江戸っ子の金銭観

江戸っ子の金銭観をよく表した川柳に、「江戸っ子の生まれそこない金をため」「江戸っ 子は宵越しの金はもたぬ」「借金をいさぎよくする祭前」がある。
江戸っ子の条件については、山東京伝が酒落本「通言総籬」で具体的に挙げている。

例えば、
①江戸城のお膝下の生まれで、水道の水を産湯に使い、
②初鰹に大金を投げ出すほ ど金離れがよく、
③宵越しの金は使わず「いき」と「はり」に男をみがくのが江戸っ子の美学なのだ。

だからこそ、「魚河岸」「吉原」「芝居」で一日に千両の金が使われたのである。
その一方で、「これ小判たった一晩居てくれろ」と嘆き、「蚊のすねにやすりをかける日銭かし」に頼み込み、金を借りれば「十貫目借れば手取りは七貫目」とほぞを噛むのである。あげくの果てに、大晦日は「例年の通り後架で年を取り」という羽目になる。

江戸っ子と対照的なのが関西っ子である。井原西鶴は「日本永代蔵」の中で、江戸っ子の生活振りを次のように痛烈に皮肉っている。「(江戸は)人みな大腹にして、諸事買物 大名風にやって、見事なる所あり。
今日のえぴす講は、万人肴を買はやらかし、自然と海 も荒て、常より生物きらし、殊に鯛の事、壱枚の代金壱両二歩ずつ。しかも、尾かしらにて壱尺二三寸の中鯛なり。これを町人のぶんとして、「内証料理につかう事、今江戸に住む 商人なればこそ喰はすれ。京の室町にて、鯛壱枚を弐匁四五分にて買取り、五つに分けて、ちぎにかけて取るなど、これ見合わせ、都の事おかし」えびす講の祝いに、江戸っ子は一尺二三寸の中鯛を1両2分で買い、京では、鯛1尾を銀2匁45分で買取り、それを5人で分けている。ちなみに、元禄時代の金と銀の両替相場はおよそ金1両=銀60匁だから、京の鯛1尾の値段は、江戸の36分の1であり、それを五人で分けた上に、しかも重さを秤に掛けて代金を計算Lている。

このように関西っ子の金銭観は、「金銅を溜べし。これ二親の外に命の親なり」であり、 「金銀が町人の氏系図」なのである。金を生み出す手段は「朝起五両、家職二十両、夜詰八両、始末十両、達者七両」であり、金を溜めるのには「義理、人情、恥の三欠く」が必要なのである。そうすれば「世に銭ほど面白き物はなし」となる。しかも、「とかくぎんをもたねば、にんげんのかずならず」ことを知り、「わかきこと、二度はなしとて、らくするな、としはよりても、なぐさむはかね」であることを悟っていたのである。 かの一休和尚さえ「一文や二文などとは思うなよ阿弥陀も銭で光る世の中」と述ペている。

この関西っ子の金銭観は、欧米にも適用するグローパル性を持っているのだ。フランクリンは「二十シリングの金と二十年の歳月は、いくら使っても使い切ることがない、と考えるのは、子供と愚か者だけ」と指摘し、「ささいな出資を警戒せよ。小さな穴が大きな舟を沈めるであろうから」と警告している。
シェークスピアは「黄金さえ多ければ、黒を白にし、醜を美にし、曲を直にし、いやしさを貫くし、老いたるを若くし、怯を勇にする」ことを見抜さ、カーライルは「借金は底なしの海である」とレッドカードを出している。
どうやら平成のバブルが産み落されたのは、江戸っ子の金銭観のDNAがうごめいたからに違いない。(OKA)

江戸の貨幣について

私たちは日常生活の中で「貨幣」という言葉を使うことはまれであり、一般的に使われるのは「お金」です。このような言葉が生まれたのは、江戸時代に「金貨」と「銅銭」が「貨幣」として使われたからです。「お金」とは「金貨」を指し、「お銭」とは「銅銭」を指しているのです。

わが国の貨幣制度が統一され、定着したのは江戸時代です。徳川家康は、天下分け目の戦いであった関ヶ原の戦いに勝利した翌年の慶長6年(1601年)に、早くも新しい貨幣システムを定めました。金貨、銀貨、鍋貨の三貨制度です。慶長13年(1608年)に小判1枚=1両とし、従来の貨幣(渡来銭)である永楽銭の通用を禁止します。

①金貨・・・ 慶長大判く10両=44匁=165グラム)
  慶長小判(1両=18グラム、86.8%)
  1分金(1/4両=4.5グラム)
②銀貨・・・ 丁銀、豆板銀(秤量貨幣)
③銅貨・・・ 寛永通宝(1文銭=銅1匁、4文銭=銅1.3匁)
慶長大判
慶長小判
1分銀
丁銀
豆板銀
寛永通宝
(1文銭)
寛永通宝
(4文銭)


慶長14年(1609年)に、幕府は三貨の交換比率を定めました。金1両=銀50匁=銅銭4,000文(4貫)
明暦元年(1655年)に、幕府は市価比価による貨幣の交換を公認し、金貨、銀貨、銅貨の両替相場市場が大阪と江戸で開かれます。つまり、現在の為替相場のように変動相場制で運営されたのです。

 

①相場の建て方
  銀相場 金1両=銀○匁○分○厘
  銭相場 金1両=銭○貫○○○文(大阪は銭1貫目=銀○○匁○○分○○厘)
②銭相場の推移(1両当たり)
  明暦4貫台→明和末5貫台→寛政末6貫台→文久末8貫台→慶応末10貫台

 なお、金貨、銀貨、銅貨の主な通用圏は次の通りでした。

①金貨(両)は、江戸と東日本経済圏(陸中~尾張)および武士
②銀貨(貫、匁)は、大阪・京と西日本経済圏(陸奥・越前~九州)および商人
③銅貸(文)は、庶民階層

 徳川幕府の財政は慢性的に赤字であり、さまざまな財政再建策(デフレ政策)が行われました。それに利用されたのが、貨幣の純金量を大幅に減らす改鋳でした。最初の改鋳は元禄8年(1695年)に行われます。
慶長小判と万延小判の金の含有量を比較すると、およそ88%も少なくなっています。貨幣の改鋳は貨幣価債を下げ、通貨量を増しますから、庶民生活は不景気と物価上昇の痛手をまともに受けることになります。
なお、現在の金相場(1g=4,500円)で慶長小判を単純に評価すると70,306円、万延小判は8,464円に相当します。

・元禄小判(1695年)=17.9グラム、純金度57%

・天保小判(1837年)=11.3グラム、耗金度57%

・安政小判く1859年)=9グラム、 純金度57%

・万延小判(1860年)= 3.3グラム、鈍金度57%

天保小判 万延小判