江戸連講

9月講「蘭学者を守り通した桂川家の位相ー平賀源内と桂川甫周・森嶋中良兄弟の交流を通じてー」

日 時:9月25日(土)午後2時~4時
場 所:杉並区高井戸区民センター&オンライン(Zoom)配信
講 師:桂川靖夫氏 桂川家11代当主。洋学史学会会員
    専門分野:植物分類地理学、臨床心理学
    著作(共著):茨城の科学史(常陸書房)、茨城県大百科事典(茨城新聞社)
    学校カウンセリング講座、他多数
参加費:会場参加 会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加 会員500円、非会員1,000円

*会費は9月にまとめてお支払いください。

8月講「江戸と江戸以前ー古地図から見えてくるもの」

日 時:8月28日(土)午後2時~4時
場 所:阿佐ヶ谷区民センター第1集会室&オンライン(Zoom)配信
講 師:芳賀啓 氏 1949年仙台市生まれ。元柏書房代表取締役社長。東京経済大学客員教授
          現之潮主宰。早稲田大学エクステンションセンター講師
    主な著書:「地図・場所・記憶」2010年けやき出版
         「江戸の崖 東京の崖」2012年講談社
         「古地図で読み解く江戸東京地形の謎」2013年二見書房 他
会 費:会場参加 会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加 会員500円、非会員1,000円

*会費は9月にまとめてお支払いください。

報告

芳賀講師は、2018年2月の講から3年半ぶりの講となりました。
休憩時間もない程の熱演ぶりでした。講の資料は、古地図1枚で、大半がスライドと、写真中心による講話となり、メモをとる間もないぐらいのスピードでした。
まず、寛文五枚図は、新板江戸大絵図、新板江戸外絵図の説明があり、江戸時代の様子が窺えました。弘長元年(1261年)10月3日、国・群・郷・村の始まりとなりました。古文書は差出人・受取人を具備しており一次資料ですが、史書は不特定多数を予見しており二次資料となります。
徳川家康が愛読していた二次資料である吾妻鑑に江戸太郎の名前が出ている。当時の最速の通信手段は馬であった。時速20~30㎞で走ったが30分しか持たず、替え馬が必要であった。人は一日8里、32㎞くらい歩いたようです。鎌倉時代、甲州街道が通った西国分寺にある姿見の池は、近くの恋ヶ窪一帯が宿場町であった頃、遊女たちが自らの姿を映して見ていたという言い伝えから名付けられた池である。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも言われる、武将・畠山重忠と夙妻太夫の悲恋が伝承されている。
最後に太田道灌の江戸城の頃の長禄年間江戸図の説明がありました。この図は、前島が描かれておらず、川や池についても誤りがあり、江戸時代に造られたものと思われ、古地図とは言い難いようです。ただ、江戸時代と現在の街地図比較が面白く、興味深いものでした。



7月講「日本の伝統文様ー江戸時代の衣装・装束・家紋・商標などの意味を知る」

日 時:7月24日(土)午後2時~4時
場 所:阿佐ヶ谷区民センター第4集会室&オンライン(Zoom)配信
講 師:荻原延元 氏(江戸連会員、日本画家、川村学園女子大学名誉教授)
会 費:会場参加 会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加 会員500円、非会員1,000円

*会費は9月にまとめてお支払いください。

報告

7月講は、会員の荻原延元講師の「日本の伝統文様」で、約1年ぶりの講演となりました。現地とZoomでの参加者は、31名と多くの方が参加されました。
江戸時代の浮世絵の始祖・菱川師宣の「見返り美人」、京の人気絵師、西川祐信の「柱時計美人図」は、うっとりするものがあります。
縞と格子については、縞柄、小紋柄、格子柄が特に人気があったようです。
また、家紋は平安時代から使用され、江戸時代では大名・旗本が多く使用していた。あの有名な毛利元就の三本の矢(長門三ツ星)は、毛利家の団結を呼びかけたものです。纏(まとい)の服装デザインは柄が多様あり、定火消し、大名火消しと並び、大岡越前守の「いろは四十八組」の町火消纏は、目を見張るものがあります。
当初は、江戸の定火消しや奴(やっこ)が好んで着た「かまわぬ文様」は、役者も好む絵柄となり、縦縞(〇〇縞)の多様な柄が流行し、中には、手が込んだものもある。
あと、「辻が花の模様染め」・「慶長小袖」・「寛文小袖」・「元禄友禅染め」は、時代の特徴を生かした出来となっています。
特に、加賀の宮崎友禅斎の手書きによる染色技術は、素晴らしかったです。

以上     文責:川越 誠司郎



6月講「文化人井伊直弼と埋木舎(うもれぎや)」

日 時:6月19日(土)午後2時~4時
場 所:阿佐ヶ谷区民センター第6集会室&オンライン(Zoom)配信
講 師:大久保治男 氏(彦根派藩筆頭家老大久保氏子孫)
       駒澤大学名誉教授、武蔵野学院大学名誉学長、日本法制史専門
会 費:会場参加 会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加 会員500円、非会員1,000円

報告

6月講は、大久保治男講師の「文化人 井伊直弼と埋木舎(うもれぎや)」で、大久保家は、徳川家康の祖父の代より旗本、藤原氏一門後裔。井伊直弼の時代は、藩の重役として活躍した。
直弼は、彦根藩35万石の藩主で、徳川幕府の大老でもあったが、父・直中の14男坊として生まれ、17歳から32歳までの15年間は、藩の「北の屋敷」で生活することとなった。
ここを「埋木舎(うもれぎや)」と名づけた。ここで茶道・歌道・謡曲等文化人としての修行をした。直弼は、後世、「茶・歌・ポン」というあだ名がつけられたと言われている。
特に歌道では、埋木舎においての「和歌」は、熱心に取り組んだ様子がうかがえます。他にも国学・蘭学・書・画・湖東焼・楽焼・禅・仏教も修練を積んだ。武人のため、弓・馬・剣道・居合術・柔術・兵法等にも練達し、文武両道を極めた。また、茶道において、一期一会や余情残心の考え方はすばらしいと思います。武家社会で「保剣」という言葉があり、刀を抜いたら負けとは驚きました。
大久保家では、講師の曾祖父(小膳)が直弼の茶道の高弟(宗保)として従事し、明治4年以来、埋木舎を贈与され代々で保存している。

以上     文責:川越 誠司郎



5月講「信州が生んだ気骨ある儒学者・経世家”太宰春台”について」

日 時:5月22日(土)午後2時~4時
場 所:オンライン(Zoom)配信のみ
講 師:清水学 氏(江戸連会員)経済学者
     アジア経済研究所総合研究部長、一橋大学経済研究科教授ほか、多数の大学を歴任
     主な著作(編集)「中央アジア―市場化の現段階と課題―」「中東政治経済論」他
会 費:会員500円、非会員1,000円

報告

5月講は、会員の清水学講師の「信州が生んだ気骨ある儒学者 経世家・太宰春台」で、春台は、長野県・飯田市の飯田藩士の子として生まれ、15歳で但馬出石藩の小姓頭となり、17歳で朱子学者の中野撝謙の私塾に入門した。21歳で致仕(官職を辞して隠居すること)したので、藩主が怒り10年間の禁固を命じた。その間、どこにも仕官できなくなり、不退転の意思で勉学に励む。32歳で禁固の刑が解け、あの有名な荻生徂徠に入門し、詩文から儒学・古文辞学へ転向した。印象的だったのは、師の荻生徂徠に対し「言いにくいことを言う唯一の弟子」としての気質だった。
中国語・音楽・医学他、極めて広範囲な分野に関心を持ち、野心家でもあった。
日本で初めて「經濟」の語を書名とする『経済録』を著す。
その後、私塾紫芝園を開設し、本格的な研究・執筆・教育に従事した。
又、会読(セミナー)の運営の理念は、個性と平等を尊重した自由闊達なもので学ぶ点が多い。一連の名著を出版し影響力が徐々に広がるも、68歳の生涯を閉じた。

以上     文責:川越 誠司郎



総会および4月講「江戸幕府による大名の格付け」

日 時:4月17日(土)
    13:30~14:30 総会
    15:00~17:00 4月講「江戸幕府による大名の格付け」

場 所:東京ウイメンズプラザ第ニ会議室&オンライン(Zoom)配信

総会議題:2020年度活動報告および予算、2021年度活動計画及び予算、その他

4月講講師:安藤優一郎 氏
      歴史家。日本近世政治史・経済史専攻。文学博士(早稲田大学)
      著書「お殿様の定年後」(日経プレミアムシリーズ)、「渋沢栄一と勝海舟」(朝日出版)
      その他、江戸に関する著書多数
      江戸連での過去の講演 2013年7月講「知られざる幕末維新の先覚者山本覚馬」

会 費:会場参加-会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加-会員500円、非会員1,000円

報告

江戸幕府は、大名を格付けすることで大名をコントロールし、幕藩体制を維持することを図った。
格付けのベースは、石高と家柄(親藩・譜代・外様)によるものである。石高には、表高と実高があり、格は表高により、将軍から朱印状が発行された。家柄の内、最も重要視されたのが、譜代である。その中でも、江戸時代以降に取り立てられた譜代大名が最重要視された。親藩は、政治の場からは遠ざけられ、敬して実権は持たせられなかった。
具体的に見える形としては、登城の人数制限、殿席や礼席の場所、礼服の違い、将軍からかけられる言葉の違い、などがあった。また、庶民にもわかる形として、江戸藩邸の造りや参勤交代の大名行列の様式などが定められていた。
以上のことが、レジメにしたがって、具体的に詳しく解説がなされました。

以上   文責:白石 徹



3月講「江戸の蘭学塾ー大槻玄沢と芝蘭堂ー」

江戸時代の芝蘭堂は、大槻玄沢が開いた蘭学塾としてよく知られている。高校の日本史教科書では、蘭学の隆盛を築いた人物として玄沢を挙げ、芝蘭堂を開いて多くの門人を育てたことを強調している。しかし、教育の実態は、案外わかっていない。門人の記録などを手掛かりに玄沢がどのような教育を行っていたのかをお話したい。

講 師:松本英治 氏
     開成中学校・高等学校教諭
     近世対外関係史・洋楽史を研究

日 時:3月27日(土)午後2時~4時
場 所:高井戸区民センター第9集会室
    オンライン(Zoom)配信あり
参加費:会場参加-会員1,000円、非会員1,500円
    Zoom参加-会員500円、非会員1,000円

報告

・江戸時代の蘭学塾では何が教えられていたのか、実態はあまり知られていない。
・大槻玄沢の「芝蘭堂」について、その人物像と「芝蘭堂」の実態について、レジメと34枚に及ぶスライド
 で、講演が行われた。

<大槻玄沢>
・1757年現在の一関市で医師の家庭に生まれる。最初の師、建部清庵を通して杉田玄白に入門。オランダ語を
 前野良沢に学ぶ。父の死後、一ノ関藩・藩医から仙台藩・藩医となる。その間、長崎に遊学。
・「解体新書」は実証性のある西洋医学の紹介であり、また、杉田玄白らがそれを公開したことに大きな意義が
 ある。
・「解体新書」の翻訳ができたのは前野良沢のみであったが、良沢は翻訳が不完全であるとして著者に名前を
 連ねなかった。杉谷玄白もそれを自覚しており、大槻玄沢に改正を託した。
・「蘭学階梯」
 大槻玄沢の出世作。上巻は蘭学とは何か、下巻はオランダ語の学習法。しかし、これを学んだからと言って、
 オランダ語が習熟できるとは限らない。翻訳中心の考え方で、まず単語を覚え、前置詞や冠詞に注意し
 ながら、適当な訳を考えろというもので、文法の発想はない。蘭学の入門書として蘭学を知らしめた意義は
 あった。
・「芝蘭堂新元会絵図」
 西洋暦によるオランダの新年会を芝蘭堂で開催した様子を描いたもの。即ち、玄沢がオランダ正月を仲間たち
 と共に祝った。
・「環海異聞」
 1804年、ロシアから、大西洋・太平洋を回って来訪したレザノフが連れてきた仙台藩の漂流民から聞き取っ
 た情報を、玄沢がオランダの本や文献を考証して著わした。
・「厚生新編」
 蘭学が幕府に公式に認められ、玄沢は天文方・蕃書和解御用方に出仕。長崎の優秀な通訳、馬場佐十郎と共に
 ヨーロッパの百科事典を翻訳した。
・「重訂解体新書」
 杉田玄白に託された「解体新書」の改正版。翻訳のレベルが向上していると言える。旧版が木版刷りに対して
 銅版刷りになっている。

<芝蘭堂>
・1786年江戸の本材木町に開塾。同学の士との集いを理由に仙台藩・藩邸から脱出。火事により次々と何度も
 移転した。
・門人帳「載書」
 「載書」とは誓いの文書。入塾者が年月日、出身地もしくは所属を記載し、署名して花押と血判。記載者は
 94名。しかし署名者が門人の総てではない。入塾時でもない。
・塾生の就学状況、教授内容-略

「芝蘭堂」について、松本先生のレジメの「まとめ」より転記。
・杉田玄白所伝の蘭方医学の教授を標榜する医学塾だった。
・大槻玄沢による「解体新書」の講義とオランダ語の指導が行われた。
・オランダ語は、芝蘭堂に学んだだけでは、翻訳力を身につけるのは難しかった。
・漢学の素養を重視し、漢方医学の教授も行われ、「漢蘭折衷」の立場を取っていた。
 (訳文は漢文で表記されるため-白石注記)

以上     文責:白石 徹



2月講「江戸の社会と浮世絵の情報力」

緻密な技術に支えられ、現在は国内外で愛好される浮世絵版画は、様々な情報を伝えるメディアとして発達しました。歌舞伎や遊郭などの楽しみだけではなく、江戸時代に起きた地震や伝染病の流行、政治への不満なども積極的に主題とした浮世絵の情報力に注目し、江戸庶民が浮世絵をどのように楽しんだか考えます。

講 師:藤澤茜 氏
     神奈川大学国際日本学部日本文化学科・准教授
     歌舞伎・浮世絵を中心とした日本文化を研究
日 時:2月20日(土)午後2時~4時
場 所:オンライン(Zoom)配信のみ
参加費:会員500円、非会員1,000円

報告

・スライドを使って、浮世絵を映しながらのご講演でした。
・浮世絵、歌舞伎、小説が相互に影響しあいながら江戸文化を構成していた。
・浮世絵版画が最も多いのは歌川国貞、その半数以上が役者絵。葛飾北斎も多いが、北斎は肉筆画が多い。
 二人とも長命であった。
・浮世絵は、西洋の絵画(ゴッホやモネ等)や音楽(ドビュッシー等)に影響を与えた。
・現代でも、日本のパスポートのデザインに使われたり、2024年の新千円札に使われる予定である。

浮世絵の情報発信
  ①麻疹絵・天然痘絵―疫病流行の情報。対処方法などの情報、病魔退散祈願
  ②美人画―ファッション情報を伝える
  ③風景画―観光ガイドブック
  ④役者絵―歌舞伎の情報。浮世絵の半数を占める。役者の似顔絵である。現代の歌舞伎の衣装は、浮世絵の
   役者絵を参考にしている
  ⑤商品・店舗の宣伝―例:「江戸高名会席尽 広尾 狐鰻 狐忠信」は、「狐鰻」の料亭の宣伝、狐に引っ
   掛けて三代目坂東三津五郎が演じる狐忠信の役者絵を三代歌川豊国が描き、その上部に料亭の佇まいと
   近隣の風景を初代歌川広重が描いている
  ⑥鯰絵―地震報道。「名石千載刎 男之助せりふ」、伽羅先代萩を捩ったもので、ナマズが悪役仁木弾正に
   扮し、鹿島大明神にやっつけられる絵。他に大鯰が、鹿島大明神にのしかかられ、小さな鯰達が頭を下げ
   ている。余震を象徴。さらに伊勢神宮の白い駿馬が、ナマズを押さえつけている図などがある。また、
   ナマズの周りに、地震によって職を失った人達(サービス業など)や、儲かった人達(大工や左官など)
   の格差を描いた図。等々、地震情報を伝えたり、地震終息を願ったり、はたまた、自然災害でどうしよう
   もない、やり場のない怒りを鯰にぶつけたりし、溜飲を下げた。多くの人が鯰絵を買った。災害のどさ
   くさで、次から次へと出版するため、版元や絵師の名前は記載せず、無届で行われた。後に、幕府は
   鯰絵を禁止する。鯰絵は、オランダの文化人類学者アウヘハントに見出され、その後、日本で研究が
   始まった。外国で評価され、その後日本でも評価されるようになったのは、浮世絵そのものであり、写楽
   などがある
  ⑦諷刺画―政治や社会への批判を表現。検閲があるため、高度な工夫がされている。例:戊辰戦争の風刺画
   「子供の遊力比べ」、着物の柄で人物が特定できるようにしている。一見したところ、何の変哲もない絵
   だが、それを読み解く読者の力もすごい
  ⑧横浜絵―維新前後の横浜の様子を伝える


以上    文責:白石 徹



1月講「新宿山の手 七福神めぐり」

集合時間:1月16日(土)午前10時
コース:JR飯田橋駅西口改札付近(新宿寄りの神楽坂方面・江戸時代の牛込御門の石垣が残る)~神楽坂~
    ①善国寺(日蓮宗毘沙門天・家康が創建)~地蔵坂~旧御徒組屋敷(大田南畝の誕生地)~
    ②経国時(日蓮宗「火伏せ」の大黒天・境内に長崎山王神社の被爆の楠)~大江戸線牛込柳町駅乗車→
     東新宿駅下車~
    ③稲荷鬼王神社(恵比寿・豆まきで「鬼は内、福は内」と唱える)~
    ④永福寺(曹洞宗福禄寿)~
    ⑤厳島神社(弁財天・朱印は西向天神で受け付け)~
    ⑥法善寺(日蓮宗寿老人)~西向天神(弁財天の朱印受付)~
    ⑦太宗寺(浄土宗布袋尊・信州高遠藩内藤家の菩提寺・江戸六地蔵の一つ、都内最大の閻魔)~
     丸の内線新宿御苑前駅・解散
参加費:会員500円、非会員1,000円
その他:・新年会は中止です。
    ・Zoomによる配信はありません。
    ・出発場所で地図と解説資料をお渡しします。現場での説明はありません。
    ・5人一組で順次出発します。
    ・最終地点で流れ解散です。

報告

コロナ禍により中止



12月講「江戸芸能づくし」

日 時:12月5日(土)午後2時~4時
場 所:東京ウイメンズプラザ(青山)第一会議室B
演 目:落語「猫の災難」          花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
    狂言紙芝居「ぶす」「かたつむり」  寿々方さん(江戸連会員・江戸がたり家元)
    トランプマジック         三宮さん(江戸連会員・奇跡の会事務局長)
    落語「子別れ」          花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
会 費:会員1,000円(会場参加)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は20名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    恒例の忘年会は今回中止です。

報告

花伝亭長太楼師匠(江戸連会員)
   

   

   

寿々方(江戸連会員・江戸がたり家元)
   

   

   

三宮政一 氏(江戸連会員・奇跡の会事務局長)動画出演
   

   

   



11月講「高井鴻山」を語る

葛飾北斎を小布施に連れてきた高井鴻山。信濃の豪商の実態は、幕末維新に於ける先覚者であった。

日 時:11月28日(土)午後2時~4時
場 所:高井戸区民センター第9集会室(57名収容可)
講 師:新実正義 氏(江戸連会員・元江戸連代表理事)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円(会場参加者)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は20名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    その場合、参加費はキャリーオーバーとします。

報告

小布施
 ・北国街道の近くにあり、中山道に通じ、北陸から京都、江戸に繋がる交通の要衝。
 ・六斎市という月6回の市が開かれた。米・麦の銭相場が立てられた。
 ・固定店舗が増大し、上町・中町・下中町という特権を持った店の町ができ、そのあと裏町・横町が分かれ
  町組五町と呼ばれた(町組は地域名ではなく町内会名で時代により変化)。
 ・茶・塩・魚など食料品、水油・太物・細物など衣料雑貨品を扱う店が多かった。
   

高井家と高井鴻山略伝
 ・詳細略(配布資料参照)
 ・上町の商人。穀物・塩・酒などを扱い、京都の公家へも出入り。総石高300石を超える大地主。
 ・大名貸しも行う。飯山藩から10人扶持を与えられ、家老待遇を受けていた。
 ・鴻山は15~31歳のあいだ京都へ2度、江戸へ1度遊学している。
 ・京都では書・画・詩を学び、陽明学に傾倒。
 ・江戸では、さらに陽明学を深め、多くの学者・文人等と交流。
 ・小布施での鴻山は、家業は弟に任せ、政治・社会・文化面に活動。
 ・葛飾北斎は晩年、小布施の鴻山を4度訪ねており、東町、上町の祭りの屋台の天井絵や岩松院の天井画を
  依頼され描いている。
 ・鴻山は当初攘夷思想であったが、後に開国論に変わる。
 ・幕府を支援、明治になると政府に建白書を提出したり、晩年は教育事業に力を尽くす。

高井鴻山と葛飾北斎
 ・鴻山が江戸遊学中に北斎と出会ったと思われる。北斎は80歳超え。
 ・小布施出身の小山中兵衛が江戸に開いた呉服店「十八屋」が関係しているかも。
 ・北斎への支払いは「十八屋」を通じて行われている。
 ・北斎83歳、天保13年(1842年)に初めて、小布施の鴻山を訪問し滞在する。鴻山37歳。
 ・北斎は鴻山に「画狂老人」と刻した自身の印を贈っている。
    

岩松院天井絵の謎
 ・講演者新実正義氏は、岩松院の天井絵は北斎の娘の「お栄」の作品ではないかと推測。
    

以上    文責:白石 徹



10月講「歌舞伎へのお誘い~出雲のお国から瞼の母」

日 時:10月24日(土)午後2時~4時
場 所:寿々方邸よりオンライン配信
講 師:寿々方 氏(江戸連会員)江戸がたり家元
    荒井孝昌 氏(江戸連会員)元東京国際大学学長
演 目:1)お国かぶき
    2)江戸歌舞伎
    3)江戸三座
    4)芝居見物「名ごりの夢」
    5)明治維新以降の歌舞伎
    6)長谷川伸「一本刀土俵入り」
    7)長谷川伸「瞼の母」
その他:会員のみ参加。参加費無料

報告

1.お国かぶき (荒井孝昌さん・講演)
 ・関ヶ原の役で徳川方が勝利して3年後、世の中が落ち着いてきた慶長8年(1603年)、出雲のお国が京都で
  興行を行った。
 ・それまで女性が舞台に立つことはなく、お国は武士の格好をして踊った。
 ・これは、当時とても驚きであり、まともではないことの表現の「傾いたもの」といわれ、それが「かた
  ぶく」となり「かぶき」となった。
 ・踊りの興行は、鎌倉室町の頃から神社・仏閣の勧進興行として行われていたが、出雲のお国が、宗教とは
  関係なく、純粋に娯楽として興行を行ったのである。
 ・京都の四条河原で竹矢来を組んで行い(資料参照)、遊女かぶきともいわれた。
 ・この「女かぶき」はやがて舞台から客引き(売春)をするようになり、寛永6年(1629年)に禁止された。
 ・これにかわって「若衆かぶき」が出てきたが、これも同様に承応元年(1652年)に禁止となる。
 ・かわって「野郎かぶき」が出てきて、女形も生まれ、現在の歌舞伎にいたる。

2.江戸歌舞伎 (荒井孝昌さん・講演)
 ・上方と江戸で演劇としての歌舞伎が発展。それぞれに天才が出現する。都市の性格の違いによって異なった
  特徴がある。
 ・上方の和事(わごと)
  街が歴史・文化を共有している人々からなり、実際の心中事件を題材にした現代 劇をやわらかい写実演技
  で表現された。
  作者:近松門左衛門  役者:坂田藤十郎
 ・江戸の荒事(あらごと)
  街には全国から歴史・文化の違う多くの人が集まり、しかも男性が中心で方言が 飛び交い、江戸文化と
  して統一されていない状況。一見して面白い芝居が演じられた。顔の隈取り、実際にはあり得ない格好や
  派手な演技などはその典型である。
  役者:初代 市川團十郎

3.江戸三座 (荒井孝昌さん・講演)
 ・人形町に猿若座、市村座、木挽町に森田座、山村座ができる。
 ・山村座は江島生島事件により廃絶。
 ・芝居は照明がないため昼間に終日行われた。そのため、食事や女性のためのトイレや着替えなど、また、
  席の予約や札の購入のために芝居小屋が利用された。
 ・料金は、最上級の桟敷で一人2万円程度、平土間で5~6千円程度で、現在とあまり変わらない。一番安い
  2階の後ろは人数制限なしで入れたため、追い込みと呼ばれ、立見席で、役者の声が聞こえないこともあり
  「つんぼ桟敷」の語源ともなった。一人15~16文で200円前後。
 ・水野忠邦の天保の改革で芝居小屋は廃止の予定だったが、北町奉行の遠山金四郎の助言により、浅草聖天町
  に移転された。
 ・周りは田んぼで北側に吉原があり、その先には小塚原の処刑場があって寂しい処だったが、江戸三座が
  一か所に集まることにより賑やかになった(資料参照)。

4.名ごりの夢 (寿々方さん・語り)
 ・徳川将軍蘭方の唯一の奥医師、桂川家七代目当主、桂川甫周の娘、今泉みねさんが昭和9年、80歳のころ
  より語り始めた、幼少の頃の江戸時代の様子を記録した「名ごりの夢」
 ・寿々方さんが解説を交えながら、築地の隅田川沿いの屋敷から舟に乗り、芝居見物に出かける一日の様子の
  部分を、江戸がたりの口調で語られた。
 ・みねさんは安政2年(1855年)生まれ、昭和12年(1937年)に83歳で逝去。
 ・みねさんが13歳の時が明治維新であるから、この芝居見物は彼女が10~12歳の頃であったと思われる。

5.明治維新後の歌舞伎 (荒井孝昌さん・講演)
 ・維新の近代化の波は文化の面でも推奨され、演劇改良運動(主に歌舞伎)が起こった。
 ・九代目團十郎は熱心に活動。彼は「活歴物」といわれる旧来の荒唐無稽な時代ものでなく、史実による時代
  考証を重視した歌舞伎を演じた。
 ・井上薫の後押しもあり、天覧歌舞伎も催され、歌舞伎の地位は向上したが、知識階級以外の一般庶民の評判
  は悪く、やがて「活歴物」は廃れた。
 ・これまで、歌舞伎の作品は座付きの作者が台本を提供していたが、これより、歌舞伎に関係のない人達が
  台本を提供するようになった。
 ・代表的な作者として、坪内逍遥、岡本綺堂、長谷川伸などがいる。
 ・長谷川伸は幼少の頃、両親と別れ苦労して独学で学び、新聞記者となる。その経験をもとに書かれたのが
  「一本刀土俵入り」「瞼の母」である

6.長谷川伸「一本刀土俵入り」 (寿々方さん・紙芝居)
 ・関取になれず、やくざになった男が、昔世話になった女性の難儀を救う恩返しの物語

7.長谷川伸「瞼の母」 (寿々方さん・紙芝居)
 ・幼いころに別れた母を探し訪ねたが、やくざの身では受けいれてもらえず、あの懐かしい母は自分の瞼の裏
  にしかいない、と去っていく男の物語

以上    文責:白石 徹



9月講「総合的知識人・大田南畝の魅力~狂歌・狂詩・エピソードなど」

日 時:9月26日(土)午後2時~4時
場 所:高井戸区民センター第9集会室(57名収容可)
講 師:森岡久元 氏  作家
    主な著作:南畝三部作「崎陽忘じがたく~長崎の大田南畝」
         「南畝の恋~享和三年江戸のあけくれ」 
         「花に背いて眠る~大田南畝という二世蜀山人」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円(会場参加者)。Zoom参加者は無料。
その他:会場参加者は25名に限定。マスク着用の事。
    コロナの感染状況拡大の場合は会場参加は突然の中止もあります。
    その場合、参加費はキャリーオーバーとします。

報告

・大田南畝のお墓の話
・南畝研究家の玉林晴朗(たまばやしはるお)氏と浜田義一郎により戦前・戦後に出版された研究書によると、
 東京都文京区白山の本念寺にある南畝の墓所には、南畝の墓に並んで南畝の妾の島田香と娘の兼を祀った島田
 氏歴世の墓や、父母、妻、倅(せがれ)定吉夫婦、伯母、祖父母、曾孫の墓はあるが、吉原から身請けした
 お賤の墓はない。
・南畝びいきの永井荷風もお賤の墓がないことに落胆している。
・平成11年(1999年)、講師が本念寺を訪れた時には、南畝の墓と両親、お賤の墓があった。関東大震災・
 太平洋戦争を経て、無縁墓の整理が何度も行われた結果と思われる。
・近年、さる放送局が南畝特集を放映するにあたって、無縁墓の中から両親とお賤の墓を見つけ祀ったものと
 考えられる。
・南畝の墓は大きく立派なものだが、「南畝大田先生之墓」とあるのみで墓碑銘がない。これは、南畝亡き後、
 一家は困窮し、後の分を刻む金がなかったものと思われる。
・倅定吉は神経症の病があり、家督を孫の鎌太郎が継いだが、南畝のような役職には至らなかった。
・玉林氏は、お賤の墓は当初島田家歴世の墓があった南畝の隣だったと推定している。
・南畝と香の娘兼と暮らしていた、鎌太郎の孫の大田堅が香と兼の墓である島田家歴世の墓を建立するに
 あたり、兼の念願どおりに、お賤の墓を除いて堅の父親である南畝の墓の横に据えたのではないかと講師は
 推定している。
・南畝の死後、彼の墓の隣を本妻の里与、妾の賤、妾の香と娘の兼が取り合っているようだ。
・以下、妾お賤や妾香との経緯。時世におもねることなき気骨を持ちながら、学問と酒色を愛する享楽の文人
 南畝をこよなく愛した永井荷風の話。大田南畝の若き頃より発揮された天才ぶりを含めたその一生、南畝の
 狂歌等々について、豊富なレジメと軽妙な語り口でご講演された。

以上    文責:白石 徹



8月講「江戸の謎めいた坂の名前~三年坂」

日 時:8月29日(土)午後2時~4時
場 所:東京ウイメンズプラザ(青山)第一会議室(80名収容可)
     JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線 渋谷駅 宮益坂口から徒歩12分、
     東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線 表参道駅 B2出口から徒歩7分、
     都バス(渋88系統)渋谷駅から2つ目(4分)青山学院前バス停から徒歩2分
講 師:松本崇男 氏(江戸連会員、坂学会理事長)
会 費:会員1,000円(会場参加者)、Zoom参加者は無料。
懇親会:無し
その他:Zoom配信あり(無料)。会場参加は30名限定。
    コロナ感染拡大の場合は中止もあります。

報告

・江戸における坂名は300余あった。
・坂名は、10%しかなかった町名を補うものとして、庶民によってつけられた。
・目印・目標物になるものを坂名にした。
  例)人名:佐内坂、堀坂、六角坂
    景観:富士見坂、潮見坂、八景坂
    形状:長坂、大阪
・三年坂は、これらに当てはまらない不思議な名前である。
・三年坂は全国各地に19か所あり、そのうち江戸に6か所ある。
・その多くは江戸時代に名付けられた。
・三年坂は寺・墓地への道筋にあることが多い。
・19か所の三年坂の場所の一覧とそのうち9か所について由来の説明があった(省略)。
・一番古い三年坂は、京都清水寺の参詣道の三年坂である。大同三年(809年)に開かれたとの伝承あり。
・三年坂周辺は鳥辺野への道筋であり、冥界への通り道であった。
・「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」との伝承の由縁でもある。
・清水寺の三年坂の名前が全国に広まった理由は
  *三年坂は清水寺の参道であった。
  *清水寺の勧進活動により、坂名が伝播された。
  *江戸時代に次々と刊行された京都案内(地誌)の影響があった。
・三年坂が産寧坂、再念坂、三念坂とも呼ばれた理由は
  *「三年のうちに死ぬ」という伝承を嫌い、清水寺参詣道にふさわしい坂名に言い換えた。
  *産寧坂:参詣すると安産する。
  *再念坂:再び念が深くなる。
  *三念坂:仏の名を三度念ずる。
・清水寺参詣曼荼羅では、霊場部分が全体の4分の3を占めており、参詣道部分は4分の1で、霊場に至るまでの
 道が圧縮して描かれている。
・参詣道部分:五条橋~六波羅蜜寺~八坂塔~産寧坂(三年坂)~清水寺門前町~(経書堂~大日堂~門前
 茶屋)
・同じころに描かれた「八坂法観寺塔曼荼羅」と比較すると、三年坂、鳥辺野を意図的に避けているようだ。

清水寺参詣道曼荼羅
 

以上     文責:白石 徹



7月講「江戸無血開城-本当の功労者はだれか?」

日 時:7月25日(土)午後3時~5時
場 所:オンラインZoom
講 師:岩下哲典先生 東洋大学文学部史学科教授・博士(歴史学・青山学院大学)
    主な著書:「江戸無血開城」「病とむきあう江戸時代」「津山藩」 
         「高邁なる幕臣・高橋泥舟」「江戸の海外情報ネットワーク」
         「幕末日本の情報活動」「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」
         「徳川慶喜」「江戸のナポレオン伝説」「権力者と江戸のくすり」など他多数
会 費:無料
懇親会:無料

報告

・「山岡鉄舟」「高橋泥舟」「勝海舟」のいわゆる幕末の三舟に関する豊富な資料に基づき、本講演の主題で
 ある「江戸無血開城―本当の功労者はだれか」について語られた。
・聖徳記念絵画館展示「江戸開城談判」に西郷と勝海舟の江戸に於ける江戸無血開城の会談の様子が描かれて
 いるが、これに先立って行われた静岡での西郷と山岡鉄舟との会談が重要である。
・徳川慶喜が江戸城を撤収する前日の夜、旗本を集めた席で「江戸無血開城の最大の功労者は鉄舟である、と
 慶喜から「来国俊之御短刀」を拝領し「一番槍だとの上意」との言葉があった」と、鉄舟から家族宛ての
 書簡にある。
・鉄舟は西郷との会談で慶喜の謹慎の状況を何度も説明し、ついに西郷から江戸城引き渡しの「五箇条ノ御沙汰
 書」を得るが、最後の「慶喜の池田家預り」は断固拒否し、これは保留事項として「四箇条ノ朝命書」を受け
 取った。
・池田家は、慶喜の弟ではあるが勤王思想の強い家であり、また、当時の習慣として他家預りは結果として
 「死」を意味した。
・これを「保留・後日相談事項」としたことは、慶喜の助命が自明のこととなったことを意味した。
・結果、後の江戸会談で慶喜は水戸本家謹慎という極めて軽い処分となった。
・「国俊短刀」は、鉄舟の妻・英子の遺言書の中で「山岡家遺産の家宝の中で筆頭である」とされている。
・「来国俊」の「来」とは、「蓬莱の国から来た」という意味で、刀の価値として上の中以上のものである。
・大久保忠寛から勝海舟に宛てた書簡に、慶喜の意向として、当初、勝を西郷との交渉役に任命したが、勝は
 幕府最後の切り札の「千両箱」であるから、これを取り下げるとある。
・慶喜はその後、その役を高橋泥舟に定めるが、これも思いとどまり、結局、泥舟の推薦により山岡鉄舟に
 決まる。泥舟は山岡の才を高く評価していた。
・慶喜は自分で細かいところまで指示を出す上司である。
・したがって、鉄舟は慶喜から直接交渉役の任命を受けている。世に言う、海舟の代理ではない。
・鉄舟は、慶喜から任命されて初めて海舟に挨拶に行き、そこで、海舟が預かっていた薩摩藩の益光休之助を
 紹介され、彼と共に西郷の処へ行くこととなる。
・慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるが、彼はまた、慶喜に上野寛永寺の謹慎を強く勧めたと言われている。
 静岡会談の筋書きは泥舟が策したともいえる。
・後に、慶喜が公爵に叙された祝宴の席で、慶喜は、泥舟が作った和歌を軍楽隊に二度も演奏させたという。
・幕府側の「江戸無血開城」の一番の功労者は、西郷のもとへ単身乗り込み、その条件を引き出し、慶喜の助命
 まで実質的に実現した山岡鉄舟である。二番目は、高橋泥舟。三番目が勝海舟といえる。朝廷側では、勿論
 これを朝廷側内部で説得した西郷隆盛である。
・後に西郷は、「和宮」や「篤姫」からの接触はあったが、何を言っているのか良くわかなかった、と言って
 いる。朝廷側と幕府側が具体的・実質的に交渉したのは、西郷と山岡の静岡会談が始まりである。

・講演の中で示された多くの資料名については、事前に配布されたレジメを参照されたい。

以上。   文責:白石 徹



6月講「江戸時代の色彩と文化-青の魅力-」

日 時:6月27日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:荻原延元 氏(江戸連会員、日本画家、川村学園女子大学名誉教授)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:なし

報告

(要約)

*Zoomによる初めてのオンライン配信が行われ、リアル参加者23名に対して、16名がオンライン参加となり
 ました。

本講座では、「青の歴史と文化」として ①徳島・阿波藍の歴史文化 ②古伊万里・有田の染付の魅力 ③北斎・広重のブルシャンブルー の3テーマについて語られた。

①徳島・阿波藍の歴史文化
・「魏志倭人伝」によれば、倭国から赤や青に染められた絹織物が献上された、とある。
・奈良時代では藍染を施業とする家が33戸、緋染めの家が30戸あった。
・平安時代には、毎年6月1日から8月末までの3か月間が染めの期間と定められていた。
・江戸時代には、京都の洛中では染屋の数が215軒あった。
・日本の藍染で有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、平安時代の村上天皇の御世の古文書に「阿波の藍を
 最勝とする」と記されている。
・戦国時代には、吉野川流域に藍栽培が広がっていった。
・天正13年、蜂須賀家正が阿波に入国すると、藍栽培がより盛んになった。
・明治時代になるとますます盛んになったが、末期になると、安価なインド藍と合成染料の輸入により日本の
 藍産業は衰退の道をたどる。
・徳島市藍住町の「藍の館」-阿波藍資料館
・藍住町及び近隣の上坂町周辺の地域は蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中、蓼藍の葉を深い甕に
 入れて発酵させ、染料となる「すくも」をつくり、阿波正藍染の伝統技術と文化を守り続けている。
・藍の栽培には良質の「金肥」として、粉末状の干鰯や鰊粕を大量に畑へ撒く必要があり、大変な費用が掛かり
 昔から藍作りは「肥え喰い農業」と呼ばれていた。
・藍の色相

・古代より高い身分の人しか使えなかった「禁色」が各時代にあったが、藍染めの色は誰もが自由に使えること
 ができた。
・明治時代に来日したラフカディオ・ハーンが「あらゆるものが紺色」だと日記に記載。

②古伊万里・有田の染付の魅力
・佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地である。
・江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平氏が鍋島藩内の有田泉山に白磁土を発見し、器の成形と焼成に成功
 したことに始まる。
・当初は李氏朝鮮風であったが、後に中国景徳鎮の影響を受け、呉須(コバルト)を用いて花・風景・瑞祥・
 吉祥文などを生産。
・やがて、白磁に赤の色付けをした柿右衛門様式が誕生。「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器
 をも生産し始める。
・鍋島藩は御用窯を大川内に築き、門外不出とした。朝廷と幕府への献上品と鍋島藩の調度品としてのみ生産。


③北斎・広重のプルシャンブルー
・18世紀初めプロイセンの首都であったベルリンで錬金術師で医師のヨハン・ディッペルの工房で偶然生ま
 れた鮮やかな青色。
・宝暦13年(1763年)平賀源内が「ベイレンブラーウ」として紹介している。
・大変高価で御用絵師でもない限り、浮世絵師の手に入ることはなかった。
・中国が量産に成功しアジア諸国に広まり、やがて日本でも出回るようになった。
・「藍摺り絵」の絵師として人気の渓齊英泉が浮世絵に初めて使用。
・葛飾北斎が70歳を過ぎてから仕上げた「富岳三十六景」にはプルシャンブルーがふんだんに用いられて
 いる。
・初代歌川広重も「東海道五十三次」「名所江戸百景」に、プルシャンブルーを巧みに生かし、江戸っ子
 の粋と爽やかさに満ちた独自の世界を作りだしている。



・以上。他に沢山の資料がありましたが割愛しました。  文責: 白石 徹



2月講「水辺空間から見た中・近世の品川-品川宿の歴史の変容-」

日 時:2月22日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:柘植信行 氏
     品川歴史博物館元副館長・現専門委員
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

・国宝「武蔵国品河湊船帳」称名寺所蔵・金沢文庫保管(配布資料参照)によれば、明徳3年(1392年)正月
 から8月に品川に入津した船が明記されている。上段に船名、中段に船主、下段に問(年貢・商品の輸送や
 保管に携わる事業者)が記された台帳である。
・船名や船主から伊勢大湊とのかかわりを伺うことができる。綿貫友子神戸大学教授は三重の伊勢と資料を突き
 合わせて同じものがあると言っている。
・大湊は、元禄8年(1726年)津波でつぶれる迄、伊勢地方の主要な港であった。他に安濃津(現在の津)、
 桑名、三津があった。
・これらの港は伊勢神宮と深いかかわりがあった。
・伊勢神宮は関東に御厨(みくりや)という領地を27か所所有していた。
・鎌倉時代、源頼朝は伊勢神宮との関係を深めるため関東の領地を寄進していた。
・この税の輸送や商取引のため伊勢と関東との往来に太平洋航路が使われていた。
・当時、品川に入る船は帆に対して税金を徴収していたが、伊勢からの船は神人の船「関東渡海之神船」として
 税を免除されていた。
・太平洋海運については文書資料が乏しい。関東各地で出土する、伊勢周辺の陶磁器によって知ることが
 できる。特に常滑の大甕などは船でしか運べないものである。
・中世、西国と東国を結ぶ海運は、伊勢と品川の間で行われていた。
・京都醍醐寺僧堯雅が関東下向を記した「関東下校印可授与記」によれば、伊勢から品川に渡り、そこから船を
 変えて、河川を使って関東各地へ赴いている。
・鎌倉時代、紀姓実直が大井郷に土着、大井姓を名乗る。その後、次男実春が大井姓を次ぎ、三男清実が品河郷
 に入り、品河姓を名乗る。
・実直の子供たちは、その他、春日部氏、堤氏、瀬田氏になどになる。
・品河氏は品河湊の管理を任される。もともと紀氏は伊勢国との関係の深い氏族で、品河氏は伊勢と品河の
 太平洋航路に関わっていた。
・大湊~品河の中間の江尻の港は重要な拠点であった。
・南北朝から室町時代に大井氏、品河氏は西国へ流れ、品川在地の武士団も没落し、海運を背景に町衆が勃興。
 町は大井郷から品川へ移る。鎌倉を支えた港町、後背地となる。
・有力町衆は有徳人と呼ばれ、海運で稼いだ金を寺社へ寄進した。紀伊半島熊野三山の神主出身で、鈴木道胤、
 榎本道琳、他に宇井氏が有名。
・多様な寺社が混在し、いくつかの主要道と寺社の境内・門前によって、自然発生的に町が開かれた。
・戦国時代から北条氏の支配下にかけて、新たな町衆、宇田川氏と鳥海氏が勃興。南北の品川宿が成立。江戸
 時代、宇田川氏は北品川の名主、鳥海氏は南品川の名主となる。
・江戸時代には江戸城を中心として都市が開発され、五街道も整備された。慶長6年(1601年)東海道品川宿
 となる。
・中世に造られた寺が多い品川に、将軍家光の私寺として、厭がる沢庵禅師を住職に据えて東海寺を建立した。
 本山は京都大徳寺、室町から鎌倉初期の釈迦三尊像を祀る。
・元禄7年(1694年)東海寺が焼失し再建されるにあたって、それまで中世の町場を臨む南向きであったもの
 が、再建後は東海道に向く東向きに変更、近世品川の都市的変容を象徴・西国から関東へ入る玄関口としての
 役割から、江戸の発展と共に立場が逆転し、江戸の近郊都市、周辺地域へと変容していった。

以上。    文責:白石 徹