江戸連講

11月講「紀州徳川家の400年」

日 時:11月11日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:徳川宜子(とくがわことこ)氏(紀州徳川家19代当主)
内 容:藩祖徳川頼宣公が元和5年(1619年)紀州へ転封されてから来年で400年を迎えます。
    紀州徳川家の歴史から現代につながる想いを19代当主徳川宜子さんが語ります。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。一人3,500円

報告

・紀州徳川家について
   徳川家康の十男である徳川頼宣が元和元年に(1619年)に55万石を拝領して紀州藩主として和歌山城
  に入城したことで始まる。
  初代・頼宣-2代・光貞-3代・綱教-4代・頼職-5代・頼方(八代将軍吉宗)-6代・宗直-7代・宗将
  -8代・重倫-9代・治貞-10代・治寶-11代・斉順-13代・慶福(十四代将軍家茂)-14代・茂承
  -15代・頼倫-16代・頼貞-17代・頼韶-18代・剛-19代・宜子

・江戸に残る紀州藩ゆかりの地
  上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷があった。火事により所替えがあり、江戸市中に30数か所屋敷跡が
  あった。
 1.竹橋邸  千代田区千代田
    吹上御所近く。元和元年初代頼宣が紀州へ行く前に拝領。
 2.赤坂邸  港区元赤坂
    1603年完成。その後9回火災にあっている。中屋敷から上屋敷に変更。明治4年まで使用。皇居火災の
    折に明治天皇へ献上された。
 3.麹町邸  千代田区紀尾井町
    上屋敷。明暦の火災の後明暦3年(1850年)に拝領。現在の赤坂プリンスホテルの地。屋敷裏に清水が
    湧いていて清水町の地名を今に残す。
 4.千駄ヶ谷邸  渋谷区千駄ヶ谷
    下屋敷。江戸崩壊後、天璋院、家達公が住む。
 5.木挽町邸  中央区銀座
    蔵屋敷。江戸初期に拝領。現在の銀座2丁目の東半分を占める。
 6.松濤邸  渋谷区松濤
    下屋敷。のち鍋島藩に譲る。現在松濤公園。
 7.築地邸  中央区築地
    蔵屋敷。1864年築地ホテルとなる。奇しくも、この地に石橋徳川設計所で築地市場脇公衆便所を
    設計、2014年グッドデザイン賞を受賞。
 8.蛎殻邸  中央区日本橋蛎殻町
    下屋敷。築地が手狭という事で同時期に拝領。

・紀州徳川家とモダ二ティ 近代の紀州徳川家が残したもの
  第15代 徳川頼倫 (明治5年・1872年~大正14年・1925年)   
     日本図書館協会総裁・史跡名勝天然記念物協会会長・侯爵
  ・8歳で田安徳川家より14代茂承の養子となる。
  ・久子と結婚後イギリスのケンブリッジ大学に留学
  ・紀州徳川家の蔵書10万冊を納める南葵文庫を建立。関東大震災後、東大図書館へ寄贈。
  ・皇居火災の折、赤坂邸を明治天皇へ献上。その後飯倉の屋敷に居住。敷地内には西洋造りの建物も
   作られた。
  ・現在の文化財保護法に繋がる、史跡や文化財の保護に尽力。
  ・頼倫公の茶室「高風居」は、現在三鷹の国際基督教大学に移築されている。

  第16代 徳川頼貞 (明治25年・1892年~昭和29年・1954年)
   ユネスコ国会議員連盟会長・全日本音楽協会会長・侯爵
  ・西洋音楽に造詣の深い音楽の殿様
  ・ケンブリッジ大学に留学、音楽の道を志す
  ・大正7年南葵音楽堂を建立。その開堂式では80名あまりの混成管弦楽団によるベートーベンの曲が演奏
   され日本文化への大貢献と評判をよんだ。座席数350名。高名な音楽家を招きしばしばコンサートを
   開催。
   地下の南葵音楽文庫に数多くの音楽関係の資料が収蔵されていた。現在和歌山県立図書館で公開中。
  ・大正7年6月、ベートーベンの第九がドイツ軍の捕虜によって徳島の捕虜収容所で日本で最初に演奏
   されたと聞き、その8月には徳島に演奏を聴きに行っている。
  ・大正9年日本初のアポット・スミス社製のパイプオルガンを設置。関東大震災で南葵音堂は壊れ、パイプ
   オルガンは東京芸大に寄贈された。
  ・2回目のヨーロッパ旅行の折、英国ジョージ5世に拝謁した。其の拝謁の前1週間、拝謁のマナー学校へ
   通ったという。
  ・プッチーニと会談した時に、彼の蝶々夫人のオペラの旋律は日本人としては違和感を感じるとコメント
   した折、中国のオペラの楽譜を頼まれたので帰国後送ったが、どうも届かなかったようだとのエピソード
   あり。

徳川宜子(ことこ)氏 経歴
  東京都出身。紀州徳川家19代当主。
  1977年東洋英和女学院短期大学英文科を卒業後、文化学院で建築を学び1981年卒業、同年大成建設株式
  会社入社。1985年大成建設の石橋利彦氏と共に株式会社石橋徳川建築設計所を設立。
  <著書>
   「建築家のワークスペース-VectorWorks製図ガイド」(石橋氏との共著)
   「相関のデイテール」(石橋氏との共著)
  <事務所の主な作品>
   ケルヒャ―ジャパン本社工場、千葉大学創造工学センター、米澤工機本社ビル、Ī邸、数寄屋橋公園内
   公衆便所、慈眼山成願寺、港南ビル、他

     頼倫公の茶室「高風居」
     高風居

    頼貞公「南葵楽堂」
     南葵楽堂

    徳川宜子氏講演
     徳川宜子氏講演



10月講 歌舞伎鑑賞

日時:10月14日(土) 昼の部(午前11時開演)
演目:極付印度伝 マハーバーラタ戦記
   日印交流60周年に因んでヒンドゥ教の聖典とされる古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」を題材
   にした新作歌舞伎
出演:尾上菊之助、市川左團次 他
会費:6,000円

報告

マハーバーラタ戦記



江戸連有志 東京駅見学会報告

2017年9月22日(金)9:00~12:00

 江戸連会員坂本さんの尽力により、大林組さんのご協力で東京駅見学会が実現しました。現場の安全の都合上、人数は30名に限定されましたが、あっという間に参加者満員となり、その後もキャンセルが出ず、10名のキャンセル待ちの方は残念でした。
朝9時に東京駅丸の内側北口改札集合、大手町の大林組工事事務所へ向かいました。まず、永年東京駅の工事に携わった経験をお持ちの坂本さんから、東京駅の歴史やその時々の東京駅や周辺の様子、駅舎の構造、レンガ又工事のエピソードの紹介がありました。1872年(明治5年)に新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通したのに、東京駅の開業はそれから42年後の1914年(大正3年)とは意外でした。
また、首都圏の鉄道網の整備を委託されたドイツの鉄道技術者のルムシュッテルとバルツアーは、100年後の今日の鉄道の発展を見据えた鉄道造りを実施していた。高架方式、鉄骨造でなく煉瓦方式、駅の拡張を予見等々、ただ、駅舎のデザインは寺院洋式であった為、西洋的近代化を目指す明治政府に採用されず、辰野金吾博士に引き継がれ現在の形になった由。その大きさはほぼ戦艦大和に匹敵するとのこと。
また、帝室用御休憩室(松の間)、貴賓用待合室(竹の間)などを写真で紹介、松の間に飾られた横山大観の絵にまつわるエピソード、工事中に湧き出る地下水の処理に関しての皇居のお堀や白鳥、環境庁・宮内庁・大林組本社とのやり取りなどや、レンガの驚異的頑丈さ等大変面白く説明されました。
ひき続いて大林組の現役現場所長より、本日見学して廻る箇所について、特に北通路改良工事現場について工程や現況の説明を受けました。その後、所長はじめ数名のスタッフ方々の案内で現場見学を実施しました。我々の日常生活のすぐ下や裏でこのような大掛かりな工事が日夜行われているとは、大変な驚きでした。また工事現場が大変綺麗なのは流石でした。以下写真参照。
大林組さん有難うございました。

東京駅見学会1 東京駅見学会2

東京駅見学会3 東京駅見学会4

工事概要書 施工ステップ1

施工ステップ2 施工ステップ3

9月講「江戸期の布工芸について」

日 時:9月16日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:服部早苗さん(江戸連会員)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:天豊

 講演に寄せて、服部さんからコメントを頂きましたので、ご紹介します。 
「日本伝統文様を駆使した作品制作を30年余続けていますが、江戸期の250年の安定した時代は、日本の代表的な工芸品も華開いた時期といえます。そうした中で染織、刺繍など身の回りの工芸について、あれこれひもといてみます。」

 服部さんは、タペストリーから打掛キルトまでたくさんの作品を手がけてきました。また、海外を含めた各地で「布工芸展」を開催し、好評を博しています。
 なお、9月16日~9月30日までの間、伊場仙ビル1階ギャラリーで服部早苗さんの作品展を開催していますので、是非ご覧下さい。

報告

最初に、講師の服部早苗さんから過去30年余の200回あまりになる国内、海外における展示会やショーなどの公演、講演会などの事蹟についての紹介がありました。次に、これまでの展示会の一部を配布されたパンフレットに基づいて丁寧な説明がなされました。

以下に要旨を簡単に報告致します。
・「桃山の夢」と題された京都高台寺のお庭での夜間ライトアップによる展示会(1998年10月7日~13日)
   太陽光は布に良くないとの事で、庭に設えたマネキンにキルトの打掛けを着せ光を当てて展示。
・「風林火山“ヨロイ”とともに」日本橋三越本店新館7階ギャラリー(2007年5月15日~27日)
   元々、父の影響で歴史が好きで、特に武田軍団のファン。
   藍染をテーマに陣羽織をキルトで製作、ヨロイ武者に着せて展示。その他打掛け等。
・「布の優しさと仏像の癒し」初公開の仏像シリーズ・江戸期藍染シリーズを中心に
   大倉集古館(2011年4月2日~5月29日)
   大倉集古館には東京都唯一国宝指定の仏像「普賢菩薩騎象像」が収蔵されている。
   ここでの展示会は稀有のことである。また今回有名な写真家小川光三先生の仏像写真をキャノンの
   最新鋭の技術により布にカラープリントしキルティングし展示することができた。
・「仏像・藍染・打掛~鮮やかに時を再生する布の芸術~」渋谷・東急本店3階イベントサロン
   (2012年12月28日~2013年1月8日)
   江戸後期の豪商や豪農が娘の嫁入り道具として街の普通の紺屋に1年前から注文して作らせた物で
   江戸時代の藍染が今に残っているのは奇跡的。今の価格で1千万円はする。
・「藍染・仏像。布切り絵」品川区O美術館(2017年2月24日~3月8日)
   浮世絵を題材にされた布切り絵は当会場伊場仙ビル1階に展示中

<質疑応答から>
・展示会では毎回主催者からオリジナルな作品の出典を求められ大変。
・作品は貸し倉庫に保管している。独自の美術館は持ちたいがそこまで至っていない。
・海外ではモデルに作品を着せてファッションショーをやったりもしている。
・自分の特徴はカラーにあると思う。カラーセンスは生来のものとの思いが強い。
・奈良時代の色に興味があり、灌仏会の再現を試みたが大変ケバケバシかった。
・色物を使えたのは一部の特権階級のみで庶民には色はなかった。
・江戸時代平和になり後期になって色が使えるようになったが、当初幕府に許可されたのは藍染だけであった。
・山形の紅花1gは金1gと同じで大変高価な物であった。
・奈良東大寺のお水取りの時、紙で作った椿の花に紅花で色付けされていた。
・平安時代に中国との交易が途絶えたときに、特権階級の間では独自のデリケートな色を生み出していった。
・秀吉の朝鮮戦争では陶工ばかりでなく職工も朝鮮から連れ帰り、その後、日本の染色技術は飛躍的に伸びた。
・海外での展示会で打掛けを選んだのは、方形の作品ばかりの中、日本的な特徴を一見して表すには
 打掛けが良いと思った。案の定、好評であった。

<1階エントランスで展示作品の紹介と説明-写真参照>
・仏像のキルトと浮世絵の布切り絵が展示。
・サイズ的に大きな作品が多く展示できないため「室生寺・釈迦如来像」1点のみの展示。
・布切り絵は江戸初期の浮世絵、信長に虐殺された荒木村重一族のたった一人の生き残り岩佐又兵衛
 の浄瑠璃物語を作品化したもの。

講演風景  伊場仙ギャラリー

ギャラリートーク 室生寺・釈迦如来像



江戸連有志 大相撲秋場所観戦報告

日時:2017年9月13日(水)
場所:両国・国技館

 江戸連会員の小嶋さんの尽力により、20名限定で大相撲秋場所4日目の観戦チケットを購入出来る事になり、有志を募ったところ直ぐに満杯となりました。
今場所は、3横綱(白鵬、鶴竜、稀勢の里)、1大関(高安)、3前頭(碧山・宇良・佐田の海)らが休場となり、稀勢の里人気で盛り上がる予定の土俵が淋しく感じられるかと思っていましたが、さすがに現場で生で見る相撲の取り組みは素晴らしく、一番一番興奮させられました。
3横綱が初日から休場するのは昭和以降初めて、3横綱と1大関の休場は1999年3月場所以来18年振り、また幕内7人の同時休場は2005年千秋楽以来12年振りとの事。

館内の様子 幕内力士土俵入り

日馬富士土俵入り 遠藤対豊山

琴奨菊対嘉風 4日目勝敗

8月講「微笑仏の木喰~廻国巡礼と故郷への旅路」

日 時:8月19日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:荻原延元氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 昭和53年5月初旬に甲斐路を数日旅して、平安期や鎌倉期の古刹を巡りながら画帖にスケッチを重ねました。
旅の目的の一つでもあった、木喰上人の故郷である身延・古畑古関を訪ねると、血縁の伊藤平厳氏から”木喰五行”の廻国巡礼についてのお話しを頂き、より一層に微笑仏木喰の魅力を深く感じる事となりました。
14才で江戸に出て様々な仕事についた後、やがて木食戒を受けて56才頃から日本廻国巡礼の旅に出ると、人々の平安を祈り千体造仏の祈願を達成し、93才まで生きた江戸期の偉人であると確信いたしました(荻原延元)。

<講師略歴>
 1947年東京生まれ。武蔵野美術大学を卒業。日本画家・奥村土牛先生・塩出英雄先生に師事。日本美術院所属。
 美術教育に携わり40年間、個展5回、大学紀要ほか著作物など少々。オギ・アートクラブ(代々木・松戸教室)主宰。
昨年、江戸連のお仲間となり、月例講や投扇興などで大いに人生を楽しんでいます。この度の《江戸連》表紙絵を担当。

報告

廻国巡礼による布教・庶民救済の行で数多くの木彫仏や神像を造った僧として円空が有名だが、木喰上人はその円空入寂22年後、享保3年(1718年)に甲斐の国、身延古関丸畑に生まれ、14歳の時に故郷を出て、江戸で働きながら、22歳の時に大山不動尊で古義真言宗の高僧に出会い出家。やがて 45歳で日本廻国の大願をおこし、常陸国で観海上人の弟子となって木喰戒を受けた。やがて全国各地の山村、漁村を巡錫。多くの寺社を詣でて納経。人々の平安を祈り、独自の微笑仏を50歳代後半より千体造像の願をかけて、北海道、九州、四国、島々を巡り多数を造仏した。天明8年71歳で、縁のより日向国分寺の住職となる。73歳の時に伽藍が炎上したことで、国分寺再建に尽した。その後には再び各地を巡錫。83歳に丸畑に戻ると村人の願いを受けて四国堂を共に建立し、弘法大師像と88体仏を造像して開眼。さらに90歳では京都、兵庫において多数の微笑仏を造像し、二千体の造仏を祈願。その後は甲斐へ戻ると甲府の善光寺にて阿弥陀如来図を描き。93歳6月5日至寂の紙位牌を背負い箱に残し、何処かに消え去り、その終焉の地は定かではない。
木喰上人は彫物だけでなく和歌等詩を沢山残している。造形性だけでなく文学性にも優れていた。
木喰上人の作品には子安観音像や子安地蔵菩薩像が多くある。当時子供達が多く亡くなっていたのであろう。
木喰仏の笑顔は上人80歳代後半から始まる。

木喰とは
 五穀(米、麦、粟、黍、大豆)を食さず、塩、火を使わず、木の実、草、そば粉等を食し、木喰戒を守り修行する密教系の行者。生涯、廻国巡礼の僧もいる。

木喰と柳宗悦
 柳宗悦は民藝運動を提唱して、その活動を仲間と進め始めた頃、山梨で木喰仏に出会い、その時の感動を友人の彫刻家に「私の直覺が謝る事無くば、上人は幕末における最大の彫刻家だ」と書き送った。柳はその日から熱情を持って、仲間と共に木喰仏を訪ねて研究。木喰を世に知らしめた。

荻原延元氏「甲斐路」画帖2 荻原延元氏「甲斐路」画帖1

8月講風景 荻原延元氏画「現存する木喰仏の地点」

木喰五行上人 自刻像 木喰五行上人作 三十三観音像 荻原延元氏画「木喰礼賛」



7月講「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」

日時:7月29日(土) 午後3時~5時
場所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講師:宮川都吉氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 平成24年の8月講「江戸の酒」の講演で大好評を博した宮川都吉さん(発酵学のオーソリティー)に再登場いただき、「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」というテーマで話をしていただきます。沢山の発酵食品や藍染など、江戸時代の発酵技術について専門家の目でわかりやすく分析してくれます。

<七月講の内容について、演者より>
江戸連の皆様 

 七月講 講演者の宮川です。既にお知らせしてあるタイトルでは講演内容がうまく伝わらないと思われるため、現在準備中の内容をざっとお知らせします。七月講(7月29日)では、日本で独自の進化を遂げてきた「発酵」についてお話しします。多少の科学と、エピソードを交えつつ、次のような内容で分かり易く解説する積りです。

1. 麹について: 清酒、味噌・醤油等の醸造に重要な「麹」は、我が国で長年育まれてきた誇るべきレガシーである。最近の科学的研究から麹の凄さが明らかになったので、最新の知見を交えて解説する。高峰譲吉は百年以上前に、麹の強力な分解(消化)酵素に着目、胃腸薬「タカジアスターゼ」を日米欧で商品化し、世界的に「バイオテクノロジーの父」として崇められている。これを嚆矢とする「世界に冠たる日本のバイオテクノロジー」の一端を述べる。

2. うま味物質について: 昆布や鰹節のうま味は和食文化を支える重要な味覚であるが、馴染みの薄い欧米の学者は、うま味は日本人独特の不可解な感覚と長年無視してきた。最近うま味発現の科学的根拠が明らかにされ、ダシのうま味が世界的にも認知され、和食ブームを後押ししている。池田菊苗は百年以上も前に、昆布のうま味物質をグルタミン酸とつきとめ、「味の素」を商品化した。その後見いだされた物質を含め、今日うま味物質は日本のお家芸のバイオテクノロジーを駆使した発酵法で製造される。

3. 藍染について: 食品以外で発酵技術が利用された稀有な例として、藍染を取りあげる。藍(インディゴ)は化学的特性により、原理的に染色に大きな困難を伴うが、微生物の働き(発酵)を利用して、この問題を見事に解決している。

7月講風景

6月講「広重に見る江戸の謎」

日時:6月17日(土) 午後3時40分~5時40分
場所:西荻南区民集会所 第1・2集会所(定員70人)
   〒167-0053 杉並区西荻南3丁目5番23号 03-3335-5444
   JR西荻窪駅南口より徒歩10分以内
   http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/katsudo/shukaijo/1006955.html
講師:竹村公太郎氏
   元建設省河川局長(著書『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫))
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:投扇興で馴染みの中華屋「新福來 阿佐ヶ谷本店」(別途割り勘)

※時間と場所が従来と違いますので、ご注意ください。

5月講「江戸城の"歴史と植物"を探訪する」

開催日:5月27日(土)
集合場所:江戸城大手門(橋を渡り、鯱の説明板付近)
集合時間:午後1時半
行程:東御苑入園~百人番所~中之門跡~大番所~中雀門跡~果樹古品種園~富士見櫓~松の廊下跡~茶畑
   ~石室~竹林~天守台~北桔橋門~展望台~汐見坂~二の丸雑木林~二の丸庭園~菖蒲田~三の丸尚蔵館
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:ロンフービストロ 丸の内オアゾ店(会費一人4,000円)

今回のガイドは、会員の土屋繁さん(歴史担当)、麦野裕さん(植物担当)と圓山さん(補助)の3人です。

報告

 5月講は好天気と心地よい新緑の風とあいまって、絶好の散策日和になった。
大手門に入った辺りで36人が集合。歴史班(土屋氏担当)と植物班(麦野氏担当)の二班に分かれて出発した。百人番所~大番所~富士見櫓~松の廊下跡を見る。富士見多聞に入館出来たが、眼下に見える蓮池濠や紅葉山の様子から多聞下の城壁の急峻さが想像される。いよいよ天守閣跡へ。江戸城の中で最も高い場所に更に10数メートルの石垣を築いて、そこに5層の天守閣(約44メートル)が聳えていたという。江戸城を再建する会の理事でもある土屋さんの話に熱が入る。北桔橋(はねばし)門~汐見坂~二の丸公園などを散策。
ツツジ・コウホネ・菖蒲&杜若などが実に美しい。二の丸休憩所で二班が合流し、歴史&植物について活発な質疑応答がなされる。とりわけ天守閣の再建について沢山の意見が飛び出す。最後に三の丸尚蔵館を見学して4時頃お開きとなる。懇親会には15人が参加、いつものように話題満載の楽しい飲み会になった。(圓山)

 野生種を多く集めたバラ園、日本の古い品種のリンゴや桃など果樹を集めた果樹古品種園、竹林、雑木林、江戸時代の池泉回遊式庭園を復元したという二ノ丸庭園の水生植物など、麦野氏の案内で苑内の植物を見て歩いた。何度も訪れたことのある皇居東御苑だが、これほど多くの植物が観察できる場所であったことに驚かされた。多くの植物にはその名を記した標識がつけられており、植物の名を確認しながら散策できるのも魅力の一つだが、麦野氏の解説はそれぞれの植物の特徴をさらに気づかせてくれる。石垣に張り付くように生えたツルドクダミは薬用植物で城によく観られること、ミズキの仲間は導管が強く切れにくいこと、クロマツ・アカマツの松葉の断面は半円なので二本合わせると円になるが、同様に五葉松の五本の松葉の断面は五本合わせるとやはり円になること、アブラチャンは里山の植物の代表だが、名前の通り木の全体に油が多く含まれ燃えやすいこと等々、遊び心いっぱいのガイドであった。(松本)



報告

「十二支の役者見立絵」 学習院大学・東京外国語大学・東海大学ほか非常勤講師 藤澤 茜氏

【参考】藤澤茜 「十二支の役者見立絵」 (『二松学舎大学論集』59号 2016年3月)
Ⅰ 江戸時代における十二支
十二支は殷(前16~11世紀)の時代の中国で行われるようになったという。由来には諸説あり、月の名前に用いられたものとする説、または古代中国において惑星の中で最も尊いと考えられていた木星が約十二年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を十二の区画に分け名前を付けたとする説などがある。「子」を鼠、「丑」を牛というように動物を当てはめたのは漢(前202~220)の時代とされ、諸地域に広がった。日本には6世紀に伝わったといい、正倉院の宝物にも十二支をモチーフにしたものが確認できる(十二支彩絵布幕・白石鎮子)。
時刻や方角を指す際にも十二支に当てはめる方法がとられるなど、日常生活にも浸透するようになる。

◆時刻◆
江戸時代は不定時法が用いられ、日の出、日の入りを昼夜の境として六つ時と数え、昼夜をそれぞれ六等分し、一刻(一時)と呼んだ。夏と冬では一刻の時間に差が出ることになり、江戸市中では本石町をはじめ複数の場所に「時の鐘」が設置され、正確な時刻が伝えられていた。時刻の呼称は二種類あり、九つ時から八、七、六・・と四つまでを二回繰り返して示す場合と、一日の十二刻を十二支に当てはめる呼び方とがあった。

江戸時代中期には、その干支にちなんだ動物の置物や飾り物を用いて、年神様として迎える風習も生まれた。また生まれ年とその年の十二支の動物の特徴を重ね合わせるという感覚も、江戸時代に生じたといわれる。十二支は仏教とも結びつき、例えば子は千手観音など、十二支ごとに守護本尊が定められ、江戸時代には民間信仰として広まったとされる。
方位と時刻
Ⅱ 浮世絵に見る十二支
①絵暦
絵暦

②十二支の動物を組み合わせる
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」

歌川芳虎画「家内安全ヲ守十二支之図」
歌川芳虎画「家内安全ヲ守る十二支之図」

③十二支をテーマにした揃物(12枚組のシリーズ物)

<動物自体を描く>
A 礒田湖龍斎画「風流十二支」安永2~4年(1773~75)中判錦絵 【図1】
<子ども絵>
B 石川豊雅画「十二支」1770年代 中判錦絵 【図2】※十二支と十二ヶ月をシンクロさせる
C 礒田湖龍斎画「風流小児十二支」安永2年(1773)頃 中判錦絵
【図1】A 礒田湖龍斎画「風流十二支」
礒田湖龍斎画「風流十二支」

【図2】B 石川豊雅画「十二支 丑 如月」 ※菅原道真
石川豊雅画「十二支 丑 如月」

【図3】N 歌川国芳画「武勇見立十二支 子 頼豪」
歌川国吉画「武勇見立十二支 子 頼豪」
<美人画>
D 礒田湖龍斎画「風流十二支」明和7~安永元年(1770~72) 中判錦絵
E 勝川春潮画「浮世十二支」寛政期(1789~1800)
F 「風流娘十二支」文化4年(1807) 中判錦絵
G 二代歌川豊国画「風流東姿十二支」 文政(1818~30)末
H 二代歌川豊国画「十二支全盛松の粧」 文政(1818~30)末
I 三代歌川豊国・万亭應賀「浮世十二支」弘化頃(1844~48) 小判錦絵
J 三代歌川豊国画「意勢古世身 見立十二直」弘化4~嘉永5年(1847~52) 大判錦絵
K 三代歌川豊国「艶姿花の十二支」元治元年(1864) 大判錦絵
<戯画>
L 歌川国芳画 「道化十二支」 天保12年(1841)頃 小判錦絵
M 歌川国芳画 「道外十二支」 安政2年(1855) 小判錦絵
<武者絵>
N 歌川国芳画「武勇見立十二支」 天保12年(1841)頃 大判錦絵 【図3】
O 歌川国芳画「英雄大倭十二士」 安政元年(1854) 大判錦絵
<役者絵・歌舞伎>
P 歌川国芳画 「美盾十二史」 弘化2年(1845)頃 大判錦絵
Q 貞信画(上方絵)「忠孝十二支之内」嘉永2年(1849)頃 中判錦絵
R 広貞画(上方絵)「見立十二支」  嘉永4年(1851)頃 中判錦絵二枚続
S 歌川国芳画 「見立十二支」  嘉永5年(1852) 大判錦絵
T 三代歌川豊国「擬絵当合十二支」嘉永5年(1852) 大判錦絵 ※文久元年(1861)の図も含む
U 国員(上方絵)「拾二支之内」  安政5・6年(1858・59) 中判錦絵
V 二代歌川国貞画「楽屋十二支之内(見立楽屋十二支之内)」万延元年(1860) 大判錦絵
W 芳瀧(上方絵)「見立十二支之内」文久2年(1862) 中判錦絵
X 広貞(上方絵)「十二支ノ内」元治元年(1864) 大判錦絵
Y 歌川国周画 「俳優見立十二支」 明治2年(1869) 大判錦絵
Z 歌川国周画 「奇術十二支之内」 明治10年(1877) 大判錦絵

Ⅲ シリーズごとの比較
例1)子  美人画=子の日の小松引き/武者絵=頼豪/役者絵=仁木弾正のイメージが強い・雪姫も
【図4】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」1

【図5】役者絵S「見立十二支」仁木弾正
役者絵S「見立十二支」仁木弾正

【図6】役者絵P「美盾十二史」雪姫
役者絵P「美盾十二史」雪姫

例2)巳  美人画=弁財天/武者絵=仁田四郎/役者絵=「伊賀越乗掛合羽」(巳年生まれ)・蛇遣い
【図7】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」2

【図8】役者絵S「見立十二支」
役者絵S「見立十二支」

【図9】役者絵T「擬絵当合」蛇遣い
役者絵T「擬絵当合」蛇遣い

例3)未 美人画=執事の御やかた/武者絵=関羽(典拠未詳)/役者絵=髪結い・未の刻・見世物
※紙を好んで食べることから、紙と関連づけて描かれる場合がある     「紙」と「髪」をかける
【図10】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」3

【図11】役者絵S「見立十二支」未の刻
役者絵S「見立十二支」未の刻

【図12】役者絵V「楽屋十二支之内」
役者絵V「楽屋十二支之内」

例4)戌 役者絵=南総里見八犬伝
【図13】役者絵V「楽屋十二支之内 犬」八犬伝 犬塚信乃
役者絵V「楽屋十二支内 犬」八犬伝 犬塚信乃

例5)酉 役者絵=鶏娘・酉年の守護神(不動明王)
【図14】役者絵S「見立十二支」酉 不動明王 ※前年上演の芝居
役者絵S「見立十二支」酉 不動明王
・最新の芝居=記憶に新しい芝居の見立で購買意欲をかきたてる
・「神の使い」という動物観もあったことがうかがえる

例6)亥 役者絵=「忠臣蔵」・摩利支天
【図15】役者絵S「見立十二支」摩利支天
役者絵S「見立十二支」摩利支天

◆「見立」の方法◆
・動物そのものが舞台に登場するもの(人間がその姿に変わる・・鶏娘)
・干支に関する行事・・初卯詣で など
・神仏に関する連想・・・酉年の守護神である不動明王・摩利支天 など
・刻限・・未の刻=阿古屋
・名前が重なる・・辰=お辰
・その年の生まれ・・巳=巳年生まれの血が眼病に効く



3月講「春の隅田川桜見物クルーズ」

日時:3月25日(土) 午後2時~4時半 雨天決行
コース:品川天王洲ヤマツピア桟橋から隅田川スカイツリーコース往復(約2時間)
集合場所:京浜急行新馬場駅北口改札前
集合時間:午後1時半
参加費:一人6,000円(含む乗船券&スナック)
定員:55名(江戸連会員およびその家族優先)
その他:酒・つまみ持込み可、ただし食中毒は自己責任(江戸連でビールは少々用意)
参考:船会社(株)ジール クルーズ事業部(電話:03-3453-0423)、乗船名 ジークフリート
案内:新実正義

報告


東京湾隅田川スカイツリーコース(新実さん説明資料より)


乗船風景


新実さんの案内と資料の説明


展望デッキ


料理



報告

 江戸連会員で理事、「江戸がたり」の創始者であります寿々方さんの先祖を尋ねる軌跡の講演でした。父方の四代前の先祖が北海道の網元であったという寿々方さんは、大学の授業で聴いた「もしほ草。これは江戸時代に上原熊次郎有次という人が書いた、世界で初めてのアイヌ語の辞書です」との教授の言葉が、ずーっと頭の片隅に残っていました。やがて、父上も主だった親戚の方も亡くなってしまいましたが、先祖を調べ始めると、寿々方さんの五代前の父方の吉田家の始祖、吉田和右エ門が上原熊次郎の次男の鉄次郎で、吉田家に養子に入った人であることが判明、そこで本格的に上原熊次郎について調べ始めると、大変優れた人であることが明らかになってきました。熊次郎はアイヌ語の通辞であり、後にロシア語の通辞としても江戸時代後期に活躍した人物でした。冒頭に述べたように、「もしほ草」というアイヌ語の辞書を著し、アイヌ語研究の第一人者の金田一京助先生をして「ただ単語を最も多く最も精密に記録した語彙であるばかりでなしに、これによってアイヌ語の構造をも観ることを得べく、またその古文書・古記録にもあたる貴重なものである」「この人を仰いでアイヌ語の鼻祖とすること云々」「通辞の中でも出色の通辞だった」と手放しの称賛ぶりです。熊次郎は、当時北海道へ進出しようと接触してきたロシアとも関わりを持ち、中でも北海道に長期にわたり抑留されることになったゴロブニン事件に関して、常に温情を持って捕虜たちに接し、言葉の壁を乗り越えて、事件を解決に導いたようです。金田一先生は、この件に関しても熊次郎を高く評価し、「北門の功労者」と称えています。後半生は、その能力と功績を認められて江戸詰めとなり、天文方高橋作左衛門景保の手附として勤務したとのこと。最後に、後の資料から、熊次郎の死後、吉田和右エ門である鉄次郎が養家を離れ上原の名跡を継いだとあり、寿々方さんの父方の始祖の吉田和右エ門はその後、養子に入った人だと考えられるということでした。いずれにしても、寿々方さんのこの先祖を尋ねる講演で、江戸時代に活躍し、世にあまり知られていない素晴らしい人の事蹟を学ぶことができました。詳しくは、寿々方さんの著書『北門の功労者 アイヌ語通訳・上原熊次郎』をお読みください。

北門の功労者

2月講



1月講「雑司が谷七福神めぐり」

 1月講は「雑司が谷七福神めぐり」です。雑司が谷周辺は日本ユネスコ協会連盟の「未来遺産」に指定され、「変わりゆく時代の中で、変わらないものの大切さを思いださせてくれるまち」として、様々な取り組みがなされているところです。七福神めぐりとしては歴史の浅いところですが、江戸時代の人気スポットである鬼子母神や雑司ヶ谷霊園(夏目漱石・中浜万次郎ほか)・旧宣教師館など見どころ満載のコースです。ガイド役は松本・圓山です。たくさんの連衆の参加をお待ちしています。

開催日:1月7日(土)
集合場所:地下鉄有楽町線「護国寺駅」1・2番出口方面改札口(池袋寄り・護国寺寄り)
集合時間:午後1時半
参加費:500円
コース:護国寺~清土鬼子母神(吉祥天。芭蕉句碑)~三角寛旧宅~雑司が谷旧宣教師館~雑司ヶ谷霊園(中浜
    万次郎・夏目漱石他。御鷹部屋の松)~清立院(毘沙門天。 雨乞いの松)~大鳥神社(恵比寿神)~
    本納寺(蜀山人の筆になる月花塚)~並木ハウス(手塚治虫)~雑司が谷鬼子母神~大黒堂(大黒天)
    ~観静院(弁財天)~法明寺~威光稲荷~中野ビル(布袋尊)~仙光寺(華福禄寿) 全行程4キロ弱
新年会:午後5時~7時「鳥貴族池袋東口店」 03-6914-1991(参加費 一人3,000円(呑み放題付き))

報告

 1月7日(土)13:30に有楽町線護国寺駅1・2番改札集合で新年恒例の江戸連七福神巡りの開始です。集まったメンバーは58名、2班に分かれそれぞれ圓山さん、松本さんのガイドで出発。
 天気に恵まれ、まずは護国寺へお参りし、側にある富士講の富士山に上り、いよいよ七福神巡りが始まりました。最初は清土鬼子母神にある吉祥天にお参り。この地で鬼子母神像が発見されたということや、鬼子母神が吉祥天の母親であるという案内に驚き、お参りして次へ向かいました。後は1月講の案内に紹介された道筋をたどって夕刻16:30過ぎに池袋駅前に着き、解散。

雑司が谷 がやがやお散歩マップ
未来遺産 雑司が谷 がやがやお散歩マップ

清土鬼子母神(吉祥天)   雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)
清土鬼子母神(吉祥天)    雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)

鬼子母神堂(大黒天)
鬼子母神堂(大黒天)

 懇親会参加者38名は懇親会場の「鳥貴族」に向かいましたが、まだ開店前で17:00まで店内で待機。その後いつものように談論風発、19:00解散となりました。



12月講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」

開催日:12月18日(日)
会 場:堀切菖蒲園静観亭
内 容:第一部 師走講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」
    午後1時半~3時 投扇興
    午後3時~4時半 藤間信子さんの日本舞踊と長唄・端唄・小唄あれこれ、花伝亭長太楼さんの落語
    第二部 「忘年会」
    午後5時半~午後7時半
参加費:師走講のみは2千円。師走講および忘年会は5千円

報告

投扇興 自由参加。はじめに仲下さんからルールの説明があり、総勢25名の参加者が順次7回投扇して点数を競い、上位8名、圓山、仲下、村岡、坂本、三宮夫人、白石夫人、張さん、白石を選抜、準々決勝を行いました。次の準決勝は、三宮夫人対白石夫人と坂本さん対仲下さんの対戦。白石夫人と仲下さんが決勝に勝ち残り、二人の対決は白石夫人の優勝となりました。仲下さんより提供された「プーチンカレンダー」が賞品として、優勝した白石夫人、最高得点34点の三宮夫人、次点の坂本さんへ授与されました。

12月講
藤間流日本舞踊
最初に藤間信千鶴師匠「白扇(小唄)」、続いて藤間信子師匠「桃太郎(端唄)」、藤間信ゆう師匠「木遣ずくし(端唄)」、再び藤間信子師匠「都鳥(長唄)」とお三方の伝統的な、そして優雅な日本の踊りを堪能しました。二人の外国人留学生も大変興味深く鑑賞しており、日本の伝統的な芸が日常的に鑑賞できるのは素晴らしいとの感想を述べていました。
藤間信千鶴師匠 藤間信子師匠 藤間信ゆう師匠

落語「占い八百屋」 花伝亭長太楼さん
あらすじ:女中に邪険にされた出入りの八百屋が腹いせに主人の大事な徳利を水甕の中へ隠してしまう。後で、そろばん占いで水甕から徳利を見つけ出すと主人は大喜び、紛失物占いの先生となり、占い依頼が殺到。進退窮まった八百屋の運命や如何に! 追いつめられる八百屋の様子や、思わぬ幸運に恵まれ喜んだのも束の間、また新たな窮地に陥る八百屋の慌てふためく様子を、長太楼さんが、持ち前のソフトながら淀みのない独特の口調で語り、皆を笑いの渦に巻き込みました。
花伝亭長太楼さん

忘年会
「藤間流日本舞踊」の藤間信子師匠、藤間信千鶴師匠、藤間信ゆう師匠をはじめ「品川郷土の会」の坂本会長、「NPO法人 たのしいひととき出前どころ」の室尾理事長さんなど、会員外の方の参加も含めて総勢46名で和やか、かつ賑やかに行われました。



11月講「秋深まる奥多摩渓谷と青梅宿に江戸を見る会」

開催日:11月26日(土)
集合:JR青梅線東青梅駅改札口 10:30
会費:2,000円(各施設見学、旅行保険、雑費)
*集合場所までの往復交通費・昼食代は、各自負担となります。

行程:旧府立農林学校講堂、青梅織物工業協同組合建物、津雲邸、宿場町歩き、旧稲葉家住宅(名主店蔵)、(A班:小澤酒造、B班:寒山寺)、小澤酒造店テラスガーデンにて昼食、櫛かんざし美術館、奥多摩渓谷散策、玉堂美術館等
   御嶽駅午後4時半頃自由解散。新宿に午後6時頃着予定
   *懇親会は立川駅付近を予定
案内:新実正義 氏

報告

 多摩川文化シリーズとして、昨年の霜月講・八王子宿に続く第2回として青梅宿を訪問しました。
 八王子に比べ、圧倒的に歴史文化を持つ青梅宿ですが、一見すると青梅には見る歴史文化が少ないことが感じられます。それは地域の文化発信力の差だと気づきました。八王子は隣の日野と共に戦前、戦後の新産業の誘致と、大学の開校、都心の大学の新学部開設に伴う、新人口の増大と、それらの人々の八王子文化を掘り出す研究・出版という発信力の差であると思います。駅周辺の書店には2連の書棚に八王子関係の一般書、自費出版書が多数販売され、インターネットへの掲載もあふれています。このことは私自身品川宿でまちづくりに参加している身にとって学ばなければならないことでした。地域の歴史を発信する市立歴史館の施設活動はむしろ青梅宿の方が増さっていると言えます。しかし青梅市立歴史博物館の研究・企画展示の伝え方には不満があります。それは市の方針であるかと思いますが、資料・展示図録の発行部数が非常に少ないことから購入しづらいのです。この度の会員への配布資料作成での一番苦労したのはこの点でした。
 多摩川本流、青梅・奥多摩は人類が表れる以前の200万年から20万年前から多摩川の排出する土砂で広大な武蔵野台地を作ってきた歴史があります。当日配布しました資料にこの武蔵野台地が作られた地層の姿が見られます。この地域の歴史はすべてここに端を発するものであることを実感することが、今回の青梅・御嶽訪問の狙いでした。

 この度の霜月講は11月26日午前からという、寒いハードなスケジュールにも関わらず、30名を越える会員が参加して下さいました。そしてまた2日前に雪が降るという天候不順の中、晴天となり、江戸連天気というジンクスに恵まれました。紅葉、桜見物などの植物の鑑賞時期に合わせた企画を数カ月前にする者の難しさはここにありますが、何とか間に合うとほっとします。
 東青梅というと、皆さんはじめて降りられた駅かと思います。この駅は最初に訪問した旧府立農林学校が明治42年開校したことで開設された駅です。明治維新の政府による多摩地方の教育環境の整備の一環として、府立2中(現立川高校)に続いて開校された学校。是非にと見学コースに入れました。現在残る建物は講堂だけですが、道路から外観を覗き見る程度で早急に一般見学できるように整備され、見学できるようにしてもらうことを願います。この学校は明治から昭和に至る、多摩地域のみならず全国に養蚕技術、林業技術の人材を供給してきました。
 この校舎の先に青梅織物工業協同組合の建物が残っています。青梅の織物産業は江戸時代初期から発展し、1700年以降江戸の越後屋、白木屋が江戸での織物商いが盛んになるに従い、絹織物の商品を全国的に、かつ高品質の製品を集める必要から、仕入れの仕組みを改革し、「宿買(やどかい)」制度を確立し、多摩地区には八王子、青梅にその仕入れ店を開設したことからわかるとおり、絹織物産業の関東の中心地となっていました。青梅縞として名の知れた織物は江戸から関西まで、広く庶民の絹織物として知られていました。その伝統を伝えるのがこの織物組合の施設です。ここも、昭和30年代の絹織物産業の衰退と共に、残念なことに歴史を伝える遺産が少なくなっています。
 さらに青梅と言えば古代からの材木の産出地。武蔵国府・国分寺の杣保(そまのほ:材木を取り扱う人達の村=荘園)と言われた話。江戸時代の筏流しの話。江戸幕府の石灰の供給地・成木石灰の話、幕末から昭和バブル時代までの多摩川砂利産業の話などなど。街歩き資料には掲載しましたが、報告はまたの機会に。

 青梅一帯、多摩地方は明治維新、自由民権運動の開祖ともいうべき所ですが、青梅にはその歴史を伝えるものは市立歴史博物館の近くに、当時度々訪れ、運動に影響を与えたという板垣退助の銅像が残るのみで、そのほかには見当たりません。しかし、民権運動の地下水の存在を知らせる建物がありました。地元の元衆議院議員・津雲国利邸です。明治維新の民権運動の流れは複雑な底流となり、多摩の人権運動に今もって流れていますが、その中で、国粋的主義的運動に入って行った人たちがいました。氏はその一人で、民選議員選挙の第一回当選者となり、院外団の中で知られた壮士風の強面で知られた人物で、東条内閣や軍部の支持を訴え、翼賛議員同盟の理事を歴任し、戦後公職追放となった人物です。
 ここは数年前、解体してマンションの建設が計画された折、青梅の人達の運動で残され、3、4年ほど前から年2回津雲氏の貴重な遺品が企画展示されてきました。建物は昭和の始めに京都から宮大工を呼んで建築したとういうことで、見事な細工物、建具など目を見張るものばかりですが、当日は「江戸の文化を読み解く」という企画展が行われていました。見事な展示物で、連衆はその解説に夢中で、建物の鑑賞まで気が回らなかったのではと、時間の余裕がなかったことが残念でした。

 そこまで大分時間が経ってしまい、青梅宿の後半、旧稲葉邸(名主邸)、金剛寺の青梅の地名のゆかりという、黄色い実にならない「青い実の梅の木」の見学ができなくなり、案内人としては申し訳ない思いです。

 午後はいよいよ、御嶽渓谷。電車で沢井駅に降車。沢井の酒蔵「小澤酒造」の見学は昨年の八王子見学の際、会員から期待の声があった所です。
 小澤酒造は元禄15年(1702年)現地にあったと言う古文書から、創業をその年としています。しかし云い伝えでは、小澤家は武田勝頼の家来で、勝頼と共に織田軍に追われ、塩山方面に逃れ、勝頼自刃の折、家臣たちが軍資金を分け合い、いざという時に立ちあがることを誓い、塩山から当時裏甲州街道であった沢井にて帰農し、林業で身を建て、後に酒造家として創業したそうです。
 そして現在、酒造業と合わせ、沢井に櫛かんざし美術館を開設、寒山寺の創建、御嶽では玉堂美術館の運営。そのほか和食亭など、御嶽の観光に貢献している地域の功労者です。
 小澤酒造の蔵見学は22人という多勢になりましたが、蔵の解説も丁重で、詳細にされ、さすが観光に力を入れている蔵だなとの思いがしました、今回は特に蔵の説明の後、会場を借り、江戸連の発酵学の権威、宮川氏の江戸時代の酒造りの講義が加わり、酒文化の奥深い理解になったと思われます。

 その後、櫛かんざし美術館の見学。奥多摩になぜ江戸文化の粋がと思いましたが。小澤家の先代・小澤恒夫氏が収集家として著名であった岡崎智予さんのコレクションを購入、その後趣味で櫛かんざしのコレクションを重ね、思い立って公開しようと、美術館の開設を行ったとか。しかしその美しさ、精巧さ。そして江戸時代の女性の髪結いの解説など、圧倒される美術品で感動しました。
 今年、江戸連の講で明治維新の芝山美術のお話を聞き、作品を拝見しましたが、ここにも芝山模様の櫛がありました。その精緻な模様と高貴さに圧倒される思いでした。素晴らしかった。

 さてこれからは御嶽渓谷の散策。2日前に雪が降ったという御嶽の渓谷道には多勢の観光客が行来して賑わっていました。秋のトップシーズンでさしもの昨近の熊出現の話題も、心配なさそうで一安心と言いたいのですが、後の方を歩いていた連衆から猪を見たとか、まあ、何事もなかったから安心しましたが。紅葉は盛りを過ぎていましたが、まあいいかと。秋の緩やかな夕日に美しく映える姿、皆さん満足してくれましたか? 翌日は雨だったんです。

11月講1

 さて最後の玉堂美術館。ここは昭和19年に川合玉堂が戦時疎開で訪れた所。
戦後もここに残り作品の制作に励んだ所ですが、没後この地に関係者による寄付金で美術館が建設されました。玉堂が手ほどきをなさった香順皇后のご縁で 皇后からの寄付もあり、今も皇室とのご縁もあるとか。またかって、玉堂の娘さんが小澤酒造に嫁入り。今そのお孫さんが館長をやっておられるとか。
 川合玉堂の作品は初期のころから渓流など、現代の山水画ともいうべき作品が多いいことがわかりますが、御嶽はまさにその後の玉堂の作品を生む宝庫だったことがうかがえます。建物も石庭も御嶽の空気に沈みこんだような静けさを湛えたもので、久しぶりに近代建築に日本建築の技法を取り入れた吉田 五十八(よしだ いそはち)の建築を堪能しました。

11月講2

11月講3 11月講4

 秋の日暮は早いので、皆さん予定より早々に御嶽駅に。最後の仕上げはなんといっても懇親会。立川の焼鳥屋に一目散と行きたいところでしたが、日暮れに誘われ、帰りを急ぐ人、時間通りにじっくり鑑賞する人の行動がばらばらになって、会場に到着するまで一混乱。しかし、いつものことながら、先ずは一杯。美味いビールでした。
 話が長くなりましたが、今回の見学が盛混み過ぎだったことが原因です。反省!



10月講「信州佐久の酒蔵から日本近代史を見る」

日時:10月22日(土)15:00~17:00
場所:日本橋・伊場仙ビル7階会議室
講師:不重來館館長 井出 亜夫 氏
講演:信州佐久の酒蔵から日本近代史を見る
   元禄時代から続く信州佐久の酒蔵「橘蔵酒蔵」には、江戸から
   明治にかけての著名人の書や文書が多く残されています。それら
   を読み解きながら、日本近代史について語ります。
会費:1,000円

報告

参加者:36名
講師:不重來館館長 井出 亜夫 氏

信州佐久の酒蔵「橘倉酒造」は、元禄時代(1696年)に創業され、以来現在まで300年有余、地域経済の中で事業が継続されている老舗。「不重来館」には、その酒蔵を訪れた文人やゆかりの人、あるいはその時代に大きな影響を及ぼした政治家、思想家たちの書が収集・展示されている。
今回の講師・井出氏は、ここ数年、こうした書を「ただ収集・保存しているだけではもったいない」との考え方の下、その整理・解読を精力的に進め、公開に尽力してきている方。
講演は、こうして収集・整理された書を、第一部「江戸期の漢学者、経世家、書家」と第二部「明治以降の政治家、思想家、作家」に分けて進められた。
第一部では、日本で初めて「経済」という言葉を書名とする文献を著した太宰春台、江戸前中期の儒学者・荻生徂徠、寛政の改革を進めた松平定信など14名の、第二部では、明治の代表的民権思想家・中江兆民、中国建国の父・孫文、幕末から明治にかけての活動がよく知られている佐久間象山、三条実美、勝海舟、大久保利通、木戸孝允、さらには近代日本の基礎作りに活躍した伊藤博文、福沢諭吉、田中正造、渋沢栄一など44名の書と書を通じての思想が紹介された。その内容は「歴史とは過去と現在との対話であり、また、未来への展望である」との井出氏の考えを端的に示すものであった。
そして、それは講師の井出氏の真摯な語り口、未来へのまなざしとも相まって、「不重来館」の名前の由来である陶淵明の「盛年不重来 一日難再晨(現在を精一杯生きることが大事、同時に、歴史を振り返り検証し正しく将来を展望することも重要との意味をも含意)」の指摘とも相通ずるものであり、また、「江戸の生活文化を今に生かし未来につなごう」という江戸連の原点にもつながるものであった。

10月講110月講2

 なお、「不重来館」は毎月第三土曜日・日曜日に、そして人数がまとまれば随時開館している。「不重来館」に立ち寄り、おいしい酒を味わいながら日本の近代を振り返るのも一興であろう。

 定期開館;第三土曜日13:00~18:00
      第三日曜日10:00~18:00
 臨時開館;10人以上の希望者があった時



9月講「貝原益軒と養生訓」

日時:9月17日(土)15:00~17:00
場所:日本橋・伊場仙ビル7階会議室
講師:武蔵野学院大学・大学院教授 謝 心範 氏
講演:貝原益軒と養生訓
会費:1,000円

報告

1.「養生」の定義
 日本では、平安時代前期に医科・物部広泉の養生に関する記述がある。
 養生という言語の使用は、同じく平安時代紀元900年代に深根輔仁の「養生抄」に記載例がある。
 小学館「日本国語大辞典」には、人体生命を養うこと、病気・病後の手当をすること、土木・建築工事においてコンクリートや建材を保護することである、と記述されている。
 岩波書店「広辞苑」では、さらに植物の生育の助成、保護を加えている。
ここは「養生」が、「生命力を養うこと」であると定義する。

2.「養生」日本伝来の経緯と概要
 養生書籍は日本伝来から江戸時代まで217部、そのうち江戸時代だけで再版もふくめて199部ある。中でも代表作として重要なのは、医書「医心方」・茶道書「喫茶養生記」・博学書「養生訓」である。いずれも「養生」という言葉を使っている。

「医心方」
 編纂者は、丹波康頼。中国後漢の霊帝の5代目の後裔阿智王が5世紀頃・応神天皇の時代に渡来、子孫が丹波地方に住み着いたもの。医学に精通、京で従5位の上を賜る。宋代まで1000年ぐらいかけて蓄積された医薬・養生文化・哲学・歴史などを紹介した。漢文で書かれており、天皇および貴族を対象とした。

「喫茶養生記」
 著者は、僧・栄西。宋に留学中、茶を喫しその効用を研究し、茶種を持ち帰り栽培し、その普及と奨励に努めた。日本の茶祖。漢文で書かれており、将軍及び武家、僧侶を対象とした。

「養生訓」
 著者は貝原益軒。中国の文献の影響を受けているが、そのまま転用するのではなく、当時の日本の文化に合わせ、自分なりの解釈、心得、体験を加えることにより一般大衆を対象とし、和文でわかりやすく説明した。

3.貝原益軒の生涯と著作
 1630年、筑前黒田家の下級武士の家に生まれる。体質は生まれつき虚弱であった。38歳で結婚、夫人もまた虚弱であり、その治療のため漢方薬を使用していたことがわかっている。養生の実践においても「今83歳にいたりて、なほ夜、細字を書き読み、牙歯固くして一も落ちず」と書いている。
 生涯、98部247巻の膨大な著作を残している。大和本草、花譜、菜譜、和俗童子訓、筑前続風土記など。「養生訓」は、死去する前年の1713年に出版された。その後、12回再版され江戸時代のベストセラーである。

4.「養生訓」の概要と特徴
 養生訓に取り上げられた項目の92%は、中国の原典を特定できた。
内容を分析すると、五つの要素に分類、集約される。表現の多いものから順に「思」「行」「食」「住」「衣」である。

  「思」:思考力、文化、教養、価値観、哲学、新興、芸術、五感、
  七つの情緒、人間の主観。客観とその相互の影響する要素
  「行」:行動、行為(呼吸、睡眠、仕事、休息、気功、運動、旅行、
  散歩、喧嘩、恋愛、性交、演奏、研究、学習、運転など)
  「食」:飲料、食品、嗜好品、薬品など、体内に取り入れるすべて
  の物質およびその摂取方法
  「住」:①空間的な生活、生存に関わる環境。人工物や自然、
  ②時間、季節、昼夜など
  「衣」:身に着けるもの。色、材質、形状、用途、機能を含む

5.「養生訓」の現代啓示
 ・「平成24年度人口動態統計の概況」によると、日本人の死因別
  死亡割合のうち、生活習慣病が55.95%を占めている。
 ・「平成23年度国民医療費の概況」によると、国民総医療費は38兆
  5850億円であり前年から3.1%上昇している。
 ・生活習慣病―高血圧、心筋梗塞、脳梗塞、糖尿病、がんの予防の
  可能性
 ・医薬品は何らかの副作用を伴う。特に腎臓、肝臓に影響する。
  したがって良く注意書きを読む必要がある。
 ・肝臓機能を正常化する「抑肝散」は、子供の夜泣きや疳の虫などを
  抑えるために使われてきた漢方薬であるが、近年、アルツハイマ
  の症状を抑制する効果があることがわかった。
 ・新しい漢方養生製品は、発明特許を出願中である。
  (文責 白石 徹)                以上

講師プロフィール
 1953年 中国上海生まれ
 1987年 来日
 1991年 (株)協通事業設立
 1997年 家族全員で日本国籍取得
 1999年 漢方養生研究所設立
 2015年 武蔵野学院大学博士号取得
 2016年 武蔵野大学院大学・大学院教授就任

著書
「驚異の田七杜仲パワー健康法」(廣済堂出版)、「真・養生学」(広葉書林)、「日本で買える本場中国の漢方薬ガイド」(講談社)、「C型肝炎イコール肝臓ガンの時代は終わった」(海竜社)、「肝臓を元気に!」(漢方養生研究所)

9月講



8月講「納涼歌舞伎」

8月講は、恒例の「歌舞伎鑑賞」です。

日時:8月27日(土)14時開場・14時40分開演
演目:一、「東海道中膝栗毛~奇想天外!お伊勢参りなのにラスベガス?~」
     弥次郎兵衛(染五郎)・喜多八(猿之助)が宙乗り相勤め申し候
   二、「艶紅曙接拙(いろもみじつぎふのふつつか)~紅かん~」
     紅飯(橋之助)・朝顔売阿曽吉(勘九郎)・団扇売お静(七之助)
     ・庄屋銀兵衛(弥十郎)・虫売りおすず(扇雀)
会費:5千円(3階A席)

報告

 講師は、そば猪口に魅せられて40年、収蔵品は1,000点を超える。 蒐集されたそば猪口のほとんどは地震対策の関係から家に飾らず、別の場所に紙に包んで大切に保管し、紋様の世界に浸りたくなった時にはその場所に出向いて至福の時間を過ごされるそうだ。

 講では、先ず江戸の人々の心を知る言葉遊びとして「江戸しりとり唄」を読み解き、次いでそば猪口の紋様を通して浮かび上がる、江戸庶民の文化の高さ、心の豊かさ、おおらかさ、遊び心、暮らしぶり、人の繋がりに敷衍した。 のぞき猪口や会員所蔵の古伊万里の逸品も拝見できて、興味深い内容になった。

7月講

そば猪口は、作られた時は会席膳のための向付であり「和え物」や「珍味」などを盛り付けたもので、筒型平底の器は「猪口(ちょく)」と呼ばれ、「そば猪口」という名称は明治になってからであるという。

参考として、そば猪口の美術館を紹介します。
 ①インターネットで岸間健貪氏の「そば猪口美術館」を検索すると素晴らしいコレクションの数々と面会できる。そば猪口の持つ意味や紋様に仕掛けられた謎解き解説が盛り沢山である。

http://sobachoko.jp/index.html

 ②古伊万里や時代箪笥を常設展示している「知永古美術館」では、岸間健貪氏の「そば猪口コレクション」の企画展が9月末まで開催されている。18世紀の前半から後半にかけて作られた60点が展示されている。

  「知永古美術館」
    神奈川県藤沢市辻堂東海岸1-7-38
    TEL:0466-33-0654

以下、講の内容について当日の資料から抜粋して記しました。

1.江戸の言葉遊び
  「江戸しりとり唄」
   牡丹に唐獅子竹に虎    虎を踏まへて和藤内

 「牡丹に唐草」、「竹に虎」はともに目出度い組み合わせ文様です。始まりは目出度い言葉からです。「虎を踏まえて」はトラトーラトーラトラで知られるお座敷遊びのじゃんけんです。これは近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」(正徳五年・1715)大坂竹本座初演後に歌舞伎化、からきています。「和藤内」というのは主人公の鄭成功のことで、明朝の復興運動を行った彼が中国人と日本人のハーフであったため、「和でも唐でも無い」から洒落た呼び方です。その和藤内の鉄砲(加藤清正の槍もあります)と虎とお婆さんのじゃんけん遊びです)。

<唄は続きますが読み解きは省略>
 内藤様は下がり藤     富士見西行後ろ向き
 むきみ蛤ばかはしら    柱は二階と縁の下
 下谷上野の山かずら    桂文治は噺家で
 でんでん太鼓に笙の笛   閻魔は盆とお正月
 勝頼さんは武田菱     菱餅三月雛祭り
 祭り萬燈山車屋台     鯛に鰹に鮹まぐろ
 ろんどん異国の大港    登山するのはお富士山
 三遍まわって煙草にしょ  正直正大夫伊勢のこと
 琴に三味線笛太鼓     太閤様は関白じゃ
 白蛇の出るのは柳嶋    縞の財布に五十両
 五郎十郎曽我兄弟     鏡台針箱煙草盆
 坊やはいい子だねんねしな  品川女郎衆は十匁
 十匁の鉄砲二つ玉     玉屋は花火の大元祖
  (以下省略)

2.「江戸の言葉遊び」に関連するそば猪口

そば猪口01 そば猪口02 そば猪口03
そば猪口04 そば猪口05 そば猪口06
そば猪口07 そば猪口08 そば猪口09
そば猪口10 そば猪口11 そば猪口12

3.江戸時代の人々の感性に浸ってみる

 「ふ」の字のつくものは「福」に通じるということで、そうしたものを並べてお祝いしたのです。この単純明快な江戸の人々の感性を受け取めたいのです(舟・藤・富士・袋・二見が浦・二股大根・ふくら雀・吹寄せ・筆・福寿草など)。
 すると「ふ」の字のつく絵にも特別な思いが込められていることが分かってきます。もちろんそば猪口にも多く登場します。
 古伊万里によく登場する底裏銘「二重角渦福」も「升升福が回る」を洒落たものだったのです。
江戸時代の人々は言葉遊びを楽しみました。それは生活の中で使うものに多く残っています。そば猪口などは紋様を楽しむ食器であったのでそれが際立っているとも言えます。

そば猪口13
大根の上に鼠が乗っています。当時大根はこの「音」=「ダイコ」から「ダイコク」=「大黒」として扱われます。あの台所の守り神、恵比須・大黒の「だいこくさま」です。このそば猪口の大根をよく見ると二股大根です。「守貞漫稿」(喜田川守貞著)には「甲子日には大黒天を祭る。三都とも二股大根を供す。また江戸にては七種菓子とて七種七銭の菓子を供す」とあります。
大黒天は仏教の守護神です。日本の神道の大国主命と習合して信仰されました。もちろん「だいこく」繫がりです。だから名称は「大黒」でスタイルは「大国」(大きな袋を背負った)です。大黒さまに大根を供えるというのは、やはり「言葉繫がり」でしょう。大黒天を「大根喰天」などと洒落たりもしました。鼠は神話の中で大国様を助けたとされていて、一緒にでてくるのは当たり前。ましてお祭りするのが甲子の日というのですから。

そば猪口14
氷裂文に粟という不思議な組み合わせです。氷裂文は氷が割れる様を文様化したものという説と、中国磁器の貫入(ひび割れ)を文様化したというふたつの考え方があります。江戸時代を通じて描かれ続けた人気の地文様です。「われる」と「あわ」の組み合わせとなればすぐに浮かぶのが、百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわんとぞ思う」(崇徳院)です。
 この様なものを「隠し絵」などといって楽しんだのです。

そば猪口15
枝垂桜に飛び跳ねる馬。馬に勢いがあっていいね、現代人ならここで終わってしまうでしょう。これは元禄のころから歌われた続け、端唄・都々逸として有名な「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」を描いたものです。この歌は江戸初期からあるそうです。そんな粋な世界だったのかと、あらためてこのそば猪口を見直してしまいます。

 そば猪口の楽しみのひとつは、その文様をとおして「江戸の人々と心をつなぐ」というところにあると思います。江戸人の繊細かつおおらかな美意識に触れて、豊かな心を持つことができたら。

そば猪口16
まあ私の思い込みばかりを並べてしまいました。「あしからず」というところです。



6月講「えどの工芸・芝山細工の盛衰について」

日時:6月18日(土)15:00~17:00
場所:水道橋・ハロー会議室水道橋
東京都千代田区御崎町2-22-18 TK-WESTビル1号館6階
JR水道橋駅西口から徒歩1分
講師:松本 香 氏
会費:1,000円

<講師プロフィール>
松本 香(Kaori Matsumoto)   芝山象嵌(ぞうがん)
松本香氏    芝山象嵌

千葉県佐倉市出身
1998年 雑誌の公募(※)により、宮崎輝生氏の自宅工房にて芝山象嵌、漆芸を師事(※通販生活 ’98年冬の特大号:第5回跡継ぎ募集 あとはオメェにまかせたぜ)
2007年 独立

メッセージ
芝山を作ることが生きる喜びです。
芝山は貝やべっ甲、象牙などをレリーフ状に彫刻し、漆面などに象嵌する華やかな装飾技法です。芝山細工、芝山象嵌とも呼ばれます。
安永年間に下総国芝山(現在の千葉県山武郡芝山町)の芝山専蔵により考案され、江戸と横浜で作られ、輸出工芸として栄えました。
かつて関東にこのような細工があったのだと、お知り頂ければ幸いです。

報告

水無月講・芝山師 松本香さん
 芝山とは、安永年間(1772~1781年)に、下総(千葉県山武郡芝山町)出身の大野木専蔵が考案した装飾技法です。江戸に出て芝山専蔵と改め、技術を広めて、弟子にも芝山の姓を与えました。
 明治に入り、万国博覧会に出品。ことに明治6(1873)年のウィーン万博には、多くの品を出品して各国の称賛を浴び、それから輸出向けに横浜でも多くの作品が製作されました。
 江戸で作る芝山は、繊細で優美、上品で江戸好みの根付や簪(かんざし)といった小物にその技の極みを尽くした品が多く、初代から受け継ぐ芝山でした。
 これに対して横浜製の芝山は、家具などの大きな物で作風も派手、いかにも海外受けするような物でした。あまりに増産されたため、質が落ちて芝山全体の衰退につながったとも言われているそうです。
 芝山は明治期に隆盛を極めましたが、四代芝山専蔵は大正期に入って廃業してしまいました。
 その後、関東大震災、第二次世界大戦で東京も横浜も大打撃を受け、現在では数名の職人を残すのみとか。
 松本香さんはプロの弟子として技術を学び、江戸の技術の一番良かったころの芝山を心に、妥協を許さない仕事師です。
 芝山は、作品を仕上げるのに多くの工程があり、気が遠くなるような根気を得て、品格の備わった作品ができあがるという。
 漆や象牙、べっ甲、貝を下絵に沿って糸のこぎりで切り、すり合わせ、彫刻、染色、象嵌(ぞうがん)などの技法を駆使して、作品を作り上げます。

芝山細工1

芝山細工2

 こうした工程は、職人さんだからこそ話せる納得のいくものでした。また海外にしかない作品の数々も見せていただきました。
 今回、彼女の気さくな人柄だからでしょうか、話の最中に活発な質疑応答が飛び交うという、いつにない展開で大変楽しい講となりました。
 (江戸がたり 寿々方)

芝山細工講演1 芝山細工講演2