銀(銀塊)をヨーロッパからアジアへ送った。

       VOCが運んだ銀
       

   やがて、日本の銀がVOCにより1622年以降、本格的に輸出され始めた。
   銀は中国貿易に不可欠、1640年以降はインド、トンキンへ銀輸出本格化。
   銀輸出のピークは1639年(寛永16年)で輸出総額の98%を占める。
   やがて、日本の銀は枯渇し1668年、銀輸出禁止となり、銅が取って代わる。
    

   銀は丁銀という形で出された。慶長丁銀は品位80%であった。
    

  ・金
   輸出は1640年から小判の形で本格化。21,000枚の小判と300枚の大判がバタビア経由でインドの
   スーラトとコロマンデルに送られた。貿易拡大と同地からの生糸の輸入の為。

       大判 中央にオランダの象徴であるライオンの刻印
       

   1641年金輸出禁止。1664年金輸出再開。
   毎年1,000枚~3,000枚の小判がアジア市場向けに輸出された。主にコマンデルやベンガルへ。
   1673年バタビアでは小判が正式通貨として認められ、VOCの主な拠点であるセイロンやマラッカでも
   貨幣として流通した。
   1668年から4年間で約40万両が輸出されるがその後、輸出価格が引き上げられた(1672年)のと、
   品質の低下をオランダ側が敬遠したため、輸出量が減少した。
      慶長小判  品位金857 銀143 重量17.33g
      元禄小判  品位金564 銀436 重量17.81g
      宝永小判  品位金834 銀166 重量9.38g

    慶長小判
      

    文政小判
      

    天保小判
      

    万延小判
      

    小判輸出の終焉 1763年(宝暦13年)
     

  ・銅
   用途:大砲・銃器など軍需品、貨幣、仏像、家庭用品、船のバラストなど
   1620年代はおよそ銀輸出量の4分の1程度であったが、1636年からの寛永通宝の本格生産により、翌年
   輸出禁止令が出たが、1946年に解禁され、1650年代後半から輸出は急上昇する。日本の輸出を支える
   存在となる。
   貨幣(銭)は、寛永通宝以前は中国からの輸入品、宗銭であった。
    

    

3)日本が17世紀の欧州の銅市場に多大な影響を与えた?
  欧州での主な銅供給国はスウェーデン。18世紀以降中国雲南省の銅が出てくる。
  日本の銅は1623年オランダに初上陸、価格が下落。1657年スウェーデン×デンマーク戦争により価格
  高騰。さらに1672年スウェーデン・イギリス・フランス軍のオランダ侵入により、銅の価格が急上昇、
  欧州全体の銅の需要の半分まで日本の銅が賄ったと言われる。
  アジアでは、どこで使われたか?
   ペルシャ:1659年以降減少
   ベンガル:1649年以降
   コロマンデル:1654年から
   スーラト:1652年から。日本銅のアジア最大の消費地。アフガニスタンまで売られた
   セイロン:1670年から。その他、シャム、ベトナム、バタヴィア
   

4)長崎でオランダ商人の為に銅銭を作った?
  1659年長崎奉行はオランダの希望である貨幣鋳造を許可した。
  銭文は北宗銭から引用、書式を変えて判別可能とした。貿易決済に限られた。
  主な輸出先は、慢性的に小銭が不足したベトナム、中国、バタヴィア
  北宋銭に比べて長崎銭は鋳造技術が劣るため、微量の金が含まれていた。
   
   

   

5)金は小判の形で、銀は慶長丁銀の形で、銅は主に棹銅の形で輸出された
  

  

  インドネシア・セイロンでは小銭が不足し、棹銅を切って使った。
   

  銅棹の入った見事な紫檀の箱
  

  

  

  講演
  

*参考文献:山脇悌二朗 「長崎のオランダ商館」 1980年 中公新書
      科野孝蔵 「オランダ東インド会社の歴史」 1988年 同文社
      鈴木康子 「近世日蘭貿易の研究」 2004年 思文閣
      八百啓介 「近世オランダ貿易と鎖国」 1998年 吉川弘文堂

以上。   文責:白石 徹



6月講「日本最大の中世の城郭『小田原城』から最大の近世城郭『江戸城』へ」

日 時:6月22日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:田代道彌氏
    小田原の城と緑を考える会の会長。元神奈川県自然保全審議会委員
    近世城郭研究の第一人者
    著書「小田原城の古絵図集」「日本城郭体系神奈川県」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華料理「龍府」
    飲み放題つき会費3,500円

報告



当日講師・田代道彌氏が配布した資料は別添11枚だった。講演の主な要旨は下記の通り。

●小田原城の歴史は駿河国黄瀬戸川流域(静岡県裾野市)を根拠地として徐々に勢力を展開してきた大森頼顕氏
 に始まる。上杉禅秀の乱のあと、大森頼顕が小田原に入り、大森氏によって八幡山に築かれたと考えられる。
●城づくりは15世紀半ばから始まった。小田原城は1456年、大森氏によって築城されたとの記録がある。
●明応10(1501)年頃、大森藤頼を遂って北条早雲・氏綱親子は小田原城に入り、北条2代氏綱が初代城主と
 なる。それから1世紀近く北条時代の繁栄が続く。この間、城は外周に水の輪状に城域を拡大し続け、
 いわゆる「輪郭式縄張」を完成させた。
●小田原城は北条2代目氏綱の時代から始まり、3代目氏康の時代に完成した。
●氏康は関八州7万人に声をかけて城づくりに協力させた。
●小田原城は攻撃的な郭が特徴で上杉謙信、武田信玄が攻めたが、城内にうまく誘導されて負けた。氏康の城
 づくりはさすがだ。
●北条3代氏康の偉い点は堅牢な城づくり以外に地元早川の水を利用して「都市水道」を敷設したことだ。
 今でも小田原市内を掘ると、当時の面影を残す「木管」が出てくる。
●城づくりには4つのパターンがあり、輪郭式縄張以外に、連郭式縄=水戸城、方郭式縄張=二条城、円郭式
 縄張=田中城、梯郭式縄張=若松城がある。
●日本最大の中世城郭「小田原城」の堀幅は19m、深さ10m。これほど巨大なものはない。
●小田原城に関する絵図はこれまで50件ほど見てきた。絵図そのものは当時秘密性が高かったので制作年代の
 特定は難しい。私の場合、絵図にある侍や寺社の名前で年代を推察している。
●絵図の傾向は大別すると①城と城下をしっかりと描くもの②城だけしっかりと描くもの③城下だけしっかりと
 描くもの-の3パターンある。
●中世小田原城の発展を外郭で見ると「後期大森氏時代」→「二の丸外郭期」→「三の丸外郭期」→「大外郭
 (総構)成立期」と経る。大外郭成立期は小田原城とその城下を取り巻いて空堀とその内側に土塁を平行
 させ、総延長は3里(12㎞)に達していた。秀吉の攻撃に備えて天正15(1587)年頃~18(1590)年までの
 施工と思われる。
●秀吉攻めに備えて小田原城内に百軒米蔵を作った。北条が滅んだあと、秀吉が米蔵を拝借した。その米蔵は
 その後、江戸城紅葉山付近に移ったという説があるが、この件はまだ調べていない。
●関東にあるお城はいつできたか、ほとんど分かっていないが、江戸城と川越城だけは1456年着工したことが
 はっきりとわかっている。太田道真・太田道灌の親子で着工し完成は1457年、この記録だけは信用できる。
●江戸城の作り方をみると小田原城と一緒。輪郭式縄張となっている。これは家康が小田原城をみて小田原の人
 たちに作らせた。
●その影響で江戸の開発に参加したことを証明する小田原の名残が今も東京日本橋周辺を歩くと「本小田原
 1丁目」「伊勢町」「萬町」「青物町」「道浄橋」などとして町名や橋名などに残っている。
●家康は城づくりで小田原城の輪郭式を模しただけでなく、「都市水道」に関しても、神田上水の開発の際、
 小田原を模して、氏康が採用した小田原用水の技術をしっかりと踏襲した。
●私がいま気になっているのは小田原戦役の際、小田原に籠城して山王口を守備した三浦浄心のことだ。生前、
 天海僧正について自ら浄心寺を建立し逆修塔を建てた。それは上野下寺通りの普門院にあったが、大正年間
 に寛永寺に併合されて塔も仏像も行方不明になったままだ。また浄心が80歳で亡くなった時、上野桜木の
 凌雲寺に墓が建てられたが、昭和30年代に寛永寺に併合され、その後、西洋美術館が建ったこともあり墓も
 所在不明となっている。江戸連の皆さんでこれらのことが分かったら教えてほしい。

【まとめ】小田原城の歴史に関して田代道彌氏は第一人者と称されるだけに2時間の講演の大半は小田原城に終始した。現在御年85歳。小田原高校時代から小田原城に関わったとのこと。連衆から田代講演を拝聴しての感想として「歴史の一断面をきめ細かく証明してもらって大変面白かった」「中世城郭小田原城の築城のノウハウや都市水道用水の敷設の技術が、近世城郭江戸城に引き継がれていたことを知り、ここに歴史ありと感じた」との声が聞けた。(文責・長谷田一平)

















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できるだけ信用のおける資料に基づき、小塚原・鈴ヶ森の歴史について考える。

・両仕置場は江戸の街の拡大と共に外に出て行った。
  小塚原:本町四丁目辺り~浅草鳥越橋辺り~浅草聖天町~寛文7年(1667)小塚原(中村町)
  鈴ヶ森:高輪辺り?~慶安4年(1651)鈴ヶ森
・悪地で耕作できない土地、水が溜まりやすい低地などが選ばれた。また、人の通行の多い処に置かれている。


  小塚原:草、茫々として、ものすごく、見る人誰か哀れを知らざらん。(盛岡藩増補行程記)
  鈴ヶ森:人間の首や手足を切った胴体が、死んだ家畜の腐肉の間に混じって横たわっていた。やせた大きな
      犬が飢えて大口を開け、腐った人間の体を食いまわっていた。(ケンペル 江戸参府旅行日記)

・描かれた仕置場






・埋葬機能の有無
  鈴ヶ森には埋葬しなかった。小塚原では、隣に回向院があり埋葬可能であった。
  取り捨て-小塚原で埋めて土を掛ける程度。名札なし。
  取り片付け-回向院が受け取り、埋葬し、名札をつける。
  回向院との契約-土地を借りる名目として永代祠堂料として10両を回向院へ支払う。
・橋本左内の墓
  請負料-7両3分、墓代金-6両、玉垣等追加注文、回向料、永代料-5両、施主:弟、総次郎
  町奉行と牢屋敷の同心の目に留まり、「余り目立ち候趣」となり、松平家家来が回向院と掛け合い石墓と
  玉垣は取り外し、書付(木札か)となる。石墓は寺に預けるも行方不明となる。文久2年(1862)8月11日
  の政変により恩赦となり、文久3年(1863)国元福井の橋本家菩提寺善慶寺に二代目の墓が建てられた。
・基本的には、刑死者を供養させない=法的無縁状態、というのが建前。
  無縁とは、供養する者がいないという状態、もしくはその遺体が供養できないという状態。
  そこで、外向きには回向院の無縁供養、内側では縁者が回向院と契約することで実質供養できた。
  したがって、回向院に墓が建てられることになった。
・腑分け(解剖)は回向院に仮囲いを設けて、南北町奉行所の牢屋見回り下役一人ずつ、牢屋敷同心一人が、
 取締りとして解剖に立ち会う。過去に遺体の一部を持ち去る事件有り。
・埋葬方法-元々、墓石ではなく「木牌」。遺骨は桶に入っていたが、湿地で浅く埋められていたため腐敗が
 進んでいたが、遺骨とともに名前を彫り付けた石があり、改装の際、取り違えることはなかった。
・接待所-小塚原にはなく鈴ヶ森にあった。用途不明だが、立ち合いの役人の居場所ではないかと思われる。
 小塚原には隣に回向院があり、そのような場所は不要であったと考えられる。
・馬頭観音-鈴ヶ森の向かい側に馬捨て場があった。柳沢家の家来の馬頭観音建立の嘆願書あり。
・小塚原の馬頭観音供養塔-裏面には「乗馬供養塔」と刻まれている。棺に入った馬の骨も出土。当時、馬や牛
 の死骸は決められた場所に捨てなければならなかった。それを非人が皮革に加工していた。それでは供養
 できず、裏のルートがあり、小塚原の仕置場では供養されていた。
・明治20年頃迄に江戸時代の刑罰・埋葬形態はなくなる。小塚原では線路建設に当たり、回向院の住職が
 石造物・枯骨の移転・改装費用を日本鉄道株式会社に求めている。
 鈴ヶ森では払い下げとなり、小池鹿次郎なる者が砂風呂を興し、料理屋、茶屋などが並んだ。

・仕置き場のその後
 小塚原




 鈴ヶ森




以上。    文責:白石 徹



4月総会および講「植物に見る江戸らしさ」

日 時:4月27日(土)
    14:00~15:00 総会
    15:00~17:00 講「植物に見る江戸らしさ」
    17:00~19:00 懇親会
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:大場秀章氏
    日本の植物学者。東大名誉教授。理学博士。
    「江戸の植物学」「植物は考える:彼らの知られざる驚異の能力に迫る」
    「花の男シーボルト」「バラの誕生:技術と文化の高貴な結合」他、著書多数。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。中華料理「龍府」
    食べ放題、飲み放題つき会費3,500円

報告



当日、講師・大場秀章氏が配布した資料は別紙の通りA4判で4枚だった。2時間にわたる講演の中で大場氏が話した内容で印象に残ったことは下記の通り。

●家光の頃に計画的に江戸の街づくりが進められた
●家光は豊かな情緒性を持った将軍だった
●何よりも植物が大好きな将軍だった
●江戸城の中に様々な植物を植えさせた
●江戸の地形は台地と低湿地に分かれており、低湿地部分は家光の頃に埋め立てられて大名、商家、町人の
 居住地となった
●ソメイヨシノで有名な染井村(現在の豊島区巣鴨、駒込周辺)が江戸の園芸の中心地となった。その理由
 は現在の染井通りの南側に建部家(現在の染井霊園)、松平時之助家(現在の六義園=将軍綱吉以降は
 柳沢家)、藤堂家、加賀前田家など広大な大名屋敷があったからだ
●当時、植木屋という職業はほとんど皆無だったので、染井村など大名屋敷周辺の近在農家が植木屋の代役
 を担った。枝落としなどだけでなく、徐々に庭園を設計して植物を植えて管理するようになっていった
●植木屋は異株間の交配で自然界に存在しない新植物を作出した。また栽培品種を作って大名や豪商に高額
 で販売していった
●染井村で一番の植木屋は伊藤伊兵衛という人物だった。伊兵衛は花ガイドカタログ集「花壇地錦妙」を
 作成、大名、豪商へ巧みに商売していった
●江戸の花の特徴は乾燥に強く、園芸向き。京都の花と比べると派手で大きい
●園芸における江戸時代の技術の特徴は、①山野を探索し、奇種を発見し、栽培する識別眼があったこと、
 ②変種型や枝変わりを見出し、挿し木、とり木、接ぎ木、異株間の交配など、掛け合わせで新植物を作出、
 殖やす技術に長けていたことだ
●江戸時代の園芸の特色は、①日本に野生する植物を最大限に利用したこと、②供せられる植物の多様性さ、
 ③植木屋、花戸(花屋)、造園業(庭師)などが登場したこと、④特定の階層に限定しない広がりがあった
 こと、⑤役者絵などにも利用される大衆的関心があったこと、⑥回遊式庭園、公園、博覧会などが発達した
 こと、⑦園芸品種の育種と生産がされたこと、⑧珍花珍草、奇妙奇天烈性に関心があったこと、⑨投機的関心
 が芽生えたことだ
●園芸を楽しむ場所は大名屋敷の庭園や寺社庭園、商家の坪庭、遊山地など様々
●江戸の人々が園芸を楽しむ様子は、歌川広重の浮世絵などに多く描かれている
●日本の園芸の特徴は、鉢物と植物の組み合わせに力を入れていたこと。その代表は盆栽。庶民は腕自慢を
 競った
●シーボルトは日本の植物に魅せられて、ヨーロッパの庭園を変えようと様々な植物を持ち帰った。その痕跡
 がドイツ、スイス、オーストリアなどの公園などに今も残る

【まとめ】江戸時代は多様性に富む時代だったが、花の分野もそうだった。園芸の技術ひとつとってみても花を楽しむために、挿し木、接ぎ木、異株間との交配などと多様な手法が試みられていた。講演のタイトルが「植物にみる江戸らしさ」となっていたので、「らしさとは一体何なのか」に関心を持ったが、大場先生の講演を聞いて腑に落ちた。講演後の感想として連衆から「江戸時代は本当に不思議で魅力的な時代だ、奥が深い。今よりも花を愛でる、文化を愛でる気持ちがあったことが大場先生の講演を聞いて改めて思った」と語った中にその淵源があるような気がした。(文責・長谷田一平)

  

  



3月講「利根川水運で栄えた木下(きおろし)河岸の探訪」

 水運(木下~手賀沼間1時間)を満喫し、木下河岸の盛衰史を学び、かつ地元の人達との交流が楽しめそうな企画です(桜と菜の花も見れそうです)。

集合時間:3月30日(土)午前10時6分
集合場所:JR成田線「木下駅」北口駅前広場
     (JR常磐・成田線快速成田行き。上野発9時3分~日暮里9時6分~松戸9時23分~柏9時32分~
      我孫子9時37分~木下10時6分着)
参加人数:44人まで。木下~手賀沼間の遊覧船(11人乗り)を2艘チャーターし、参加者をA・B二班に分け、
     乗船組と講座受講組(村越講師)をそれぞれ1時間ずつで交代する。
日 程:10時半~11時半・・・A班遊覧船&B班講座受講(中央公民館)
    11時半~12時半・・・B班遊覧船&A班講座受講(中央公民館)
    12時半~13時・・・利根川堤防散策・木下河岸跡見学
    13時~13時45分・・・柏屋で昼食(「蕎麦+ミニ丼(野菜・かつ・肉)セット」or「天ぷら蕎麦」)
    13時50分~14時20分・・・吉岡まちかど博物館見学(館内15分、庭15分で二班交代)
    14時半~16時・・・木下交流の杜歴史資料センター(博物館)見学。公園から利根川を見る。
             木下貝層(国天然記念物)見物
    16時半頃木下駅に到着・解散。16時37分の成田線で帰宅の途
参加費:会員2,500円(乗船代1,000円/人・昼食代1,050円~1,100円/人・入館料100円/人・その他)
    非会員:3,000円
その他:会員及びその家族優先。満席(44人)になり次第、締め切ります。

報告

小さな遊覧船のため、会員は遊覧船乗船組と公民館での講演受講組と2組に分かれた。遊覧船も2艘に分かれて乗ることになった。遊覧船は木下の中央公民館の前から出発し弁天川を上り、下手賀川に入り、手賀沼の手前でUターンして川を下り、六軒川に入り、出発点に戻る約1時間のコース。


 

 

中央公民館では、木下河岸の盛衰史について木下まち育て塾副会長の村越博茂氏に利根川の水運の変遷とともに変わっていく様子を学んだ。特に川蒸気船やそれを支配した吉岡家の盛衰などは興味深かった。
 

A班とB班が合流して利根川土手を散策、木下河岸跡を見学し、昼食場所の柏屋へ向かう。
 



吉岡まちかど博物館は、隆盛を誇った吉岡家の庭の一部と蔵を資料館に改装したもの。
 

木下交流の杜歴史資料センター見学     利根川を眺む
 

木下貝層(貝の死骸が積み重なって層となり化石化して隆起して地上に現れたもの)


以上。   文責:白石 徹



2月講「一人旅の魅力~塩の道と酒街道」

日 時:2月16日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:宮原一敏氏(江戸連会員)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。中華料理「龍府」を予定
    食べ放題、飲み放題つき会費3,500円

報告

<塩の道>
 講師は以前長野県伊那市に単身赴任していたことがあり、四季の移ろいを強烈に感じさせる伊那谷の景色に魅せられた。高遠小彼岸桜、天竜川や木曽駒ケ岳などの美しい写真を紹介。また伊那谷の特徴として、上場していないが、養命酒や伊那食品(カンテンパパ)など優良な企業が沢山存在するという。さらに魅力なのは、井上井月(せいげつ)という、芥川龍之介がうなり、山頭火が憧れた漂泊の俳人がいたという。井月は徘徊しながら伊那谷にたどり着き、その魅力に惹かれて30年ぐらい住みついた。井月の歌碑の一つに「どこやらに田鶴のこえ聞く霞かな」の句がある。このように、伊那谷は魅力にあふれた場所だそうで、週末にはしょっちゅう外に出たそうであする。美しい写生と共に講師の思いを述べたエッセイ集「伊那谷と私」という本を出版したが、南信の本ランキング1位となった。伊那谷は中央構造線と糸魚川静岡構造線が交わるところにある。塩の道は、この断層に沿って太平洋側の御前崎から日本海側の糸魚川までを結んだ東経38線上にある。



 塩の道は海運や道路の発達に寄って時代とともにそのルートが変わっているが、いずれも海岸から内陸へ向かう道で、日本一長い塩の道は新潟県・糸魚川〜塩尻までの北塩道と、静岡県・御前崎〜塩尻までの南塩道が塩尻で繋がった全長350kmである。



 講師は、塩の道350kmを2005〜2007年の4~5月の連休と最後は8月を利用し3年間で踏破した。その中で、大変怖い思いをしたエピソードを2件紹介すると、1件目の出来事は、善知鳥(うとう)峠を越える時に、近道を取って歩き始めると、巨大な採石場に迷い込んだ。その採石場は周囲を石で囲まれ、天高く、地深く掘られており、高温多湿で、我が身の小ささ、儚さに恐怖を感じ、やっとの思いで出口を探し地獄のような所から脱出することができた。
 2件目は、北小谷から平岩に抜ける「天神道」で、草深い中を歩き進んでいると道に迷ってしまった。引き返そうと後ろを振り返ると景色は始めて見る景色で帰り道が判らない。必死であたりを探すと、折れた木が見つかり、近くに踏みつぶされた草を発見してホットする。また、つり橋などは、大概金具が錆びているか、木が腐っていたりして危険であるし、トンネルは真っ暗の中を一人で歩いて自動車とすれ違う時などは生きた心地がしなかったという。
塩を背負って運ぶ人を「ボッカ」といい、また牛に背負わせて運ぶ(陸船)の姿が「善光寺道名所図絵」に描かれている。
 講師は、塩の道の一人歩きから見つけたものとして「小欲知足の精神」「自分を知る」を挙げる。偉大なる自然の中に自分を落とし込んで、一歩一歩足元を見つめながら歩いて行く。

<酒街道>


 塩を舐め(塩の道)、鯖を食えば(鯖街道)残るは酒だろうと、友人達にも唆され、酒街道に挑戦しようと調べてみたが、酒街道なるものはありません。しかし、いろいろ検索するうちに、気仙沼市と一関市間にある蔵元4社で共同ブランド「黄金酒街道」を販売する企画があることを知った。そこで、地図上を気仙沼から一関への道を更に横に伸ばしていくと、何と日本海側に「酒のたんぼ」と書かれた酒田市があった。一関〜酒田間は芭蕉も歩いた道です。徒歩で行くと20日ほどかかりそうで、さらに酒蔵は街道沿いにはなく少し離れたところにあるケースも多いので独り歩きはリスキーと判断し、家族からの体力に対する心配もあり、自転車で行くことを決断、4泊5日の行程で実施。
 サイクリングジャパンクラブに加入すると、ヤマト運輸が自転車を目的地まで運んでくれる「輪行サービス」がある。一人サイクリングで行く際には、街道沿いの自転車屋のリストを作っておくことは、走行中に万が一の自転車トラブル解消のためにも必携品のようです。
 自転車なので試飲はできませんが、酒蔵20か所を訪問、それぞれの地域の歴史や特徴などを学ぶことができ、東北地方の酒蔵で、太平洋側、中央部、そして日本海側と大きく三つの地域における違いを分析していました(酒蔵での話や分析結果は省略)。

<特記>
 講師が酒街道から持ち帰った山形県・鶴岡市羽黒町「竹の露酒造」の銘酒「白露垂珠」(純米吟醸)を講演の後の懇親会の席で、皆さんで堪能しました。

以上。          文責:白石 徹



1月講「小石川七福神巡り」

集合時間:1月5日(土)午前10時
集合場所:地下鉄丸ノ内線「茗荷谷駅改札口」
コース:茗荷谷駅~深光寺(恵比寿)~蛙坂・切支丹坂・庚申坂~徳雲寺(弁財天)~播磨坂~
    極楽水(弁財天)~宗慶寺(寿老人)~真珠院(布袋尊)~百人坂・伝通院~福聚院
    (大黒天)~沢蔵司稲荷・善光寺坂~堀坂~源覚寺(毘沙門天)~東京ドーム(福禄寿)
    (約2時間~2時間半のコース)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
昼食&新年会:丸ノ内線「後楽園駅」ビル6階「北海道」。食事&飲み放題で3,300円

報告





恵比寿・深光寺              蛙坂
  

キリシタン屋敷跡             弁財天・極楽水
  

寿老人・宗慶寺              布袋尊・真珠院
  

大黒天・福聚院              とうがらし地蔵・福聚院
  

毘沙門天・源覚寺             こんにゃく閻魔・源覚寺
  

福禄寿・東京ドーム



12月講「江戸の芸能と忘年会」

日 時:12月15日(土) 午後1時半~7時半
場 所:堀切菖蒲園静観亭
企 画:13:30~15:00 投扇興(自由参加、無料)
    15:00~16:30 講
            かっぽれ:鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元、会員)
            江戸語り&紙芝居:寿々方(江戸がたり家元、会員)
            落語:花伝亭長太楼師匠(会員)
    17:00~19:30 忘年会
会 費:講2,000円+忘年会3,000円=5,000円
その他:原則、会員及びその家族優先。席に余裕がある場合、非会員の参加も可。
    非会員参加の場合+500円

報告

・投扇興
  

・鈴乃家梅奴
  笛                    三味線
    

  (踊り)深川                かんちろりん
    

・江戸がたり 寿々方
  紙芝居「曽根崎心中」「瞼の母・番場の忠太郎」
    

・落語   花伝亭長太楼    「佃祭り」
    

・忘年会  歌声喫茶同好会のパフォーマンス
  

・二次会 カラオケ大会 12名参加 (写真略)



11月講「ゴッホ事情今・浮世絵との出会い」

日 時:11月25日(日) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:吉屋 敬氏(オランダ在住画家・作家・ゴッホ研究家・フリーランスジャーナリスト)
    オランダ芸術家協会正会員。日本旅行作家協会評議員。
    1965年オランダに留学。1973年(故)ユリアナ女王戴冠25周年肖像画展で女王の肖像画を描く。
    以後オランダ、ベルギー、アメリカ、日本等で展覧会、講演会、イベント企画等で活躍中。
    作品のコレクション:ハーグ市立美術館、ライデン大学、佐倉市立美術館、鎌倉市(除、個人)
              アムステルダム日本人学校、ロッテルダム日本人学校、等々。
    著書:「楡の木の下で=オランダで想うこと」「母の秘蔵の絵」「みずうみの家」
       「ネーデルランド絵画を読む」「青空の憂鬱-ゴッホの全足跡を辿る旅」
        その他共著多数。
講演内容:一部 Up to dateなゴッホの今事情
     二部 浮世絵との出会いと影響
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:講終了後自由参加。中華料理「龍府」伊場仙ビルより徒歩3分
    食べ放題、飲み放題つき会費3,500円

報告

*ゴッホはどのようにしてゴッホになったか?
 ・アムステルダム国立美術館で「浮世絵とゴッホ」の展覧会が開催された。
 ・ゴッホが浮世絵と出会わなかったらゴッホにならなかった、ということを示している展覧会であった。
 ・吉屋さんは、この展覧会でゴッホについての講演を行った。
 ・アルルで耳を切った後の4枚の絵について:この落ち着いた筆使いは、浮世絵から学んだものである。
 ・パリ近郊の精神病院にいた頃の最晩年の絵は、その筆法は荒れたものであった。調子の良い時と悪い時では
  極端に違いがある。
 ・アントワープに行った時に浮世絵と出会い、何枚か買い求める。
 ・パリに行き印象派と出会い目覚める。
 ・その後、精神を病み、すべての人に拒否されていると感じるようになる。
 ・弟テオの援助でアルルに黄色の家を借りる。画家達の集う協同のアトリエにしようと考えていた。
 ・どうもゴッホは浮世絵が共同作業で出来ていると勘違いして、画家たちの共同制作を目指したようだ。
 ・テオの資金援助で、黄色の家に来た画家には月200フランを与え、その代わりに描いた絵の1枚をテオに
  渡すという条件を付けていたが、誰も来なかった。

*ゴッホとゴーギャン
 ・貧困で食べ物にも困窮していたゴーギャンだけが、この条件に惹かれてやってきた。
 ・しかし彼らは、この黄色の家の中で論争を繰り返していた。

*ゴッホの耳切り事件
 -ゴーギャンの証言―
 ・12月24日ゴッホは剃刀を持ってやって来て、自分に切りつけた。身の危険を感じて逃げ出し、その日は
  ホテルに泊まった。翌日かえって見ると、ゴッホは前夜耳たぶを切り落とし、それを娼婦に与えた。
 ・これはゴーギャンの証言のみで他に誰も証人はいない。
 ・2017年この事実は覆された。
 ・ゴッホの伝記作家が、ゴッホを診たメイ博士に手紙を書き、その返事が来た。
 ・ゴッホは耳たぶではなく、耳全体を切り落としていた。

*ゴッホ病気は何だったか?
 ・恐らく、境界線人格障害(B.P.D.)であったろうと思われる。
 ・気分のムラが激しい。正邪を極端に考える。妄想の中で棄てられることを恐れ、強い不安感を持つ。見捨て
  られたと感じて発症し自殺を図る。
 ・最晩年の「自画像」は安定している。
 ・渦巻の絵は渦巻く大気を表し、彼の狂気ではない。
 ・「狂気の人」の絵は一見、雑に見えるが、よく観察して描かれている。
 ・「ガッシュ博士」の絵のブルーと赤の色は、浮世絵から学んだものである。

*ゴッホの自殺
 ・ゴッホがアルルからパリへ戻って来た時に、テオが画商を辞めるという相談を家族で行っていた。テオは
  画商の方針に反して、当時まだ認められていない印象派の絵を1,000点ばかり売りまくっており、画商から
  クレームがついていた。テオの妻は、テオが画商を辞めることに強く反対していた。さらに彼女がゴッホの
  作品を居間に架けていなかったことでゴッホと論争になり、ゴッホは疎外感を抱き、また自分は見捨てられ
  ていると思った。ゴッホはオーベル・シュール・オワーズという田舎町の、唯一の小さなレストランの2階
  に住んでいたが、そこで左脇腹をピストルで打ち抜き、そして腹に弾を残したまま外出し、やがて部屋に
  戻り息を引き取った。1890年ゴッホ37歳。
 ・自殺者の葬式は教会では許されない為、1階のレストランで行われた。
  壁にゴッホの絵を掛け、葬儀の後、出席者に譲られた。ゴッホは近くの教会の共同墓地に埋葬された。

*テオの死
 ・テオは7月にゴッホの葬式を行い、9月にその遺作展を行い、翌年1月25日に梅毒の悪化によって死去した。
 ・1914年テオの妻ヨウが、ゴッホとテオの書簡集を発表、大変な評判となる。
 ・テオの墓をユトレヒトからゴッホの横へ並べて埋葬し直した。

*ゴッホと江戸
 ・ゴッホは1852年生まれ。これは安政元年。
 ・1867年大政奉還
 ・1868年明治維新:ゴッホ15歳
 ・1869年(明治2年):ゴッホ16歳、ハーグの画商で働き始める。
 ・1885年(明治18年):アントワープで浮世絵に出会う。
 ・1886年(明治19年):ゴッホ33歳、パリへ移住。本格的に浮世絵を収集。
 ・ゴッホがパリに滞在したころは、ジャポニスム全盛であった。
 ・1890年(明治23年):ゴッホ37歳、逝去。
 ・27歳から絵を描き始め、死ぬまでの10年間でその作品は2,000点に及ぶ

*ジャポニスム
 ・1867年パリ万国博覧会。日本政府、薩摩藩、鍋島藩が出展。
 ・1873年ウイーン万国博覧会。日本政府と民間が協力、「起立工商会社」を設立。日本美術を紹介する。
 ・サミエル・ビーム(ユダヤ系ドイツ人、フランスに帰化)なる人物が、日本の美術品を売りまくった。
  ゴッホは、此処に通い600点の浮世絵コレクションを作り上げた。
 ・林忠正なる人物がいた。パリ万博の通訳をしていたが、その後日本の美術品を扱う。
  クオリティの高いものを扱い、正しい日本文化を伝えようと努力していた。一方で彼は印象派の作品を
  集めていたが52歳で亡くなり、ビームの手で売り捌かれた。
 ・パリに留学していた黒田清輝に法律の勉強を辞めさせて絵画の道に行かせたのは林忠正である。
 ・「パリ・ルストレ」という日本美術の本に林が論文を載せているが、その本の表紙の美人画の挿絵を
  ゴッホが模写している。
 ・当時のアカデミズムの主流は宗教画や歴史が出会った。それに対して印象派は自然や身近なものを対象
  とした。アール・ヌーボ(新芸術)と称する。
 ・シャルルブラインド―補色の原理。色を混ぜないで、隣に置くことで網膜の中で混ざる、印象派が考え出し
  た。
 ・クレポン絵。紙を縦・横、皴にして圧縮すると色が濃くなり重厚さが出る。
 ・ゴッホはクレポン画を好み、その感じを油絵の筆使いで出そうとした。
 ・浮世絵にはヨーロッパの絵にはない色の配合が取り込まれており、ゴッホはその色を学び取ろうとして
  いた。
 ・マネは浮世絵には影がないことに衝撃を受けた。
 ・広重の「鯉幟と富士山」「水道橋」「亀戸の梅」などに見られる手前を大きく描く遠近法も彼らにとって
  は、目新しいものであった。
 ・浮世絵は彼らに、色・構図・遠近法・線などで多大な影響を与えた。

*ひまわり
 ・ゴッホはゴーギャンがアルルへ来る以前、ゴーギャンの影響を受けたくないと考えていた。
 ・5枚のひまわりを描いている。
 ・東京・ロンドン・アムステルダムにある。
 ・ゴッホはロンドンにあるひまわりを一番気に入っていた。他はそれの写しである。
 ・東京にあるひまわりの偽物説
  ゴタゴタしている、絵の上の部分に空間がある、サインがない、など。
  粗いジュートのキャンバス地に下塗りせず、厚塗りで描かれている。これはゴーギャンが好んだ手法で、
  ゴーギャンと一緒の時に描かれたと考えられる。また鑑定の結果、絵の上の部分は買い手が後でつぎ足した
  ものと判明。-これは本物である。アムステルダムの絵はその後から描かれたもの。

*その他
 ・ゴッホの絵には、麦・糸杉・コブヤナギが描かれる。
 ・北斎の絵に草だけや、根だけを描いたデッサンがあり、ゴッホも麦だけを描いた。
 ・植物の部分だけを描くという手法は、ヨーロッパのこれまでの絵画にはないものでありゴッホは浮世絵の
  影響を強く受けているといえる。



以上。  文責:白石 徹