8月講「江戸の謎めいた坂の名前~三年坂」

日 時:8月29日(土)午後3時~5時
場 所:東京ウイメンズプラザ(青山)第一会議室(80名収容可)
     JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線 渋谷駅 宮益坂口から徒歩12分、
     東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線 表参道駅 B2出口から徒歩7分、
     都バス(渋88系統)渋谷駅から2つ目(4分)青山学院前バス停から徒歩2分
講 師:松本崇男氏(江戸連会員、坂学会理事長)
会 費:会員1,000円(会場参加者)、Zoom参加者は無料。
懇親会:無し
その他:Zoom配信あり(無料)。会場参加は30名限定。
    コロナ感染拡大の場合は中止もあります。

7月講「江戸無血開城-本当の功労者はだれか?」

日 時:7月25日(土)午後3時~5時
場 所:オンラインZoom
講 師:岩下哲典先生 東洋大学文学部史学科教授・博士(歴史学・青山学院大学)
    主な著書:「江戸無血開城」「病とむきあう江戸時代」「津山藩」 
         「高邁なる幕臣・高橋泥舟」「江戸の海外情報ネットワーク」
         「幕末日本の情報活動」「予告されていたペリー来航と幕末情報戦争」
         「徳川慶喜」「江戸のナポレオン伝説」「権力者と江戸のくすり」など他多数
会 費:無料
懇親会:無料

報告

・「山岡鉄舟」「高橋泥舟」「勝海舟」のいわゆる幕末の三舟に関する豊富な資料に基づき、本講演の主題で
 ある「江戸無血開城―本当の功労者はだれか」について語られた。
・聖徳記念絵画館展示「江戸開城談判」に西郷と勝海舟の江戸に於ける江戸無血開城の会談の様子が描かれて
 いるが、これに先立って行われた静岡での西郷と山岡鉄舟との会談が重要である。
・徳川慶喜が江戸城を撤収する前日の夜、旗本を集めた席で「江戸無血開城の最大の功労者は鉄舟である、と
 慶喜から「来国俊之御短刀」を拝領し「一番槍だとの上意」との言葉があった」と、鉄舟から家族宛ての
 書簡にある。
・鉄舟は西郷との会談で慶喜の謹慎の状況を何度も説明し、ついに西郷から江戸城引き渡しの「五箇条ノ御沙汰
 書」を得るが、最後の「慶喜の池田家預り」は断固拒否し、これは保留事項として「四箇条ノ朝命書」を受け
 取った。
・池田家は、慶喜の弟ではあるが勤王思想の強い家であり、また、当時の習慣として他家預りは結果として
 「死」を意味した。
・これを「保留・後日相談事項」としたことは、慶喜の助命が自明のこととなったことを意味した。
・結果、後の江戸会談で慶喜は水戸本家謹慎という極めて軽い処分となった。
・「国俊短刀」は、鉄舟の妻・英子の遺言書の中で「山岡家遺産の家宝の中で筆頭である」とされている。
・「来国俊」の「来」とは、「蓬莱の国から来た」という意味で、刀の価値として上の中以上のものである。
・大久保忠寛から勝海舟に宛てた書簡に、慶喜の意向として、当初、勝を西郷との交渉役に任命したが、勝は
 幕府最後の切り札の「千両箱」であるから、これを取り下げるとある。
・慶喜はその後、その役を高橋泥舟に定めるが、これも思いとどまり、結局、泥舟の推薦により山岡鉄舟に
 決まる。泥舟は山岡の才を高く評価していた。
・慶喜は自分で細かいところまで指示を出す上司である。
・したがって、鉄舟は慶喜から直接交渉役の任命を受けている。世に言う、海舟の代理ではない。
・鉄舟は、慶喜から任命されて初めて海舟に挨拶に行き、そこで、海舟が預かっていた薩摩藩の益光休之助を
 紹介され、彼と共に西郷の処へ行くこととなる。
・慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるが、彼はまた、慶喜に上野寛永寺の謹慎を強く勧めたと言われている。
 静岡会談の筋書きは泥舟が策したともいえる。
・後に、慶喜が公爵に叙された祝宴の席で、慶喜は、泥舟が作った和歌を軍楽隊に二度も演奏させたという。
・幕府側の「江戸無血開城」の一番の功労者は、西郷のもとへ単身乗り込み、その条件を引き出し、慶喜の助命
 まで実質的に実現した山岡鉄舟である。二番目は、高橋泥舟。三番目が勝海舟といえる。朝廷側では、勿論
 これを朝廷側内部で説得した西郷隆盛である。
・後に西郷は、「和宮」や「篤姫」からの接触はあったが、何を言っているのか良くわかなかった、と言って
 いる。朝廷側と幕府側が具体的・実質的に交渉したのは、西郷と山岡の静岡会談が始まりである。

・講演の中で示された多くの資料名については、事前に配布されたレジメを参照されたい。

以上。   文責:白石 徹



6月講「江戸時代の色彩と文化-青の魅力-」

日 時:6月27日(土)午後3時~5時
場 所:高井戸地域区民センター 第9集会室
     京王井の頭線「高井戸駅」徒歩3分
講 師:荻原延元氏(江戸連会員、日本画家、川村学園女子大学名誉教授)
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:なし

報告

(要約)

*Zoomによる初めてのオンライン配信が行われ、リアル参加者23名に対して、16名がオンライン参加となり
 ました。

本講座では、「青の歴史と文化」として ①徳島・阿波藍の歴史文化 ②古伊万里・有田の染付の魅力 ③北斎・広重のブルシャンブルー の3テーマについて語られた。

①徳島・阿波藍の歴史文化
・「技師倭人伝」によれば、倭国から赤や青に染められた絹織物が献上された、とある。
・奈良時代では藍染を施業とする家が33戸、緋染めの家が30戸あった。
・平安時代には、毎年6月1日から8月末までの3か月間が染めの期間と定められていた。
・江戸時代には、京都の洛中では染屋の数が215軒あった。
・日本の藍染で有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、平安時代の村上天皇の御世の古文書に「阿波の藍を
 最勝とする」と記されている。
・戦国時代には、吉野川流域に藍栽培が広がっていった。
・天正13年、蜂須賀家正が阿波に入国すると、藍栽培がより盛んになった。
・明治時代になるとますます盛んになったが、末期になると、安価なインド藍と合成染料の輸入により日本の
 藍産業は衰退の道をたどる。
・徳島市藍住町の「藍の館」-阿波藍資料館
・藍住町及び近隣の上坂町周辺の地域は蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中、蓼藍の葉を深い甕に
 入れて発酵させ、染料となる「すくも」をつくり、阿波正藍染の伝統技術と文化を守り続けている。
・藍の栽培には良質の「金肥」として、粉末状の干鰯や鰊粕を大量に畑へ撒く必要があり、大変な費用が掛かり
 昔から藍作りは「肥え喰い農業」と呼ばれていた。
・藍の色相

・古代より高い身分の人しか使えなかった「禁色」が各時代にあったが、藍染めの色は誰もが自由に使えること
 ができた。
・明治時代に来日したラフカディオ・ハーンが「あらゆるものが紺色」だと日記に記載。

②古伊万里・有田の染付の魅力
・佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地である。
・江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平氏が鍋島藩内の有田泉山に白磁土を発見し、器の成形と焼成に成功
 したことに始まる。
・当初は李氏朝鮮風であったが、後に中国景徳鎮の影響を受け、呉須(コバルト)を用いて花・風景・瑞祥・
 吉祥文などを生産。
・やがて、白磁に赤の色付けをした柿右衛門様式が誕生。「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器
 をも生産し始める。
・鍋島藩は御用窯を大川内に築き、門外不出とした。朝廷と幕府への献上品と鍋島藩の調度品としてのみ生産。


③北斎・広重のプルシャンブルー
・18世紀初めプロイセンの首都であったベルリンで錬金術師で医師のヨハン・ディッペルの工房で偶然生ま
 れた鮮やかな青色。
・宝暦13年(1763年)平賀源内が「ベイレンブラーウ」として紹介している。
・大変高価で御用絵師でもない限り、浮世絵師の手に入ることはなかった。
・中国が量産に成功しアジア諸国に広まり、やがて日本でも出回るようになった。
・「藍摺り絵」の絵師として人気の渓齊英泉が浮世絵に初めて使用。
・葛飾北斎が70歳を過ぎてから仕上げた「富岳三十六景」にはプルシャンブルーがふんだんに用いられて
 いる。
・初代歌川広重も「東海道五十三次」「名所江戸百景」に、プルシャンブルーを巧みに生かし、江戸っ子
 の粋と爽やかさに満ちた独自の世界を作りだしている。



・以上。他に沢山の資料がありましたが割愛しました。  文責: 白石 徹