江戸連講

8月講「江戸の水運と河岸」(仮題)

日 時:8月25日(土) 午後3時15分~5時
場 所:高井戸区民センター 第3・4集会室
    井の頭線高井戸駅から徒歩3分
    高井戸区民センター案内
講 師:菅原健二氏
    東京都中央区立京橋図書館司書・地域資料室担当
    江戸(東京)の都市史研究家として有名、特に川に精通。
    主な著書「川の辞典 江戸・東京23区編」「川の辞典 多摩・東部編」
    「川跡からたどる江戸・東京案内」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

7月講「子孫が語る榎本武揚」

日 時:7月21日(土) 午後3時~5時
場 所:セシオン杉並(03-3317-6611)
    東京都杉並区梅里1-22-32
    地下鉄丸ノ内線東高円寺駅下車。青梅街道を荻窪方向へ徒歩10分

講 師:榎本隆一郎氏
    榎本武揚の玄孫。榎本家に伝わる武揚に関する諸々のエピソードを語っていただきます。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:華屋与兵衛 高円寺店(和食) 一人4,000円(飲み放題付き)

6月講「貝原益軒「養生訓」(その2)~認知症は克服できるか」

日 時:6月9日(土) 午後3時~5時
場 所:ハロー貸会議室湯島御徒町
    文京区湯島3-35-9 湯島白川ビル3F
     東京メトロ千代田線「湯島駅」4番出口 徒歩1分
     JR山手線「御徒町駅」北口 徒歩5分
     東京メトロ銀座線「上野広小路駅」・
     都営大江戸線「上野御徒町駅」A4出口 徒歩3分
     【地図】ハロー貸会議室湯島御徒町
講 師:謝心範氏
    武蔵野学院大学・大学院・教授
     (一昨年の江戸連9月講で「貝原益軒と養生訓」について講演)
    ・貝原益軒とは その生涯と著作集
    ・生活習慣病
    ・認知症は克服できるか。
      認知症対症薬の治験結果の紹介。当日、参加者には試供品を配布
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:中華小皿居酒屋「雅亭」
    食べ放題、飲み放題、一人3,500円
    ハロー貸会議室から不忍池方向に筋向いに信号を渡ってすぐ。

5月講「江戸の街はどのように拡大したのか」

日 時:5月13日(日) 午後2時~4時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:黒田涼氏
    早大政経卒。大手新聞社勤務後作家デビュー
    著書「江戸城を歩く」「江戸の大名屋敷を歩く」「江戸の神社・お寺を歩く」
    「東京の名所今昔ものがたり」他多数
    テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍する人気「江戸通人」
会 費:会員1,000円、非会員1,500円

報告

 黒田涼氏は、大手新聞社勤務後作家デビューされ、江戸に関する多くの著作を出され、テレビ・ラジオ・雑誌などで活躍される人気「江戸通人」である。したがって黒田氏は、研究者としての立場ではなく、作家としての立場から江戸を語られた。

1.江戸は当初、本当に寒村だったのか? 違うのではないか。
 当時、江戸には既に、浅草湊、江戸湊、品川湊と3つの湊=港があった。江戸から北へ行く道があり、隅田川を渡るので、古くから浅草に湊があった。次に品川湊は、太田道灌の根拠地は御殿山にあり、品川に湊を作った。
 これが道灌の財力の基になったと考えられる。この地には鎌倉時代創建の寺があった。江戸川区長島に古い寺が残っている。江戸川沿いに渡し場があったと考えられる。江戸湊は何処か?日比谷入江は昔は深かった。湊があったと考えられる。当時、石神井川が不忍池からお玉が池を経由して江戸湾に注いでいた。そしてこの川下は円覚寺の荘園があり繁栄していた。家康の頃は浅くなっていたので埋め立てて、江戸湊を日本橋へ移した。
 江戸城のあったところは、局沢(つぼねざわ)と呼ばれ、16もの寺があった。江戸湊の繁栄があり、1,000人規模の集落があったと思われる。戦国時代からみれば、寒村というのは言い過ぎで、家康の功績を大きくするために寒村と言ったと思われる。
 

2.家康は秀吉にはめられたのか?
 鎌倉や小田原には港がなく、大量の物資をさばくことができない。相模湾は大きな津波が来るが、江戸湾は高潮はあるが津波は来ないし、後背地が広い。江戸湾には利根川が注いでおり、北条の旧領地総てに速やかに移動でき、戦後の北条氏の残党平定に有利である。家康は小田和城の東側や北側を攻撃する布陣になっており、秀吉にとっては、家康を三河から切り離すというメリットはあるが、かつて北条と同盟関係にあった家康が北条と手を結ぶと極めて危険である。秀吉は家康を信頼していたとみられる。また、家康にとって、三河から切り離されるということは、拠り所を失った家臣の反乱を防ぐことができるということであり、領地は120万石から250万石に増え、新田開発を進めて行けば将来性のある最適地と考えたであろう。恐らく家康は喜んでいたであろうが、家臣はそうでなかったと思われる。


3.江戸は本当に100万都市だったか?
 江戸の人口数値は農民と寺社地の人口であり、武家の人口は含まれていない。定住人口ではないとみられたと思われる。1位は北京である。武家の人口を加えると110万~120万人ではないか。江戸に入るコメの量は140万石である。一人年間一石を消費すると考えると140万人であるが、飲み水の普及度合いから推定すると、100万人を超えるのは無理があると思われる。


4.家康の都市計画
 徳川3代ぐらいまでは、文字による記録が残っていない。5代綱吉ぐらいから制度、記録がハッキリしてくる。したがって、家康がどのような都市計画を考えていたかは不明である。家康は外堀の中まででしか考えていない。その中を大名、旗本、町人できちんと配置している。これは城下町を堡塁と堀で囲う「総構え」という方式で小田原城が始まりで非常に堅固な城塞都市となっている。したがって、秀吉は城攻めはせず、兵糧攻めに徹した。小田原攻め以降、各地の大名はこの総構えを採用するようになった。
 参勤交代が制度化されるのは3代家光の時代で、家康の頃は想定されていない。参勤交代は幕府が大名の財政圧迫を目論んだもの、という説は嘘。幕府は度々、参勤行列を華美にするなという通達を出しており、華美にしているのは各大名の意地の張り合いである。費用が掛かるのは江戸の屋敷の維持費である。江戸市中がギュウギュウ詰めになったときに、明暦の大火が起きる。その後、総構えの外に街を拡げる。御三家、大大名は外堀の外に、また、寺や神社は江戸防衛の意味もあり、総構えの外の街道沿いに集中的に移転させられた。日比谷稲荷が新橋と八丁堀にあるのは、もともと日比谷にあったものが移転させられたからである。
 

5.江戸の発展
 幕藩体制は、中央集権体制ではない。しかし、参勤交代によって全国の大名が毎年大量の家臣を連れて江戸へやって来る。どのくらいの人数がやって来たかはデータがなく不明であるが、彼らの生活を支えるための町人の数も、それに伴って増える。また、全国から江戸への流通網が整備され、各地に特産物が生まれ、江戸へ送られる。江戸は一大消費都市であり、娯楽・観光・売春都市でもある。
 新田開発によって各地で耕地面積が増えるが、人口は全国で3,000万人を超えたぐらいで頭打ちになる。これは新田開発で土砂が流れ、海岸に砂浜が沢山できるようになり、幕府は自然保護に方針を転換、新田開発を止めた。結果、各地で食えない溢れ者が、江戸へ流れ込んでくることになり、江戸の人口はますます増えた。
 江戸図で朱引きされている枠内が行政区域で、墨引きされている内部が町奉行の管轄範囲内である。
 明治維新になって、武家が江戸から引き揚げ、町人だけになったため、江戸の人口は激減し、60万人ぐらいになった。


黒田涼氏著作集
 「江戸城を歩く」祥伝社新書、「江戸の大名屋敷を歩く」祥伝社新書、「江戸の神社・お寺を歩く 城東編、城西編」各、祥伝社新書、「東京名所 今昔ものがたり」祥伝社黄金文庫、「大軍都・東京を歩く」朝日新書、「おれの細道 江戸東京狭隘路探索」アートダイジェスト社、「美しいNIPPONらしさの研究」ビジネス社、「江戸の街道を歩く」祥伝社新書、「江戸・東京の事件現場を歩く」マイナビ出版、「江戸東京の幕末・維新・開化を歩く」光文社知恵の森文庫



4月総会および講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」

日 時:4月21日(土)
    14:00~15:00 総会
    15:15~17:15 講「江戸遊里の記憶~遊里の光と影」
場 所:高井戸区民センター 第1・2集会室
    井の頭線高井戸駅から徒歩3分
    高井戸区民センター案内
講 師:渡辺憲司氏
    自由学園最高学部長
    著書「江戸遊里盛衰史」「江戸遊里の記憶」他
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「あいたか」九州・沖縄ダイニング(区民センター横)03‐3333-4414
     飲み放題付き、一人4,000円

報告

 渡辺氏は行動の人である。資料をじっくり読みこんでから書くのではなく、考える前に走り出す。変体仮名は難しく、向き不向きがある。漢文ならば読めるだろうと考え、山鹿素行から研究活動を始めた。そしてすぐに平戸へ調査に行った。そこの松浦資料館で松浦静山に接し、松平定綱やその周りの学者・俳人などを調査することになり、最初の学会発表「山鹿素行と松平定綱」となった。博士号は九州大学で取った。全国の県庁所在地の図書館を訪ねて回り、博士論文「近世大名文芸圏研究」にまとめた。その際に、行く先々で、昼間は図書館、夜は昔の遊郭跡や料理屋を巡り、その後の遊里研究につながることになった。
 下関は遊郭の発祥の地である。源平合戦の壇ノ浦の戦いで安徳天皇が亡くなり、残された官女たちが身過ぎのために、最初花を売っていたが、それがやがて身を売るようになっていった、という伝承がある。今でも下関では、安徳天皇の陵がある赤間神宮まで歩く太夫道中がある。最初の焼香は遊女がやる。下関市史を出すというので、民俗学としての遊女についての執筆を頼まれたのがきっかけで、遊里の研究に入ることになった。下関では、明治天皇の巡幸の時に接待に出たのは遊女だったという。とにかく面白くて、全国の遊郭を訪ね歩いてみるという一念発起。七夕祭りは遊郭の行事、遊女が自分の好きな人に会いたいという思いを短冊に書いて竹笹に吊るした。しかし、仙台の七夕ではそれはない。処によって違うようだ。
 渡辺氏が遊里研究やその話をするときに大事にしている立ち位置がある。それは廊噺は「辛からんことを人情深く」話すこと、即ち「言葉やはらかに、苦界勤めの、つらからん事を、人情深くはなすべし」ということである。氏の著書である「江戸遊里の記憶」の中に次の言葉がある。遊里の悲惨を直視しなければならない。ノスタルジーを感じたり、安易な人情など無用である。ましてや、遊里の文化に一種の憧憬を持つなど、非道である。-中略― 直視とは光を当てることである。そしてその光は影を生じる。遊里の持つ根源的な苦痛に光を当て、その影を追ってみたいと思ったのである。その陰の底に、現代の我々に訴えかける遊里の記憶があるはずである、と。
 人に嫌われる三要素は、相手の過去を聞くことである。即ち、どこの生まれ? なぜ一人なの? 母親は元気? 遊郭では身元を隠し、客も遊女も平等である。 遊郭といっても一律に語ることはできない。場所によって異なる。下関の遊女は足袋を履く。吉原と深川では異なる。吉原の中でも遊女と芸者とは違う。遊女は床の間を背負って上座に座るが、芸者は下座に座る。しかし全国そうだとは限らない。
 一律にどこでも遊郭があったとは言えない。金沢と米沢では、一時期遊郭はなかった。また、殆どの城下町の中には遊郭はなかった。近代、明治以降になってゴチャゴチャになった。遊郭は人の多い処にできる。例えば、軍隊や大会社のある地域など。しかしそれも状況による。旭川に連隊ができたが、連隊長が嫌って遊郭はできなかった。また北見ではキリスト教が強くできなかった。他に遊女の多い処として港が挙げられるが、鉱山も見逃すことはできない。遊郭は人の集まる処にできたため、江差追分やハイヤ節などは、遊郭が伝えてきた。
遊郭には学校(女紅場)があり遊女を教えた。また病院もあった。権力のコントロール下にあった。遊郭の門は「オオモン(大門)」と呼ばれた。これは公式の門に対する呼称。これに対して神社や寺の門は「ダイモン」という。
 子供を公娼にしないために、女の子が生れたときに戸籍に入れないことが、行われていた。なぜならば、公娼になるには戸籍が必要だったからである。 俳句に聞き句というのがある。例えば、芭蕉の句に-秋深し隣は何をする人ぞ-は、孤独な独り身の寂しさか、懐かしく感じるのか両説ある。松尾芭蕉の弟子の其角の句に-闇の世は吉原ばかり月夜かな-という句がある。これはどこで区切るかで意味が違ってくる。-闇の世は、吉原ばかり月夜かな-、-闇の世は吉原ばかり、月夜かな-、と吉原を見るとき常に二面性を見なければならない。レッテルを張ってはならない。
国によって素晴らしい遊女とされる性格が違う。中国-侠、韓国-義、日本-情。
 以上、渡辺憲司先生によって、辛からんことを人情深くお聞きすることができました。



3月講 日帰りバス旅行「江戸と房州・船文化を探る」

日 時:3月17日(土) 午前9時~午後6時
集 合:午前9時 JR東京駅丸の内北口改札口前
会 費:会員6,000円、非会員6,500円(昼食代込み)
定 員:45名(江戸連会員及びその家族)
コース:東京駅-東京湾アクアライン・海ほたる-木更津漁港(昼食)-菱川師宣生誕地・墓地参拝-源頼朝
上陸・再起地見学-館山歴史博物館・渚の博物館-洲崎神社-白浜フラワーライン経由-安房神社-
野島崎灯台・白浜海洋美術館-帰路・東京湾アクアライン-東京駅
案内人:新実氏
昼 食:DSC_0020

報告

 東京駅を予定どおり出発一路房総へ。君津でトイレ休憩、さらに金谷でトイレ休憩すると共に現地ガイドさんが同乗、布良埼神社及び小谷邸へ向かう。当地で二組に分かれてそれぞれを見学。
布良埼神社
 安房神社の祭神天太玉命の孫である天富命を祭神とし、阿波神社が祭殿で布良埼神社は前殿だったと伝えられる。江戸時代までは蔵王権現と呼ばれ、明治初年に布良埼神社と改名した。


小谷邸
 小谷家は江戸期から昭和初期まで続いた上層漁家。分棟型民家の系統を引く建物。明治37(1904)年に洋画家の青木繁が2ヵ月間逗留した建物で、重要文化財「海の幸」を構想したことで知られている。青木繁の作品が幾つか展示されている。
 

次に洲崎神社に向かう
 当神社は天太玉命の后神を祀る式内大社。神武天皇の御宇、天富命が御祖母神天比理乃*命の奉持された御神鏡を神霊として洲辺(すさきべ)の美多良洲山(みたらしやま)に祀られたことに始まる。
 鎌倉時代の治承4(1180)年に安房に逃れた源頼朝が、戦勝と源氏再興を祈念して神田を寄進、後、妻政子の安産を祈願している。
 

 

昼食「漁師料理たてやま」一人1,500円のキンメダイの刺身の入った海鮮丼


 昼食後、すぐ裏手にある「大嚴院」に向かい、境内にある「四面石塔」を見る。
1642(元和10)年、雄誉霊巌上人が建立、高さは219㎝。東西南北の各面に、朝鮮ハングル・中国篆字・和風漢字・印度梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。特に東面の「ハングル字形」が朝鮮国第4代王世宗が1446年に公布したものの短期間で消滅したという創生初期の「東国正韻」式の字形といわれ、韓国にもない非常に貴重なものである(新実氏資料より)。
 

次に向かったのは「渚の博物館」
 

 

菱川師宣博物館と師宣の墓
 

アクアライン・首都高を経由して東京駅着19:00。



2月講「明暦大火前の古地図から見えてくること」

日 時:2月24日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:芳賀啓(ひらく)氏
    出版社社主、地図研究家、エッセイスト、東経大客員教授
    著書「古地図で読み解く江戸東京地形の謎」二見書房
      「デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖」講談社
      「地図・場所・記憶」 けやき出版
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:「天豊」を予定。3,500円/人

報告

・太陽は直径10万光年の銀河系の中心から28千光年の位置で時速70万kmのスピードで一周約226百万年を公転している。
・「言葉」がなければ地図といえない。地図は表現ではなく認識である。
・中央(為政者)がいる場所で時間の区切りをしている。江戸時代→東京時代
・「伊能図」は海辺図・経路図である-白い処が多いが形は正確
・これに対して「国絵図」-幕府が国持大名に作らせた正式な地図
・最新版以前の地図は「古地図」とする。
・明治初期の測量図は江戸と現代を繋ぐ役割を持つ。
    1884年測量-1886年製版-18887年出版
      
    点線は神田上水の地下水路(木樋)
    #は木樋につながる井戸
    建物の囲いの中が斜線は木造、クロス線は煉瓦作りまたは土蔵
    色の濃いものは官または共有、薄いものは民間
    点線を青色鉛筆でたどった。江戸時代網の目のように水道が完備されていたことがわかる
・江戸時代に作られていても古地図といえないものがある。
・江戸大絵図・江戸切絵図などほとんど複製品や模写品である。
・復刻版と記され、原図についても記載があるものが正しい。
・「江戸学事典」-江戸の項目存在せず。
・「国史大事典」-第2巻に江戸図の項目あり。
・「古版江戸図集成」全5巻-1959年 蘆田伊人、真山青果
・「江戸切絵図集成」全6巻-斉藤直成
・「明暦江戸大絵図」-三井文庫
    狩野派絵師による。明暦の大火前後を読み込む。江東を描いた最古の地図
      
    江戸切絵図は江戸の住宅地図ではない。将軍に仕える家臣団の配置図
    それが民間に流れ、そのまま使われた。
    道路に町の名前が書かれている-道路がその地域のコミュニティであった。
    御殿-ごてん、将軍が鷹狩の時に使う場所
    木ヤの庄兵へ-江戸に材木を入れている商人
    長崎平蔵-末次平蔵、貿易商、キリシタンから転向、弾圧に加わる。
・「寛永江戸全図」
    測量図。緑のグラデーションが崖を表し、地形が良くわかる。
    高田馬場、中野、新宿、青山、麻布など
以上



1月講「隅田川七福神巡り」

日 時:1月6日(土) 午後1時~4時(予定)
集 合:午後1時 東武東京スカイツリー線(北千住~浅草間)
   「堀切駅」1番線(北千住方面行き)改札口
差 配:圓山氏、松本氏
コース:堀切駅~多聞寺~木母寺~白鬚神社~百花園~長命寺~弘福寺~三囲神社~東京スカイツリー駅
   (約5.5km。2時間半~3時間)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円(百花園の入場料込み)
懇親会:「塚田農場東武浅草駅前店」16:40頃~2時間。飲み放題付き4,000円/人

報告

隅田川七福神巡り 地図


ご集印色紙




12月講「江戸の芸つくし」

日時:12月9日(土) 午後1時半~8時
場所:堀切菖蒲園静観亭
企画:13:30~14:45 投扇興(自由参加、無料)
   14:50~16:35 12月講
           かっぽれ:鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元、会員)
           江戸紙芝居:寿々方(江戸がたり家元、会員)
           謡 曲:圓山代表以下会員有志
           落 語:花伝亭長太楼師匠(会員)
   16:35~17:30 忘年会会場準備中マジック:三宮会員
   17:30~20:00 忘年会
会費:5,000円、講のみ参加は2,000円
定員:講65名、忘年会45名

報告

2017年12月講 「江戸の芸つくし」 投扇興 (親善試合)
12月9日、場所は堀切菖蒲園静観亭、例年通り「江戸の芸つくし」の前座として皆さんに楽しんでいただきました。
参加者15名、始めての方、始めてではないけれども1年ぶりという人が5名、残り10名は投扇連の常連でした。
親善試合とは言え、プレイされた皆さんの表情は真剣でした。
 2ヶ月に一度何年も練習している常連が初心者に負けたら。。。と心配する向きもありましたが、準決勝に残ったのは宮川さん、白石さん、佐藤さん、仲下の常連4名。
投扇興は実力以上に運と言われますが、やはり神様は練習に汗を流した努力に報いてくれました。
決勝は常連に加入したばかりの宮川さんと2011年8月の投扇連発足以来、練習通いをしている仲下の対戦。
「プロとアマの対戦だ」などとうそぶいた仲下の言葉に発奮した宮川さんがいきなりの早蕨( さわらび)、焦る仲下に高得点の技は出ず、試合は最後の10回目にもつれ込み仲下が須磨で7点を出しかろうじてリード。
最後を7点以上の技を出せば優勝と言う場面で少し緊張した宮川さんの一投は惜しくも行幸(みゆき)5点!
24点対23点の1点差で勝負が決まりました。手に汗握る一戦でした。
十分楽しみ前座の役割を果たし、鈴乃家梅奴さんの「かっぽれ」にバトンタッチしました。

1.かっぽれ 鈴乃家梅奴(鈴乃家流かっぽれ家元)
   演目「奴さん」「深川」「かっぽれ」
    かっぽれ 鈴乃家梅奴

2.謡曲 謡曲連衆(圓山稔、長谷田一平、一坂洋三の各氏)
   演目「隅田川」
    謡曲 謡曲連衆

3.落語 花伝亭長太楼
   演目「二番煎じ」
    落語 花伝亭長太楼

4.忘年会
   37名の会員が参加。



11月講「紀州徳川家の400年」

日 時:11月11日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:徳川宜子(とくがわことこ)氏(紀州徳川家19代当主)
内 容:藩祖徳川頼宣公が元和5年(1619年)紀州へ転封されてから来年で400年を迎えます。
    紀州徳川家の歴史から現代につながる想いを19代当主徳川宜子さんが語ります。
会 費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:自由参加。一人3,500円

報告

・紀州徳川家について
   徳川家康の十男である徳川頼宣が元和元年に(1619年)に55万石を拝領して紀州藩主として和歌山城
  に入城したことで始まる。
  初代・頼宣-2代・光貞-3代・綱教-4代・頼職-5代・頼方(八代将軍吉宗)-6代・宗直-7代・宗将
  -8代・重倫-9代・治貞-10代・治寶-11代・斉順-13代・慶福(十四代将軍家茂)-14代・茂承
  -15代・頼倫-16代・頼貞-17代・頼韶-18代・剛-19代・宜子

・江戸に残る紀州藩ゆかりの地
  上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷があった。火事により所替えがあり、江戸市中に30数か所屋敷跡が
  あった。
 1.竹橋邸  千代田区千代田
    吹上御所近く。元和元年初代頼宣が紀州へ行く前に拝領。
 2.赤坂邸  港区元赤坂
    1603年完成。その後9回火災にあっている。中屋敷から上屋敷に変更。明治4年まで使用。皇居火災の
    折に明治天皇へ献上された。
 3.麹町邸  千代田区紀尾井町
    上屋敷。明暦の火災の後明暦3年(1850年)に拝領。現在の赤坂プリンスホテルの地。屋敷裏に清水が
    湧いていて清水町の地名を今に残す。
 4.千駄ヶ谷邸  渋谷区千駄ヶ谷
    下屋敷。江戸崩壊後、天璋院、家達公が住む。
 5.木挽町邸  中央区銀座
    蔵屋敷。江戸初期に拝領。現在の銀座2丁目の東半分を占める。
 6.松濤邸  渋谷区松濤
    下屋敷。のち鍋島藩に譲る。現在松濤公園。
 7.築地邸  中央区築地
    蔵屋敷。1864年築地ホテルとなる。奇しくも、この地に石橋徳川設計所で築地市場脇公衆便所を
    設計、2014年グッドデザイン賞を受賞。
 8.蛎殻邸  中央区日本橋蛎殻町
    下屋敷。築地が手狭という事で同時期に拝領。

・紀州徳川家とモダ二ティ 近代の紀州徳川家が残したもの
  第15代 徳川頼倫 (明治5年・1872年~大正14年・1925年)   
     日本図書館協会総裁・史跡名勝天然記念物協会会長・侯爵
  ・8歳で田安徳川家より14代茂承の養子となる。
  ・久子と結婚後イギリスのケンブリッジ大学に留学
  ・紀州徳川家の蔵書10万冊を納める南葵文庫を建立。関東大震災後、東大図書館へ寄贈。
  ・皇居火災の折、赤坂邸を明治天皇へ献上。その後飯倉の屋敷に居住。敷地内には西洋造りの建物も
   作られた。
  ・現在の文化財保護法に繋がる、史跡や文化財の保護に尽力。
  ・頼倫公の茶室「高風居」は、現在三鷹の国際基督教大学に移築されている。

  第16代 徳川頼貞 (明治25年・1892年~昭和29年・1954年)
   ユネスコ国会議員連盟会長・全日本音楽協会会長・侯爵
  ・西洋音楽に造詣の深い音楽の殿様
  ・ケンブリッジ大学に留学、音楽の道を志す
  ・大正7年南葵音楽堂を建立。その開堂式では80名あまりの混成管弦楽団によるベートーベンの曲が演奏
   され日本文化への大貢献と評判をよんだ。座席数350名。高名な音楽家を招きしばしばコンサートを
   開催。
   地下の南葵音楽文庫に数多くの音楽関係の資料が収蔵されていた。現在和歌山県立図書館で公開中。
  ・大正7年6月、ベートーベンの第九がドイツ軍の捕虜によって徳島の捕虜収容所で日本で最初に演奏
   されたと聞き、その8月には徳島に演奏を聴きに行っている。
  ・大正9年日本初のアポット・スミス社製のパイプオルガンを設置。関東大震災で南葵音堂は壊れ、パイプ
   オルガンは東京芸大に寄贈された。
  ・2回目のヨーロッパ旅行の折、英国ジョージ5世に拝謁した。其の拝謁の前1週間、拝謁のマナー学校へ
   通ったという。
  ・プッチーニと会談した時に、彼の蝶々夫人のオペラの旋律は日本人としては違和感を感じるとコメント
   した折、中国のオペラの楽譜を頼まれたので帰国後送ったが、どうも届かなかったようだとのエピソード
   あり。

徳川宜子(ことこ)氏 経歴
  東京都出身。紀州徳川家19代当主。
  1977年東洋英和女学院短期大学英文科を卒業後、文化学院で建築を学び1981年卒業、同年大成建設株式
  会社入社。1985年大成建設の石橋利彦氏と共に株式会社石橋徳川建築設計所を設立。
  <著書>
   「建築家のワークスペース-VectorWorks製図ガイド」(石橋氏との共著)
   「相関のデイテール」(石橋氏との共著)
  <事務所の主な作品>
   ケルヒャ―ジャパン本社工場、千葉大学創造工学センター、米澤工機本社ビル、Ī邸、数寄屋橋公園内
   公衆便所、慈眼山成願寺、港南ビル、他

     頼倫公の茶室「高風居」
     高風居

    頼貞公「南葵楽堂」
     南葵楽堂

    徳川宜子氏講演
     徳川宜子氏講演



10月講 歌舞伎鑑賞

日時:10月14日(土) 昼の部(午前11時開演)
演目:極付印度伝 マハーバーラタ戦記
   日印交流60周年に因んでヒンドゥ教の聖典とされる古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」を題材
   にした新作歌舞伎
出演:尾上菊之助、市川左團次 他
会費:6,000円

報告

マハーバーラタ戦記



江戸連有志 東京駅見学会報告

2017年9月22日(金)9:00~12:00

 江戸連会員坂本さんの尽力により、大林組さんのご協力で東京駅見学会が実現しました。現場の安全の都合上、人数は30名に限定されましたが、あっという間に参加者満員となり、その後もキャンセルが出ず、10名のキャンセル待ちの方は残念でした。
朝9時に東京駅丸の内側北口改札集合、大手町の大林組工事事務所へ向かいました。まず、永年東京駅の工事に携わった経験をお持ちの坂本さんから、東京駅の歴史やその時々の東京駅や周辺の様子、駅舎の構造、レンガ又工事のエピソードの紹介がありました。1872年(明治5年)に新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通したのに、東京駅の開業はそれから42年後の1914年(大正3年)とは意外でした。
また、首都圏の鉄道網の整備を委託されたドイツの鉄道技術者のルムシュッテルとバルツアーは、100年後の今日の鉄道の発展を見据えた鉄道造りを実施していた。高架方式、鉄骨造でなく煉瓦方式、駅の拡張を予見等々、ただ、駅舎のデザインは寺院洋式であった為、西洋的近代化を目指す明治政府に採用されず、辰野金吾博士に引き継がれ現在の形になった由。その大きさはほぼ戦艦大和に匹敵するとのこと。
また、帝室用御休憩室(松の間)、貴賓用待合室(竹の間)などを写真で紹介、松の間に飾られた横山大観の絵にまつわるエピソード、工事中に湧き出る地下水の処理に関しての皇居のお堀や白鳥、環境庁・宮内庁・大林組本社とのやり取りなどや、レンガの驚異的頑丈さ等大変面白く説明されました。
ひき続いて大林組の現役現場所長より、本日見学して廻る箇所について、特に北通路改良工事現場について工程や現況の説明を受けました。その後、所長はじめ数名のスタッフ方々の案内で現場見学を実施しました。我々の日常生活のすぐ下や裏でこのような大掛かりな工事が日夜行われているとは、大変な驚きでした。また工事現場が大変綺麗なのは流石でした。以下写真参照。
大林組さん有難うございました。

東京駅見学会1 東京駅見学会2

東京駅見学会3 東京駅見学会4

工事概要書 施工ステップ1

施工ステップ2 施工ステップ3

9月講「江戸期の布工芸について」

日 時:9月16日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:服部早苗さん(江戸連会員)
参加費:会員1,000円、非会員1,500円
懇親会:天豊

 講演に寄せて、服部さんからコメントを頂きましたので、ご紹介します。 
「日本伝統文様を駆使した作品制作を30年余続けていますが、江戸期の250年の安定した時代は、日本の代表的な工芸品も華開いた時期といえます。そうした中で染織、刺繍など身の回りの工芸について、あれこれひもといてみます。」

 服部さんは、タペストリーから打掛キルトまでたくさんの作品を手がけてきました。また、海外を含めた各地で「布工芸展」を開催し、好評を博しています。
 なお、9月16日~9月30日までの間、伊場仙ビル1階ギャラリーで服部早苗さんの作品展を開催していますので、是非ご覧下さい。

報告

最初に、講師の服部早苗さんから過去30年余の200回あまりになる国内、海外における展示会やショーなどの公演、講演会などの事蹟についての紹介がありました。次に、これまでの展示会の一部を配布されたパンフレットに基づいて丁寧な説明がなされました。

以下に要旨を簡単に報告致します。
・「桃山の夢」と題された京都高台寺のお庭での夜間ライトアップによる展示会(1998年10月7日~13日)
   太陽光は布に良くないとの事で、庭に設えたマネキンにキルトの打掛けを着せ光を当てて展示。
・「風林火山“ヨロイ”とともに」日本橋三越本店新館7階ギャラリー(2007年5月15日~27日)
   元々、父の影響で歴史が好きで、特に武田軍団のファン。
   藍染をテーマに陣羽織をキルトで製作、ヨロイ武者に着せて展示。その他打掛け等。
・「布の優しさと仏像の癒し」初公開の仏像シリーズ・江戸期藍染シリーズを中心に
   大倉集古館(2011年4月2日~5月29日)
   大倉集古館には東京都唯一国宝指定の仏像「普賢菩薩騎象像」が収蔵されている。
   ここでの展示会は稀有のことである。また今回有名な写真家小川光三先生の仏像写真をキャノンの
   最新鋭の技術により布にカラープリントしキルティングし展示することができた。
・「仏像・藍染・打掛~鮮やかに時を再生する布の芸術~」渋谷・東急本店3階イベントサロン
   (2012年12月28日~2013年1月8日)
   江戸後期の豪商や豪農が娘の嫁入り道具として街の普通の紺屋に1年前から注文して作らせた物で
   江戸時代の藍染が今に残っているのは奇跡的。今の価格で1千万円はする。
・「藍染・仏像。布切り絵」品川区O美術館(2017年2月24日~3月8日)
   浮世絵を題材にされた布切り絵は当会場伊場仙ビル1階に展示中

<質疑応答から>
・展示会では毎回主催者からオリジナルな作品の出典を求められ大変。
・作品は貸し倉庫に保管している。独自の美術館は持ちたいがそこまで至っていない。
・海外ではモデルに作品を着せてファッションショーをやったりもしている。
・自分の特徴はカラーにあると思う。カラーセンスは生来のものとの思いが強い。
・奈良時代の色に興味があり、灌仏会の再現を試みたが大変ケバケバシかった。
・色物を使えたのは一部の特権階級のみで庶民には色はなかった。
・江戸時代平和になり後期になって色が使えるようになったが、当初幕府に許可されたのは藍染だけであった。
・山形の紅花1gは金1gと同じで大変高価な物であった。
・奈良東大寺のお水取りの時、紙で作った椿の花に紅花で色付けされていた。
・平安時代に中国との交易が途絶えたときに、特権階級の間では独自のデリケートな色を生み出していった。
・秀吉の朝鮮戦争では陶工ばかりでなく職工も朝鮮から連れ帰り、その後、日本の染色技術は飛躍的に伸びた。
・海外での展示会で打掛けを選んだのは、方形の作品ばかりの中、日本的な特徴を一見して表すには
 打掛けが良いと思った。案の定、好評であった。

<1階エントランスで展示作品の紹介と説明-写真参照>
・仏像のキルトと浮世絵の布切り絵が展示。
・サイズ的に大きな作品が多く展示できないため「室生寺・釈迦如来像」1点のみの展示。
・布切り絵は江戸初期の浮世絵、信長に虐殺された荒木村重一族のたった一人の生き残り岩佐又兵衛
 の浄瑠璃物語を作品化したもの。

講演風景  伊場仙ギャラリー

ギャラリートーク 室生寺・釈迦如来像



江戸連有志 大相撲秋場所観戦報告

日時:2017年9月13日(水)
場所:両国・国技館

 江戸連会員の小嶋さんの尽力により、20名限定で大相撲秋場所4日目の観戦チケットを購入出来る事になり、有志を募ったところ直ぐに満杯となりました。
今場所は、3横綱(白鵬、鶴竜、稀勢の里)、1大関(高安)、3前頭(碧山・宇良・佐田の海)らが休場となり、稀勢の里人気で盛り上がる予定の土俵が淋しく感じられるかと思っていましたが、さすがに現場で生で見る相撲の取り組みは素晴らしく、一番一番興奮させられました。
3横綱が初日から休場するのは昭和以降初めて、3横綱と1大関の休場は1999年3月場所以来18年振り、また幕内7人の同時休場は2005年千秋楽以来12年振りとの事。

館内の様子 幕内力士土俵入り

日馬富士土俵入り 遠藤対豊山

琴奨菊対嘉風 4日目勝敗

8月講「微笑仏の木喰~廻国巡礼と故郷への旅路」

日 時:8月19日(土) 午後3時~5時
場 所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講 師:荻原延元氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 昭和53年5月初旬に甲斐路を数日旅して、平安期や鎌倉期の古刹を巡りながら画帖にスケッチを重ねました。
旅の目的の一つでもあった、木喰上人の故郷である身延・古畑古関を訪ねると、血縁の伊藤平厳氏から”木喰五行”の廻国巡礼についてのお話しを頂き、より一層に微笑仏木喰の魅力を深く感じる事となりました。
14才で江戸に出て様々な仕事についた後、やがて木食戒を受けて56才頃から日本廻国巡礼の旅に出ると、人々の平安を祈り千体造仏の祈願を達成し、93才まで生きた江戸期の偉人であると確信いたしました(荻原延元)。

<講師略歴>
 1947年東京生まれ。武蔵野美術大学を卒業。日本画家・奥村土牛先生・塩出英雄先生に師事。日本美術院所属。
 美術教育に携わり40年間、個展5回、大学紀要ほか著作物など少々。オギ・アートクラブ(代々木・松戸教室)主宰。
昨年、江戸連のお仲間となり、月例講や投扇興などで大いに人生を楽しんでいます。この度の《江戸連》表紙絵を担当。

報告

廻国巡礼による布教・庶民救済の行で数多くの木彫仏や神像を造った僧として円空が有名だが、木喰上人はその円空入寂22年後、享保3年(1718年)に甲斐の国、身延古関丸畑に生まれ、14歳の時に故郷を出て、江戸で働きながら、22歳の時に大山不動尊で古義真言宗の高僧に出会い出家。やがて 45歳で日本廻国の大願をおこし、常陸国で観海上人の弟子となって木喰戒を受けた。やがて全国各地の山村、漁村を巡錫。多くの寺社を詣でて納経。人々の平安を祈り、独自の微笑仏を50歳代後半より千体造像の願をかけて、北海道、九州、四国、島々を巡り多数を造仏した。天明8年71歳で、縁のより日向国分寺の住職となる。73歳の時に伽藍が炎上したことで、国分寺再建に尽した。その後には再び各地を巡錫。83歳に丸畑に戻ると村人の願いを受けて四国堂を共に建立し、弘法大師像と88体仏を造像して開眼。さらに90歳では京都、兵庫において多数の微笑仏を造像し、二千体の造仏を祈願。その後は甲斐へ戻ると甲府の善光寺にて阿弥陀如来図を描き。93歳6月5日至寂の紙位牌を背負い箱に残し、何処かに消え去り、その終焉の地は定かではない。
木喰上人は彫物だけでなく和歌等詩を沢山残している。造形性だけでなく文学性にも優れていた。
木喰上人の作品には子安観音像や子安地蔵菩薩像が多くある。当時子供達が多く亡くなっていたのであろう。
木喰仏の笑顔は上人80歳代後半から始まる。

木喰とは
 五穀(米、麦、粟、黍、大豆)を食さず、塩、火を使わず、木の実、草、そば粉等を食し、木喰戒を守り修行する密教系の行者。生涯、廻国巡礼の僧もいる。

木喰と柳宗悦
 柳宗悦は民藝運動を提唱して、その活動を仲間と進め始めた頃、山梨で木喰仏に出会い、その時の感動を友人の彫刻家に「私の直覺が謝る事無くば、上人は幕末における最大の彫刻家だ」と書き送った。柳はその日から熱情を持って、仲間と共に木喰仏を訪ねて研究。木喰を世に知らしめた。

荻原延元氏「甲斐路」画帖2 荻原延元氏「甲斐路」画帖1

8月講風景 荻原延元氏画「現存する木喰仏の地点」

木喰五行上人 自刻像 木喰五行上人作 三十三観音像 荻原延元氏画「木喰礼賛」



7月講「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」

日時:7月29日(土) 午後3時~5時
場所:日本橋伊場仙ビル7階 会議室
講師:宮川都吉氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊

 平成24年の8月講「江戸の酒」の講演で大好評を博した宮川都吉さん(発酵学のオーソリティー)に再登場いただき、「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」というテーマで話をしていただきます。沢山の発酵食品や藍染など、江戸時代の発酵技術について専門家の目でわかりやすく分析してくれます。

<七月講の内容について、演者より>
江戸連の皆様 

 七月講 講演者の宮川です。既にお知らせしてあるタイトルでは講演内容がうまく伝わらないと思われるため、現在準備中の内容をざっとお知らせします。七月講(7月29日)では、日本で独自の進化を遂げてきた「発酵」についてお話しします。多少の科学と、エピソードを交えつつ、次のような内容で分かり易く解説する積りです。

1. 麹について: 清酒、味噌・醤油等の醸造に重要な「麹」は、我が国で長年育まれてきた誇るべきレガシーである。最近の科学的研究から麹の凄さが明らかになったので、最新の知見を交えて解説する。高峰譲吉は百年以上前に、麹の強力な分解(消化)酵素に着目、胃腸薬「タカジアスターゼ」を日米欧で商品化し、世界的に「バイオテクノロジーの父」として崇められている。これを嚆矢とする「世界に冠たる日本のバイオテクノロジー」の一端を述べる。

2. うま味物質について: 昆布や鰹節のうま味は和食文化を支える重要な味覚であるが、馴染みの薄い欧米の学者は、うま味は日本人独特の不可解な感覚と長年無視してきた。最近うま味発現の科学的根拠が明らかにされ、ダシのうま味が世界的にも認知され、和食ブームを後押ししている。池田菊苗は百年以上も前に、昆布のうま味物質をグルタミン酸とつきとめ、「味の素」を商品化した。その後見いだされた物質を含め、今日うま味物質は日本のお家芸のバイオテクノロジーを駆使した発酵法で製造される。

3. 藍染について: 食品以外で発酵技術が利用された稀有な例として、藍染を取りあげる。藍(インディゴ)は化学的特性により、原理的に染色に大きな困難を伴うが、微生物の働き(発酵)を利用して、この問題を見事に解決している。

7月講風景

6月講「広重に見る江戸の謎」

日時:6月17日(土) 午後3時40分~5時40分
場所:西荻南区民集会所 第1・2集会所(定員70人)
   〒167-0053 杉並区西荻南3丁目5番23号 03-3335-5444
   JR西荻窪駅南口より徒歩10分以内
   http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/katsudo/shukaijo/1006955.html
講師:竹村公太郎氏
   元建設省河川局長(著書『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫))
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:投扇興で馴染みの中華屋「新福來 阿佐ヶ谷本店」(別途割り勘)

※時間と場所が従来と違いますので、ご注意ください。

5月講「江戸城の"歴史と植物"を探訪する」

開催日:5月27日(土)
集合場所:江戸城大手門(橋を渡り、鯱の説明板付近)
集合時間:午後1時半
行程:東御苑入園~百人番所~中之門跡~大番所~中雀門跡~果樹古品種園~富士見櫓~松の廊下跡~茶畑
   ~石室~竹林~天守台~北桔橋門~展望台~汐見坂~二の丸雑木林~二の丸庭園~菖蒲田~三の丸尚蔵館
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:ロンフービストロ 丸の内オアゾ店(会費一人4,000円)

今回のガイドは、会員の土屋繁さん(歴史担当)、麦野裕さん(植物担当)と圓山さん(補助)の3人です。

報告

 5月講は好天気と心地よい新緑の風とあいまって、絶好の散策日和になった。
大手門に入った辺りで36人が集合。歴史班(土屋氏担当)と植物班(麦野氏担当)の二班に分かれて出発した。百人番所~大番所~富士見櫓~松の廊下跡を見る。富士見多聞に入館出来たが、眼下に見える蓮池濠や紅葉山の様子から多聞下の城壁の急峻さが想像される。いよいよ天守閣跡へ。江戸城の中で最も高い場所に更に10数メートルの石垣を築いて、そこに5層の天守閣(約44メートル)が聳えていたという。江戸城を再建する会の理事でもある土屋さんの話に熱が入る。北桔橋(はねばし)門~汐見坂~二の丸公園などを散策。
ツツジ・コウホネ・菖蒲&杜若などが実に美しい。二の丸休憩所で二班が合流し、歴史&植物について活発な質疑応答がなされる。とりわけ天守閣の再建について沢山の意見が飛び出す。最後に三の丸尚蔵館を見学して4時頃お開きとなる。懇親会には15人が参加、いつものように話題満載の楽しい飲み会になった。(圓山)

 野生種を多く集めたバラ園、日本の古い品種のリンゴや桃など果樹を集めた果樹古品種園、竹林、雑木林、江戸時代の池泉回遊式庭園を復元したという二ノ丸庭園の水生植物など、麦野氏の案内で苑内の植物を見て歩いた。何度も訪れたことのある皇居東御苑だが、これほど多くの植物が観察できる場所であったことに驚かされた。多くの植物にはその名を記した標識がつけられており、植物の名を確認しながら散策できるのも魅力の一つだが、麦野氏の解説はそれぞれの植物の特徴をさらに気づかせてくれる。石垣に張り付くように生えたツルドクダミは薬用植物で城によく観られること、ミズキの仲間は導管が強く切れにくいこと、クロマツ・アカマツの松葉の断面は半円なので二本合わせると円になるが、同様に五葉松の五本の松葉の断面は五本合わせるとやはり円になること、アブラチャンは里山の植物の代表だが、名前の通り木の全体に油が多く含まれ燃えやすいこと等々、遊び心いっぱいのガイドであった。(松本)



報告

「十二支の役者見立絵」 学習院大学・東京外国語大学・東海大学ほか非常勤講師 藤澤 茜氏

【参考】藤澤茜 「十二支の役者見立絵」 (『二松学舎大学論集』59号 2016年3月)
Ⅰ 江戸時代における十二支
十二支は殷(前16~11世紀)の時代の中国で行われるようになったという。由来には諸説あり、月の名前に用いられたものとする説、または古代中国において惑星の中で最も尊いと考えられていた木星が約十二年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を十二の区画に分け名前を付けたとする説などがある。「子」を鼠、「丑」を牛というように動物を当てはめたのは漢(前202~220)の時代とされ、諸地域に広がった。日本には6世紀に伝わったといい、正倉院の宝物にも十二支をモチーフにしたものが確認できる(十二支彩絵布幕・白石鎮子)。
時刻や方角を指す際にも十二支に当てはめる方法がとられるなど、日常生活にも浸透するようになる。

◆時刻◆
江戸時代は不定時法が用いられ、日の出、日の入りを昼夜の境として六つ時と数え、昼夜をそれぞれ六等分し、一刻(一時)と呼んだ。夏と冬では一刻の時間に差が出ることになり、江戸市中では本石町をはじめ複数の場所に「時の鐘」が設置され、正確な時刻が伝えられていた。時刻の呼称は二種類あり、九つ時から八、七、六・・と四つまでを二回繰り返して示す場合と、一日の十二刻を十二支に当てはめる呼び方とがあった。

江戸時代中期には、その干支にちなんだ動物の置物や飾り物を用いて、年神様として迎える風習も生まれた。また生まれ年とその年の十二支の動物の特徴を重ね合わせるという感覚も、江戸時代に生じたといわれる。十二支は仏教とも結びつき、例えば子は千手観音など、十二支ごとに守護本尊が定められ、江戸時代には民間信仰として広まったとされる。
方位と時刻
Ⅱ 浮世絵に見る十二支
①絵暦
絵暦

②十二支の動物を組み合わせる
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」

歌川芳虎画「家内安全ヲ守十二支之図」
歌川芳虎画「家内安全ヲ守る十二支之図」

③十二支をテーマにした揃物(12枚組のシリーズ物)

<動物自体を描く>
A 礒田湖龍斎画「風流十二支」安永2~4年(1773~75)中判錦絵 【図1】
<子ども絵>
B 石川豊雅画「十二支」1770年代 中判錦絵 【図2】※十二支と十二ヶ月をシンクロさせる
C 礒田湖龍斎画「風流小児十二支」安永2年(1773)頃 中判錦絵
【図1】A 礒田湖龍斎画「風流十二支」
礒田湖龍斎画「風流十二支」

【図2】B 石川豊雅画「十二支 丑 如月」 ※菅原道真
石川豊雅画「十二支 丑 如月」

【図3】N 歌川国芳画「武勇見立十二支 子 頼豪」
歌川国吉画「武勇見立十二支 子 頼豪」
<美人画>
D 礒田湖龍斎画「風流十二支」明和7~安永元年(1770~72) 中判錦絵
E 勝川春潮画「浮世十二支」寛政期(1789~1800)
F 「風流娘十二支」文化4年(1807) 中判錦絵
G 二代歌川豊国画「風流東姿十二支」 文政(1818~30)末
H 二代歌川豊国画「十二支全盛松の粧」 文政(1818~30)末
I 三代歌川豊国・万亭應賀「浮世十二支」弘化頃(1844~48) 小判錦絵
J 三代歌川豊国画「意勢古世身 見立十二直」弘化4~嘉永5年(1847~52) 大判錦絵
K 三代歌川豊国「艶姿花の十二支」元治元年(1864) 大判錦絵
<戯画>
L 歌川国芳画 「道化十二支」 天保12年(1841)頃 小判錦絵
M 歌川国芳画 「道外十二支」 安政2年(1855) 小判錦絵
<武者絵>
N 歌川国芳画「武勇見立十二支」 天保12年(1841)頃 大判錦絵 【図3】
O 歌川国芳画「英雄大倭十二士」 安政元年(1854) 大判錦絵
<役者絵・歌舞伎>
P 歌川国芳画 「美盾十二史」 弘化2年(1845)頃 大判錦絵
Q 貞信画(上方絵)「忠孝十二支之内」嘉永2年(1849)頃 中判錦絵
R 広貞画(上方絵)「見立十二支」  嘉永4年(1851)頃 中判錦絵二枚続
S 歌川国芳画 「見立十二支」  嘉永5年(1852) 大判錦絵
T 三代歌川豊国「擬絵当合十二支」嘉永5年(1852) 大判錦絵 ※文久元年(1861)の図も含む
U 国員(上方絵)「拾二支之内」  安政5・6年(1858・59) 中判錦絵
V 二代歌川国貞画「楽屋十二支之内(見立楽屋十二支之内)」万延元年(1860) 大判錦絵
W 芳瀧(上方絵)「見立十二支之内」文久2年(1862) 中判錦絵
X 広貞(上方絵)「十二支ノ内」元治元年(1864) 大判錦絵
Y 歌川国周画 「俳優見立十二支」 明治2年(1869) 大判錦絵
Z 歌川国周画 「奇術十二支之内」 明治10年(1877) 大判錦絵

Ⅲ シリーズごとの比較
例1)子  美人画=子の日の小松引き/武者絵=頼豪/役者絵=仁木弾正のイメージが強い・雪姫も
【図4】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」1

【図5】役者絵S「見立十二支」仁木弾正
役者絵S「見立十二支」仁木弾正

【図6】役者絵P「美盾十二史」雪姫
役者絵P「美盾十二史」雪姫

例2)巳  美人画=弁財天/武者絵=仁田四郎/役者絵=「伊賀越乗掛合羽」(巳年生まれ)・蛇遣い
【図7】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」2

【図8】役者絵S「見立十二支」
役者絵S「見立十二支」

【図9】役者絵T「擬絵当合」蛇遣い
役者絵T「擬絵当合」蛇遣い

例3)未 美人画=執事の御やかた/武者絵=関羽(典拠未詳)/役者絵=髪結い・未の刻・見世物
※紙を好んで食べることから、紙と関連づけて描かれる場合がある     「紙」と「髪」をかける
【図10】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」3

【図11】役者絵S「見立十二支」未の刻
役者絵S「見立十二支」未の刻

【図12】役者絵V「楽屋十二支之内」
役者絵V「楽屋十二支之内」

例4)戌 役者絵=南総里見八犬伝
【図13】役者絵V「楽屋十二支之内 犬」八犬伝 犬塚信乃
役者絵V「楽屋十二支内 犬」八犬伝 犬塚信乃

例5)酉 役者絵=鶏娘・酉年の守護神(不動明王)
【図14】役者絵S「見立十二支」酉 不動明王 ※前年上演の芝居
役者絵S「見立十二支」酉 不動明王
・最新の芝居=記憶に新しい芝居の見立で購買意欲をかきたてる
・「神の使い」という動物観もあったことがうかがえる

例6)亥 役者絵=「忠臣蔵」・摩利支天
【図15】役者絵S「見立十二支」摩利支天
役者絵S「見立十二支」摩利支天

◆「見立」の方法◆
・動物そのものが舞台に登場するもの(人間がその姿に変わる・・鶏娘)
・干支に関する行事・・初卯詣で など
・神仏に関する連想・・・酉年の守護神である不動明王・摩利支天 など
・刻限・・未の刻=阿古屋
・名前が重なる・・辰=お辰
・その年の生まれ・・巳=巳年生まれの血が眼病に効く



3月講「春の隅田川桜見物クルーズ」

日時:3月25日(土) 午後2時~4時半 雨天決行
コース:品川天王洲ヤマツピア桟橋から隅田川スカイツリーコース往復(約2時間)
集合場所:京浜急行新馬場駅北口改札前
集合時間:午後1時半
参加費:一人6,000円(含む乗船券&スナック)
定員:55名(江戸連会員およびその家族優先)
その他:酒・つまみ持込み可、ただし食中毒は自己責任(江戸連でビールは少々用意)
参考:船会社(株)ジール クルーズ事業部(電話:03-3453-0423)、乗船名 ジークフリート
案内:新実正義

報告


東京湾隅田川スカイツリーコース(新実さん説明資料より)


乗船風景


新実さんの案内と資料の説明


展望デッキ


料理