江戸連の紹介

今なぜ江戸なの?

今の世の中、平和を享受しながらも成長の限界、人口減少という点では江戸期の作家井原西鶴のいう「詰まりたる世」ですね。江戸期はそのうえ、幕藩体制に身分制のもとでの停滞社会でした。今からみると民衆は、貧しく不便でしかないくらしのはずでした。

ところが彼らはそれを、うるおいのあるものに変えたのです。それが可能になったのは、乏しい資源を最大限活用したきめ細かい産業と生活基盤の整備、リサイクル・システムの完備、それに農村や下町の長屋にみられるような相互扶助とボランティア、日の出、日没にあわせたゆったりした生活時間などによるのでしょう。いまや内外から持続型社会モデルのひとつとされるゆえんです。

しかも民衆は、当時の先進国にくらべても高水準の識字率と、あくなき遊び心によって多彩な民衆文芸をも開花させました。そして自然と人との、こまやかな係わりは、日本人の生活文化の原型ともなったのです。

その生活文化の多くは、明治以来の近代化、ことに戦後、バブルとその破綻までの大きな社会変動のなかで消えていきました。手にしたゆたかさに欲望をつのらせながら、きびしくなる市場競争のなかでくらしのリスクは増大し、不安がつのります。人々のものの見方、感じ方も拡散し、社会でともに生きていくうえでのルールも乱れがちです。家庭や地域社会、職場の絆はゆるみ、安らぎもうるおいも薄れて、荒んだ世相がひろがってきています。

この流動たえまない不確実な時代を生きるには、私たち自身のくらしを照らしだす参照軸が必要です。江戸連は、その手がかりを江戸期の生活文化に求めました。今をとらえ直し未来を開くための方法としての江戸なのです。

どうして「連」というの?

たしかに江戸期の農村や下町共同体は、温かく親密な関係のなかで安んじうる場所ではありました。けれども、地縁、血縁のしがらみの重圧も強かったでしょう。まして個人の自由、私の権利意識のたかまったいま、伝統的な共同体という先祖帰りは無意味です。しかし、しがらみから逃れ、抑圧からの自由を求めたのは江戸期の民衆も同じでした。武士も町人も百姓も、身分をこえて自由な一私人として参加したのがさまざまな「連」でした。

欧米でのカフェやサロン、読書クラブが近代の市民公共性を形成する場となったように、それらは幕藩体制のなかで、自由なもうひとつの世界をつくったのです。さかのぽって13世紀の日本、身分や名前をかくし「無縁の衆」として参加した「花の下連歌」の座で人々は楽しみを分かちあったのです。

江戸期には、俳諧、狂歌、物語、落語、絵暦、浮世絵、博物学、医学などの文芸、科学技術を生み出す坩堝にもなりました。地方でも寺子屋の同窓会が連になり、歌舞伎のファンクラブや旦那衆が座をもりたてました。関心を共有する仲間との連なりのなかで、互いに個性を生かしあい、多様な考え、感性のぶつかりあうなかから、新しい価値を生み出す、そんな連でありたいのです。

講とは何か? ~江戸連『講』の由来~
江戸時代の「講」には、「伊勢講」「富士講」に代表される信仰に基づくものと、「頼母子講」「無尽講」に代表される経済的相互扶助を目指すものの二種類があった。どちらも、「講」のメンバーが定期的にお金を積み立て、そのお金で前者の場合には何人かずつを「講」の代表として伊勢詣・富士詣に送り出そうとするものであり、また後者の場合には籤引きなどに当たった人がまとまったお金を優先的に利用できるシステムであった。伊勢詣も富士詣も日本の信仰の旅は同時に「物見遊山」の旅でもあった。「連れ立ってあちこちの名所旧跡を訪ね、知的好奇心を満足させようとする」旅でもあった。

翻ってわが江戸連の「講」には、信仰や経済的扶助という精神は一切ないが、「同好の士が群れて、旺盛な好奇心で共に学び合い、連れ立って物見遊山を楽しむ」という点では、江戸時代の「講」の精神に一脈通じるものがあると思っている。これまで江戸連では、「七福神巡り」「日本橋の老舗巡り」「小江戸巡り」「江戸の坂と史跡巡り」「江戸の川巡り」「長崎の旅」「関東の歴史バスツアー」や落語・歌舞伎・能などの「古典芸能の鑑賞会」そして江戸学についての各種「講演会」などを「講」として実施してきた。さらに最近では、江戸連の中に連衆が自主的に立ち上げた「蕎麦連」や「投扇連」が発足して、新たな「講」が活発な活動を展開するようになっている。

江戸連は2002(平成14)年に少人数で発足したが、10周年となった2012(平成24)年には60人を超す大人数の組織になった。今後、どのような「講」の活動を行っていったらよいかが大きな課題であるが、「蕎麦連」や「投扇連」のような「連内連」のあり方は一つの方向性を示すものだと考えている。江戸連ではこれからも江戸連らしい魅力的な「講」を企画していきたいと思っているので、連衆のみなさまの積極的なご意見・ご要望をお待ちしている。