江戸連講

8月講「微笑仏の木喰~廻国巡礼と故郷への旅路」

日時:8月19日(土) 午後3時~5時
場所:伊場仙ビル7階 会議室
講師:荻原延元氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊(予定)

 昭和53年5月初旬に甲斐路を数日旅して、平安期や鎌倉期の古刹を巡りながら画帖にスケッチを重ねました。
旅の目的の一つでもあった、木喰上人の故郷である身延・古畑古関を訪ねると、血縁の伊藤平厳氏から”木喰五行”の廻国巡礼についてのお話しを頂き、より一層に微笑仏木喰の魅力を深く感じる事となりました。
14才で江戸に出て様々な仕事についた後、やがて木食戒を受けて56才頃から日本廻国巡礼の旅に出ると、人々の平安を祈り千体造仏の祈願を達成し、91才まで生きた江戸期の偉人であると確信いたしました(荻原延元)。

<講師略歴>
 1947年東京生まれ。武蔵野美術大学を卒業。日本画家・奥村土牛先生・塩出英雄先生に師事。日本美術院所属。
 美術教育に携わり40年間、個展5回、大学紀要ほか著作物など少々。オギ・アートクラブ(代々木・松戸教室)主宰。
昨年、江戸連のお仲間となり、月例講や投扇興などで大いに人生を楽しんでいます。この度の《江戸連》表紙絵を担当。

7月講「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」

日時:7月29日(土) 午後3時~5時
場所:伊場仙ビル7階 会議室
講師:宮川都吉氏(江戸連会員)
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:天豊(予定)

 平成24年の8月講「江戸の酒」の講演で大好評を博した宮川都吉さん(発酵学のオーソリティー)に再登場いただき、「江戸時代の発酵技術はバイオの宝庫」というテーマで話をしていただきます。沢山の発酵食品や藍染など、江戸時代の発酵技術について専門家の目でわかりやすく分析してくれます。

6月講「広重に見る江戸の謎」

日時:6月17日(土) 午後3時40分~5時40分
場所:西荻南区民集会所 第1・2集会所(定員70人)
   〒167-0053 杉並区西荻南3丁目5番23号 03-3335-5444
   JR西荻窪駅南口より徒歩10分以内
   http://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/katsudo/shukaijo/1006955.html
講師:竹村公太郎氏
   元建設省河川局長(著書『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫))
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:投扇興で馴染みの中華屋「新福來 阿佐ヶ谷本店」(別途割り勘)

※時間と場所が従来と違いますので、ご注意ください。

5月講「江戸城の"歴史と植物"を探訪する」

開催日:5月27日(土)
集合場所:江戸城大手門(橋を渡り、鯱の説明板付近)
集合時間:午後1時半
行程:東御苑入園~百人番所~中之門跡~大番所~中雀門跡~果樹古品種園~富士見櫓~松の廊下跡~茶畑
   ~石室~竹林~天守台~北桔橋門~展望台~汐見坂~二の丸雑木林~二の丸庭園~菖蒲田~三の丸尚蔵館
参加費:会員 1,000円、非会員 1,500円
懇親会:ロンフービストロ 丸の内オアゾ店(会費一人4,000円)

今回のガイドは、会員の土屋繁さん(歴史担当)、麦野裕さん(植物担当)と圓山さん(補助)の3人です。

報告

 5月講は好天気と心地よい新緑の風とあいまって、絶好の散策日和になった。
大手門に入った辺りで36人が集合。歴史班(土屋氏担当)と植物班(麦野氏担当)の二班に分かれて出発した。百人番所~大番所~富士見櫓~松の廊下跡を見る。富士見多聞に入館出来たが、眼下に見える蓮池濠や紅葉山の様子から多聞下の城壁の急峻さが想像される。いよいよ天守閣跡へ。江戸城の中で最も高い場所に更に10数メートルの石垣を築いて、そこに5層の天守閣(約44メートル)が聳えていたという。江戸城を再建する会の理事でもある土屋さんの話に熱が入る。北桔橋(はねばし)門~汐見坂~二の丸公園などを散策。
ツツジ・コウホネ・菖蒲&杜若などが実に美しい。二の丸休憩所で二班が合流し、歴史&植物について活発な質疑応答がなされる。とりわけ天守閣の再建について沢山の意見が飛び出す。最後に三の丸尚蔵館を見学して4時頃お開きとなる。懇親会には15人が参加、いつものように話題満載の楽しい飲み会になった。(圓山)

 野生種を多く集めたバラ園、日本の古い品種のリンゴや桃など果樹を集めた果樹古品種園、竹林、雑木林、江戸時代の池泉回遊式庭園を復元したという二ノ丸庭園の水生植物など、麦野氏の案内で苑内の植物を見て歩いた。何度も訪れたことのある皇居東御苑だが、これほど多くの植物が観察できる場所であったことに驚かされた。多くの植物にはその名を記した標識がつけられており、植物の名を確認しながら散策できるのも魅力の一つだが、麦野氏の解説はそれぞれの植物の特徴をさらに気づかせてくれる。石垣に張り付くように生えたツルドクダミは薬用植物で城によく観られること、ミズキの仲間は導管が強く切れにくいこと、クロマツ・アカマツの松葉の断面は半円なので二本合わせると円になるが、同様に五葉松の五本の松葉の断面は五本合わせるとやはり円になること、アブラチャンは里山の植物の代表だが、名前の通り木の全体に油が多く含まれ燃えやすいこと等々、遊び心いっぱいのガイドであった。(松本)



報告

「十二支の役者見立絵」 学習院大学・東京外国語大学・東海大学ほか非常勤講師 藤澤 茜氏

【参考】藤澤茜 「十二支の役者見立絵」 (『二松学舎大学論集』59号 2016年3月)
Ⅰ 江戸時代における十二支
十二支は殷(前16~11世紀)の時代の中国で行われるようになったという。由来には諸説あり、月の名前に用いられたものとする説、または古代中国において惑星の中で最も尊いと考えられていた木星が約十二年で天球を一周することから、その位置を示すために天球を十二の区画に分け名前を付けたとする説などがある。「子」を鼠、「丑」を牛というように動物を当てはめたのは漢(前202~220)の時代とされ、諸地域に広がった。日本には6世紀に伝わったといい、正倉院の宝物にも十二支をモチーフにしたものが確認できる(十二支彩絵布幕・白石鎮子)。
時刻や方角を指す際にも十二支に当てはめる方法がとられるなど、日常生活にも浸透するようになる。

◆時刻◆
江戸時代は不定時法が用いられ、日の出、日の入りを昼夜の境として六つ時と数え、昼夜をそれぞれ六等分し、一刻(一時)と呼んだ。夏と冬では一刻の時間に差が出ることになり、江戸市中では本石町をはじめ複数の場所に「時の鐘」が設置され、正確な時刻が伝えられていた。時刻の呼称は二種類あり、九つ時から八、七、六・・と四つまでを二回繰り返して示す場合と、一日の十二刻を十二支に当てはめる呼び方とがあった。

江戸時代中期には、その干支にちなんだ動物の置物や飾り物を用いて、年神様として迎える風習も生まれた。また生まれ年とその年の十二支の動物の特徴を重ね合わせるという感覚も、江戸時代に生じたといわれる。十二支は仏教とも結びつき、例えば子は千手観音など、十二支ごとに守護本尊が定められ、江戸時代には民間信仰として広まったとされる。
方位と時刻
Ⅱ 浮世絵に見る十二支
①絵暦
絵暦

②十二支の動物を組み合わせる
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」
歌川国芳画「年が寄っても若い人だ」

歌川芳虎画「家内安全ヲ守十二支之図」
歌川芳虎画「家内安全ヲ守る十二支之図」

③十二支をテーマにした揃物(12枚組のシリーズ物)

<動物自体を描く>
A 礒田湖龍斎画「風流十二支」安永2~4年(1773~75)中判錦絵 【図1】
<子ども絵>
B 石川豊雅画「十二支」1770年代 中判錦絵 【図2】※十二支と十二ヶ月をシンクロさせる
C 礒田湖龍斎画「風流小児十二支」安永2年(1773)頃 中判錦絵
【図1】A 礒田湖龍斎画「風流十二支」
礒田湖龍斎画「風流十二支」

【図2】B 石川豊雅画「十二支 丑 如月」 ※菅原道真
石川豊雅画「十二支 丑 如月」

【図3】N 歌川国芳画「武勇見立十二支 子 頼豪」
歌川国吉画「武勇見立十二支 子 頼豪」
<美人画>
D 礒田湖龍斎画「風流十二支」明和7~安永元年(1770~72) 中判錦絵
E 勝川春潮画「浮世十二支」寛政期(1789~1800)
F 「風流娘十二支」文化4年(1807) 中判錦絵
G 二代歌川豊国画「風流東姿十二支」 文政(1818~30)末
H 二代歌川豊国画「十二支全盛松の粧」 文政(1818~30)末
I 三代歌川豊国・万亭應賀「浮世十二支」弘化頃(1844~48) 小判錦絵
J 三代歌川豊国画「意勢古世身 見立十二直」弘化4~嘉永5年(1847~52) 大判錦絵
K 三代歌川豊国「艶姿花の十二支」元治元年(1864) 大判錦絵
<戯画>
L 歌川国芳画 「道化十二支」 天保12年(1841)頃 小判錦絵
M 歌川国芳画 「道外十二支」 安政2年(1855) 小判錦絵
<武者絵>
N 歌川国芳画「武勇見立十二支」 天保12年(1841)頃 大判錦絵 【図3】
O 歌川国芳画「英雄大倭十二士」 安政元年(1854) 大判錦絵
<役者絵・歌舞伎>
P 歌川国芳画 「美盾十二史」 弘化2年(1845)頃 大判錦絵
Q 貞信画(上方絵)「忠孝十二支之内」嘉永2年(1849)頃 中判錦絵
R 広貞画(上方絵)「見立十二支」  嘉永4年(1851)頃 中判錦絵二枚続
S 歌川国芳画 「見立十二支」  嘉永5年(1852) 大判錦絵
T 三代歌川豊国「擬絵当合十二支」嘉永5年(1852) 大判錦絵 ※文久元年(1861)の図も含む
U 国員(上方絵)「拾二支之内」  安政5・6年(1858・59) 中判錦絵
V 二代歌川国貞画「楽屋十二支之内(見立楽屋十二支之内)」万延元年(1860) 大判錦絵
W 芳瀧(上方絵)「見立十二支之内」文久2年(1862) 中判錦絵
X 広貞(上方絵)「十二支ノ内」元治元年(1864) 大判錦絵
Y 歌川国周画 「俳優見立十二支」 明治2年(1869) 大判錦絵
Z 歌川国周画 「奇術十二支之内」 明治10年(1877) 大判錦絵

Ⅲ シリーズごとの比較
例1)子  美人画=子の日の小松引き/武者絵=頼豪/役者絵=仁木弾正のイメージが強い・雪姫も
【図4】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」1

【図5】役者絵S「見立十二支」仁木弾正
役者絵S「見立十二支」仁木弾正

【図6】役者絵P「美盾十二史」雪姫
役者絵P「美盾十二史」雪姫

例2)巳  美人画=弁財天/武者絵=仁田四郎/役者絵=「伊賀越乗掛合羽」(巳年生まれ)・蛇遣い
【図7】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」2

【図8】役者絵S「見立十二支」
役者絵S「見立十二支」

【図9】役者絵T「擬絵当合」蛇遣い
役者絵T「擬絵当合」蛇遣い

例3)未 美人画=執事の御やかた/武者絵=関羽(典拠未詳)/役者絵=髪結い・未の刻・見世物
※紙を好んで食べることから、紙と関連づけて描かれる場合がある     「紙」と「髪」をかける
【図10】美人画K「艶姿花の十二支」
美人画K「艶姿花の十二支」3

【図11】役者絵S「見立十二支」未の刻
役者絵S「見立十二支」未の刻

【図12】役者絵V「楽屋十二支之内」
役者絵V「楽屋十二支之内」

例4)戌 役者絵=南総里見八犬伝
【図13】役者絵V「楽屋十二支之内 犬」八犬伝 犬塚信乃
役者絵V「楽屋十二支内 犬」八犬伝 犬塚信乃

例5)酉 役者絵=鶏娘・酉年の守護神(不動明王)
【図14】役者絵S「見立十二支」酉 不動明王 ※前年上演の芝居
役者絵S「見立十二支」酉 不動明王
・最新の芝居=記憶に新しい芝居の見立で購買意欲をかきたてる
・「神の使い」という動物観もあったことがうかがえる

例6)亥 役者絵=「忠臣蔵」・摩利支天
【図15】役者絵S「見立十二支」摩利支天
役者絵S「見立十二支」摩利支天

◆「見立」の方法◆
・動物そのものが舞台に登場するもの(人間がその姿に変わる・・鶏娘)
・干支に関する行事・・初卯詣で など
・神仏に関する連想・・・酉年の守護神である不動明王・摩利支天 など
・刻限・・未の刻=阿古屋
・名前が重なる・・辰=お辰
・その年の生まれ・・巳=巳年生まれの血が眼病に効く



3月講「春の隅田川桜見物クルーズ」

日時:3月25日(土) 午後2時~4時半 雨天決行
コース:品川天王洲ヤマツピア桟橋から隅田川スカイツリーコース往復(約2時間)
集合場所:京浜急行新馬場駅北口改札前
集合時間:午後1時半
参加費:一人6,000円(含む乗船券&スナック)
定員:55名(江戸連会員およびその家族優先)
その他:酒・つまみ持込み可、ただし食中毒は自己責任(江戸連でビールは少々用意)
参考:船会社(株)ジール クルーズ事業部(電話:03-3453-0423)、乗船名 ジークフリート
案内:新実正義

報告


東京湾隅田川スカイツリーコース(新実さん説明資料より)


乗船風景


新実さんの案内と資料の説明


展望デッキ


料理



報告

 江戸連会員で理事、「江戸がたり」の創始者であります寿々方さんの先祖を尋ねる軌跡の講演でした。父方の四代前の先祖が北海道の網元であったという寿々方さんは、大学の授業で聴いた「もしほ草。これは江戸時代に上原熊次郎有次という人が書いた、世界で初めてのアイヌ語の辞書です」との教授の言葉が、ずーっと頭の片隅に残っていました。やがて、父上も主だった親戚の方も亡くなってしまいましたが、先祖を調べ始めると、寿々方さんの五代前の父方の吉田家の始祖、吉田和右エ門が上原熊次郎の次男の鉄次郎で、吉田家に養子に入った人であることが判明、そこで本格的に上原熊次郎について調べ始めると、大変優れた人であることが明らかになってきました。熊次郎はアイヌ語の通辞であり、後にロシア語の通辞としても江戸時代後期に活躍した人物でした。冒頭に述べたように、「もしほ草」というアイヌ語の辞書を著し、アイヌ語研究の第一人者の金田一京助先生をして「ただ単語を最も多く最も精密に記録した語彙であるばかりでなしに、これによってアイヌ語の構造をも観ることを得べく、またその古文書・古記録にもあたる貴重なものである」「この人を仰いでアイヌ語の鼻祖とすること云々」「通辞の中でも出色の通辞だった」と手放しの称賛ぶりです。熊次郎は、当時北海道へ進出しようと接触してきたロシアとも関わりを持ち、中でも北海道に長期にわたり抑留されることになったゴロブニン事件に関して、常に温情を持って捕虜たちに接し、言葉の壁を乗り越えて、事件を解決に導いたようです。金田一先生は、この件に関しても熊次郎を高く評価し、「北門の功労者」と称えています。後半生は、その能力と功績を認められて江戸詰めとなり、天文方高橋作左衛門景保の手附として勤務したとのこと。最後に、後の資料から、熊次郎の死後、吉田和右エ門である鉄次郎が養家を離れ上原の名跡を継いだとあり、寿々方さんの父方の始祖の吉田和右エ門はその後、養子に入った人だと考えられるということでした。いずれにしても、寿々方さんのこの先祖を尋ねる講演で、江戸時代に活躍し、世にあまり知られていない素晴らしい人の事蹟を学ぶことができました。詳しくは、寿々方さんの著書『北門の功労者 アイヌ語通訳・上原熊次郎』をお読みください。

北門の功労者

2月講



1月講「雑司が谷七福神めぐり」

 1月講は「雑司が谷七福神めぐり」です。雑司が谷周辺は日本ユネスコ協会連盟の「未来遺産」に指定され、「変わりゆく時代の中で、変わらないものの大切さを思いださせてくれるまち」として、様々な取り組みがなされているところです。七福神めぐりとしては歴史の浅いところですが、江戸時代の人気スポットである鬼子母神や雑司ヶ谷霊園(夏目漱石・中浜万次郎ほか)・旧宣教師館など見どころ満載のコースです。ガイド役は松本・圓山です。たくさんの連衆の参加をお待ちしています。

開催日:1月7日(土)
集合場所:地下鉄有楽町線「護国寺駅」1・2番出口方面改札口(池袋寄り・護国寺寄り)
集合時間:午後1時半
参加費:500円
コース:護国寺~清土鬼子母神(吉祥天。芭蕉句碑)~三角寛旧宅~雑司が谷旧宣教師館~雑司ヶ谷霊園(中浜
    万次郎・夏目漱石他。御鷹部屋の松)~清立院(毘沙門天。 雨乞いの松)~大鳥神社(恵比寿神)~
    本納寺(蜀山人の筆になる月花塚)~並木ハウス(手塚治虫)~雑司が谷鬼子母神~大黒堂(大黒天)
    ~観静院(弁財天)~法明寺~威光稲荷~中野ビル(布袋尊)~仙光寺(華福禄寿) 全行程4キロ弱
新年会:午後5時~7時「鳥貴族池袋東口店」 03-6914-1991(参加費 一人3,000円(呑み放題付き))

報告

 1月7日(土)13:30に有楽町線護国寺駅1・2番改札集合で新年恒例の江戸連七福神巡りの開始です。集まったメンバーは58名、2班に分かれそれぞれ圓山さん、松本さんのガイドで出発。
 天気に恵まれ、まずは護国寺へお参りし、側にある富士講の富士山に上り、いよいよ七福神巡りが始まりました。最初は清土鬼子母神にある吉祥天にお参り。この地で鬼子母神像が発見されたということや、鬼子母神が吉祥天の母親であるという案内に驚き、お参りして次へ向かいました。後は1月講の案内に紹介された道筋をたどって夕刻16:30過ぎに池袋駅前に着き、解散。

雑司が谷 がやがやお散歩マップ
未来遺産 雑司が谷 がやがやお散歩マップ

清土鬼子母神(吉祥天)   雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)
清土鬼子母神(吉祥天)    雑司ヶ谷霊園(夏目漱石の墓)

鬼子母神堂(大黒天)
鬼子母神堂(大黒天)

 懇親会参加者38名は懇親会場の「鳥貴族」に向かいましたが、まだ開店前で17:00まで店内で待機。その後いつものように談論風発、19:00解散となりました。



12月講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」

開催日:12月18日(日)
会 場:堀切菖蒲園静観亭
内 容:第一部 師走講「投扇興と江戸の芸を楽しむ」
    午後1時半~3時 投扇興
    午後3時~4時半 藤間信子さんの日本舞踊と長唄・端唄・小唄あれこれ、花伝亭長太楼さんの落語
    第二部 「忘年会」
    午後5時半~午後7時半
参加費:師走講のみは2千円。師走講および忘年会は5千円

報告

投扇興 自由参加。はじめに仲下さんからルールの説明があり、総勢25名の参加者が順次7回投扇して点数を競い、上位8名、圓山、仲下、村岡、坂本、三宮夫人、白石夫人、張さん、白石を選抜、準々決勝を行いました。次の準決勝は、三宮夫人対白石夫人と坂本さん対仲下さんの対戦。白石夫人と仲下さんが決勝に勝ち残り、二人の対決は白石夫人の優勝となりました。仲下さんより提供された「プーチンカレンダー」が賞品として、優勝した白石夫人、最高得点34点の三宮夫人、次点の坂本さんへ授与されました。

12月講
藤間流日本舞踊
最初に藤間信千鶴師匠「白扇(小唄)」、続いて藤間信子師匠「桃太郎(端唄)」、藤間信ゆう師匠「木遣ずくし(端唄)」、再び藤間信子師匠「都鳥(長唄)」とお三方の伝統的な、そして優雅な日本の踊りを堪能しました。二人の外国人留学生も大変興味深く鑑賞しており、日本の伝統的な芸が日常的に鑑賞できるのは素晴らしいとの感想を述べていました。
藤間信千鶴師匠 藤間信子師匠 藤間信ゆう師匠

落語「占い八百屋」 花伝亭長太楼さん
あらすじ:女中に邪険にされた出入りの八百屋が腹いせに主人の大事な徳利を水甕の中へ隠してしまう。後で、そろばん占いで水甕から徳利を見つけ出すと主人は大喜び、紛失物占いの先生となり、占い依頼が殺到。進退窮まった八百屋の運命や如何に! 追いつめられる八百屋の様子や、思わぬ幸運に恵まれ喜んだのも束の間、また新たな窮地に陥る八百屋の慌てふためく様子を、長太楼さんが、持ち前のソフトながら淀みのない独特の口調で語り、皆を笑いの渦に巻き込みました。
花伝亭長太楼さん

忘年会
「藤間流日本舞踊」の藤間信子師匠、藤間信千鶴師匠、藤間信ゆう師匠をはじめ「品川郷土の会」の坂本会長、「NPO法人 たのしいひととき出前どころ」の室尾理事長さんなど、会員外の方の参加も含めて総勢46名で和やか、かつ賑やかに行われました。



11月講「秋深まる奥多摩渓谷と青梅宿に江戸を見る会」

開催日:11月26日(土)
集合:JR青梅線東青梅駅改札口 10:30
会費:2,000円(各施設見学、旅行保険、雑費)
*集合場所までの往復交通費・昼食代は、各自負担となります。

行程:旧府立農林学校講堂、青梅織物工業協同組合建物、津雲邸、宿場町歩き、旧稲葉家住宅(名主店蔵)、(A班:小澤酒造、B班:寒山寺)、小澤酒造店テラスガーデンにて昼食、櫛かんざし美術館、奥多摩渓谷散策、玉堂美術館等
   御嶽駅午後4時半頃自由解散。新宿に午後6時頃着予定
   *懇親会は立川駅付近を予定
案内:新実正義 氏

報告

 多摩川文化シリーズとして、昨年の霜月講・八王子宿に続く第2回として青梅宿を訪問しました。
 八王子に比べ、圧倒的に歴史文化を持つ青梅宿ですが、一見すると青梅には見る歴史文化が少ないことが感じられます。それは地域の文化発信力の差だと気づきました。八王子は隣の日野と共に戦前、戦後の新産業の誘致と、大学の開校、都心の大学の新学部開設に伴う、新人口の増大と、それらの人々の八王子文化を掘り出す研究・出版という発信力の差であると思います。駅周辺の書店には2連の書棚に八王子関係の一般書、自費出版書が多数販売され、インターネットへの掲載もあふれています。このことは私自身品川宿でまちづくりに参加している身にとって学ばなければならないことでした。地域の歴史を発信する市立歴史館の施設活動はむしろ青梅宿の方が増さっていると言えます。しかし青梅市立歴史博物館の研究・企画展示の伝え方には不満があります。それは市の方針であるかと思いますが、資料・展示図録の発行部数が非常に少ないことから購入しづらいのです。この度の会員への配布資料作成での一番苦労したのはこの点でした。
 多摩川本流、青梅・奥多摩は人類が表れる以前の200万年から20万年前から多摩川の排出する土砂で広大な武蔵野台地を作ってきた歴史があります。当日配布しました資料にこの武蔵野台地が作られた地層の姿が見られます。この地域の歴史はすべてここに端を発するものであることを実感することが、今回の青梅・御嶽訪問の狙いでした。

 この度の霜月講は11月26日午前からという、寒いハードなスケジュールにも関わらず、30名を越える会員が参加して下さいました。そしてまた2日前に雪が降るという天候不順の中、晴天となり、江戸連天気というジンクスに恵まれました。紅葉、桜見物などの植物の鑑賞時期に合わせた企画を数カ月前にする者の難しさはここにありますが、何とか間に合うとほっとします。
 東青梅というと、皆さんはじめて降りられた駅かと思います。この駅は最初に訪問した旧府立農林学校が明治42年開校したことで開設された駅です。明治維新の政府による多摩地方の教育環境の整備の一環として、府立2中(現立川高校)に続いて開校された学校。是非にと見学コースに入れました。現在残る建物は講堂だけですが、道路から外観を覗き見る程度で早急に一般見学できるように整備され、見学できるようにしてもらうことを願います。この学校は明治から昭和に至る、多摩地域のみならず全国に養蚕技術、林業技術の人材を供給してきました。
 この校舎の先に青梅織物工業協同組合の建物が残っています。青梅の織物産業は江戸時代初期から発展し、1700年以降江戸の越後屋、白木屋が江戸での織物商いが盛んになるに従い、絹織物の商品を全国的に、かつ高品質の製品を集める必要から、仕入れの仕組みを改革し、「宿買(やどかい)」制度を確立し、多摩地区には八王子、青梅にその仕入れ店を開設したことからわかるとおり、絹織物産業の関東の中心地となっていました。青梅縞として名の知れた織物は江戸から関西まで、広く庶民の絹織物として知られていました。その伝統を伝えるのがこの織物組合の施設です。ここも、昭和30年代の絹織物産業の衰退と共に、残念なことに歴史を伝える遺産が少なくなっています。
 さらに青梅と言えば古代からの材木の産出地。武蔵国府・国分寺の杣保(そまのほ:材木を取り扱う人達の村=荘園)と言われた話。江戸時代の筏流しの話。江戸幕府の石灰の供給地・成木石灰の話、幕末から昭和バブル時代までの多摩川砂利産業の話などなど。街歩き資料には掲載しましたが、報告はまたの機会に。

 青梅一帯、多摩地方は明治維新、自由民権運動の開祖ともいうべき所ですが、青梅にはその歴史を伝えるものは市立歴史博物館の近くに、当時度々訪れ、運動に影響を与えたという板垣退助の銅像が残るのみで、そのほかには見当たりません。しかし、民権運動の地下水の存在を知らせる建物がありました。地元の元衆議院議員・津雲国利邸です。明治維新の民権運動の流れは複雑な底流となり、多摩の人権運動に今もって流れていますが、その中で、国粋的主義的運動に入って行った人たちがいました。氏はその一人で、民選議員選挙の第一回当選者となり、院外団の中で知られた壮士風の強面で知られた人物で、東条内閣や軍部の支持を訴え、翼賛議員同盟の理事を歴任し、戦後公職追放となった人物です。
 ここは数年前、解体してマンションの建設が計画された折、青梅の人達の運動で残され、3、4年ほど前から年2回津雲氏の貴重な遺品が企画展示されてきました。建物は昭和の始めに京都から宮大工を呼んで建築したとういうことで、見事な細工物、建具など目を見張るものばかりですが、当日は「江戸の文化を読み解く」という企画展が行われていました。見事な展示物で、連衆はその解説に夢中で、建物の鑑賞まで気が回らなかったのではと、時間の余裕がなかったことが残念でした。

 そこまで大分時間が経ってしまい、青梅宿の後半、旧稲葉邸(名主邸)、金剛寺の青梅の地名のゆかりという、黄色い実にならない「青い実の梅の木」の見学ができなくなり、案内人としては申し訳ない思いです。

 午後はいよいよ、御嶽渓谷。電車で沢井駅に降車。沢井の酒蔵「小澤酒造」の見学は昨年の八王子見学の際、会員から期待の声があった所です。
 小澤酒造は元禄15年(1702年)現地にあったと言う古文書から、創業をその年としています。しかし云い伝えでは、小澤家は武田勝頼の家来で、勝頼と共に織田軍に追われ、塩山方面に逃れ、勝頼自刃の折、家臣たちが軍資金を分け合い、いざという時に立ちあがることを誓い、塩山から当時裏甲州街道であった沢井にて帰農し、林業で身を建て、後に酒造家として創業したそうです。
 そして現在、酒造業と合わせ、沢井に櫛かんざし美術館を開設、寒山寺の創建、御嶽では玉堂美術館の運営。そのほか和食亭など、御嶽の観光に貢献している地域の功労者です。
 小澤酒造の蔵見学は22人という多勢になりましたが、蔵の解説も丁重で、詳細にされ、さすが観光に力を入れている蔵だなとの思いがしました、今回は特に蔵の説明の後、会場を借り、江戸連の発酵学の権威、宮川氏の江戸時代の酒造りの講義が加わり、酒文化の奥深い理解になったと思われます。

 その後、櫛かんざし美術館の見学。奥多摩になぜ江戸文化の粋がと思いましたが。小澤家の先代・小澤恒夫氏が収集家として著名であった岡崎智予さんのコレクションを購入、その後趣味で櫛かんざしのコレクションを重ね、思い立って公開しようと、美術館の開設を行ったとか。しかしその美しさ、精巧さ。そして江戸時代の女性の髪結いの解説など、圧倒される美術品で感動しました。
 今年、江戸連の講で明治維新の芝山美術のお話を聞き、作品を拝見しましたが、ここにも芝山模様の櫛がありました。その精緻な模様と高貴さに圧倒される思いでした。素晴らしかった。

 さてこれからは御嶽渓谷の散策。2日前に雪が降ったという御嶽の渓谷道には多勢の観光客が行来して賑わっていました。秋のトップシーズンでさしもの昨近の熊出現の話題も、心配なさそうで一安心と言いたいのですが、後の方を歩いていた連衆から猪を見たとか、まあ、何事もなかったから安心しましたが。紅葉は盛りを過ぎていましたが、まあいいかと。秋の緩やかな夕日に美しく映える姿、皆さん満足してくれましたか? 翌日は雨だったんです。

11月講1

 さて最後の玉堂美術館。ここは昭和19年に川合玉堂が戦時疎開で訪れた所。
戦後もここに残り作品の制作に励んだ所ですが、没後この地に関係者による寄付金で美術館が建設されました。玉堂が手ほどきをなさった香順皇后のご縁で 皇后からの寄付もあり、今も皇室とのご縁もあるとか。またかって、玉堂の娘さんが小澤酒造に嫁入り。今そのお孫さんが館長をやっておられるとか。
 川合玉堂の作品は初期のころから渓流など、現代の山水画ともいうべき作品が多いいことがわかりますが、御嶽はまさにその後の玉堂の作品を生む宝庫だったことがうかがえます。建物も石庭も御嶽の空気に沈みこんだような静けさを湛えたもので、久しぶりに近代建築に日本建築の技法を取り入れた吉田 五十八(よしだ いそはち)の建築を堪能しました。

11月講2

11月講3 11月講4

 秋の日暮は早いので、皆さん予定より早々に御嶽駅に。最後の仕上げはなんといっても懇親会。立川の焼鳥屋に一目散と行きたいところでしたが、日暮れに誘われ、帰りを急ぐ人、時間通りにじっくり鑑賞する人の行動がばらばらになって、会場に到着するまで一混乱。しかし、いつものことながら、先ずは一杯。美味いビールでした。
 話が長くなりましたが、今回の見学が盛混み過ぎだったことが原因です。反省!



10月講「信州佐久の酒蔵から日本近代史を見る」

日時:10月22日(土)15:00~17:00
場所:日本橋・伊場仙ビル7階会議室
講師:不重來館館長 井出 亜夫 氏
講演:信州佐久の酒蔵から日本近代史を見る
   元禄時代から続く信州佐久の酒蔵「橘蔵酒蔵」には、江戸から
   明治にかけての著名人の書や文書が多く残されています。それら
   を読み解きながら、日本近代史について語ります。
会費:1,000円

報告

参加者:36名
講師:不重來館館長 井出 亜夫 氏

信州佐久の酒蔵「橘倉酒造」は、元禄時代(1696年)に創業され、以来現在まで300年有余、地域経済の中で事業が継続されている老舗。「不重来館」には、その酒蔵を訪れた文人やゆかりの人、あるいはその時代に大きな影響を及ぼした政治家、思想家たちの書が収集・展示されている。
今回の講師・井出氏は、ここ数年、こうした書を「ただ収集・保存しているだけではもったいない」との考え方の下、その整理・解読を精力的に進め、公開に尽力してきている方。
講演は、こうして収集・整理された書を、第一部「江戸期の漢学者、経世家、書家」と第二部「明治以降の政治家、思想家、作家」に分けて進められた。
第一部では、日本で初めて「経済」という言葉を書名とする文献を著した太宰春台、江戸前中期の儒学者・荻生徂徠、寛政の改革を進めた松平定信など14名の、第二部では、明治の代表的民権思想家・中江兆民、中国建国の父・孫文、幕末から明治にかけての活動がよく知られている佐久間象山、三条実美、勝海舟、大久保利通、木戸孝允、さらには近代日本の基礎作りに活躍した伊藤博文、福沢諭吉、田中正造、渋沢栄一など44名の書と書を通じての思想が紹介された。その内容は「歴史とは過去と現在との対話であり、また、未来への展望である」との井出氏の考えを端的に示すものであった。
そして、それは講師の井出氏の真摯な語り口、未来へのまなざしとも相まって、「不重来館」の名前の由来である陶淵明の「盛年不重来 一日難再晨(現在を精一杯生きることが大事、同時に、歴史を振り返り検証し正しく将来を展望することも重要との意味をも含意)」の指摘とも相通ずるものであり、また、「江戸の生活文化を今に生かし未来につなごう」という江戸連の原点にもつながるものであった。

10月講110月講2

 なお、「不重来館」は毎月第三土曜日・日曜日に、そして人数がまとまれば随時開館している。「不重来館」に立ち寄り、おいしい酒を味わいながら日本の近代を振り返るのも一興であろう。

 定期開館;第三土曜日13:00~18:00
      第三日曜日10:00~18:00
 臨時開館;10人以上の希望者があった時



9月講「貝原益軒と養生訓」

日時:9月17日(土)15:00~17:00
場所:日本橋・伊場仙ビル7階会議室
講師:武蔵野学院大学・大学院教授 謝 心範 氏
講演:貝原益軒と養生訓
会費:1,000円

報告

1.「養生」の定義
 日本では、平安時代前期に医科・物部広泉の養生に関する記述がある。
 養生という言語の使用は、同じく平安時代紀元900年代に深根輔仁の「養生抄」に記載例がある。
 小学館「日本国語大辞典」には、人体生命を養うこと、病気・病後の手当をすること、土木・建築工事においてコンクリートや建材を保護することである、と記述されている。
 岩波書店「広辞苑」では、さらに植物の生育の助成、保護を加えている。
ここは「養生」が、「生命力を養うこと」であると定義する。

2.「養生」日本伝来の経緯と概要
 養生書籍は日本伝来から江戸時代まで217部、そのうち江戸時代だけで再版もふくめて199部ある。中でも代表作として重要なのは、医書「医心方」・茶道書「喫茶養生記」・博学書「養生訓」である。いずれも「養生」という言葉を使っている。

「医心方」
 編纂者は、丹波康頼。中国後漢の霊帝の5代目の後裔阿智王が5世紀頃・応神天皇の時代に渡来、子孫が丹波地方に住み着いたもの。医学に精通、京で従5位の上を賜る。宋代まで1000年ぐらいかけて蓄積された医薬・養生文化・哲学・歴史などを紹介した。漢文で書かれており、天皇および貴族を対象とした。

「喫茶養生記」
 著者は、僧・栄西。宋に留学中、茶を喫しその効用を研究し、茶種を持ち帰り栽培し、その普及と奨励に努めた。日本の茶祖。漢文で書かれており、将軍及び武家、僧侶を対象とした。

「養生訓」
 著者は貝原益軒。中国の文献の影響を受けているが、そのまま転用するのではなく、当時の日本の文化に合わせ、自分なりの解釈、心得、体験を加えることにより一般大衆を対象とし、和文でわかりやすく説明した。

3.貝原益軒の生涯と著作
 1630年、筑前黒田家の下級武士の家に生まれる。体質は生まれつき虚弱であった。38歳で結婚、夫人もまた虚弱であり、その治療のため漢方薬を使用していたことがわかっている。養生の実践においても「今83歳にいたりて、なほ夜、細字を書き読み、牙歯固くして一も落ちず」と書いている。
 生涯、98部247巻の膨大な著作を残している。大和本草、花譜、菜譜、和俗童子訓、筑前続風土記など。「養生訓」は、死去する前年の1713年に出版された。その後、12回再版され江戸時代のベストセラーである。

4.「養生訓」の概要と特徴
 養生訓に取り上げられた項目の92%は、中国の原典を特定できた。
内容を分析すると、五つの要素に分類、集約される。表現の多いものから順に「思」「行」「食」「住」「衣」である。

  「思」:思考力、文化、教養、価値観、哲学、新興、芸術、五感、
  七つの情緒、人間の主観。客観とその相互の影響する要素
  「行」:行動、行為(呼吸、睡眠、仕事、休息、気功、運動、旅行、
  散歩、喧嘩、恋愛、性交、演奏、研究、学習、運転など)
  「食」:飲料、食品、嗜好品、薬品など、体内に取り入れるすべて
  の物質およびその摂取方法
  「住」:①空間的な生活、生存に関わる環境。人工物や自然、
  ②時間、季節、昼夜など
  「衣」:身に着けるもの。色、材質、形状、用途、機能を含む

5.「養生訓」の現代啓示
 ・「平成24年度人口動態統計の概況」によると、日本人の死因別
  死亡割合のうち、生活習慣病が55.95%を占めている。
 ・「平成23年度国民医療費の概況」によると、国民総医療費は38兆
  5850億円であり前年から3.1%上昇している。
 ・生活習慣病―高血圧、心筋梗塞、脳梗塞、糖尿病、がんの予防の
  可能性
 ・医薬品は何らかの副作用を伴う。特に腎臓、肝臓に影響する。
  したがって良く注意書きを読む必要がある。
 ・肝臓機能を正常化する「抑肝散」は、子供の夜泣きや疳の虫などを
  抑えるために使われてきた漢方薬であるが、近年、アルツハイマ
  の症状を抑制する効果があることがわかった。
 ・新しい漢方養生製品は、発明特許を出願中である。
  (文責 白石 徹)                以上

講師プロフィール
 1953年 中国上海生まれ
 1987年 来日
 1991年 (株)協通事業設立
 1997年 家族全員で日本国籍取得
 1999年 漢方養生研究所設立
 2015年 武蔵野学院大学博士号取得
 2016年 武蔵野大学院大学・大学院教授就任

著書
「驚異の田七杜仲パワー健康法」(廣済堂出版)、「真・養生学」(広葉書林)、「日本で買える本場中国の漢方薬ガイド」(講談社)、「C型肝炎イコール肝臓ガンの時代は終わった」(海竜社)、「肝臓を元気に!」(漢方養生研究所)

9月講



8月講「納涼歌舞伎」

8月講は、恒例の「歌舞伎鑑賞」です。

日時:8月27日(土)14時開場・14時40分開演
演目:一、「東海道中膝栗毛~奇想天外!お伊勢参りなのにラスベガス?~」
     弥次郎兵衛(染五郎)・喜多八(猿之助)が宙乗り相勤め申し候
   二、「艶紅曙接拙(いろもみじつぎふのふつつか)~紅かん~」
     紅飯(橋之助)・朝顔売阿曽吉(勘九郎)・団扇売お静(七之助)
     ・庄屋銀兵衛(弥十郎)・虫売りおすず(扇雀)
会費:5千円(3階A席)

報告

 講師は、そば猪口に魅せられて40年、収蔵品は1,000点を超える。 蒐集されたそば猪口のほとんどは地震対策の関係から家に飾らず、別の場所に紙に包んで大切に保管し、紋様の世界に浸りたくなった時にはその場所に出向いて至福の時間を過ごされるそうだ。

 講では、先ず江戸の人々の心を知る言葉遊びとして「江戸しりとり唄」を読み解き、次いでそば猪口の紋様を通して浮かび上がる、江戸庶民の文化の高さ、心の豊かさ、おおらかさ、遊び心、暮らしぶり、人の繋がりに敷衍した。 のぞき猪口や会員所蔵の古伊万里の逸品も拝見できて、興味深い内容になった。

7月講

そば猪口は、作られた時は会席膳のための向付であり「和え物」や「珍味」などを盛り付けたもので、筒型平底の器は「猪口(ちょく)」と呼ばれ、「そば猪口」という名称は明治になってからであるという。

参考として、そば猪口の美術館を紹介します。
 ①インターネットで岸間健貪氏の「そば猪口美術館」を検索すると素晴らしいコレクションの数々と面会できる。そば猪口の持つ意味や紋様に仕掛けられた謎解き解説が盛り沢山である。

http://sobachoko.jp/index.html

 ②古伊万里や時代箪笥を常設展示している「知永古美術館」では、岸間健貪氏の「そば猪口コレクション」の企画展が9月末まで開催されている。18世紀の前半から後半にかけて作られた60点が展示されている。

  「知永古美術館」
    神奈川県藤沢市辻堂東海岸1-7-38
    TEL:0466-33-0654

以下、講の内容について当日の資料から抜粋して記しました。

1.江戸の言葉遊び
  「江戸しりとり唄」
   牡丹に唐獅子竹に虎    虎を踏まへて和藤内

 「牡丹に唐草」、「竹に虎」はともに目出度い組み合わせ文様です。始まりは目出度い言葉からです。「虎を踏まえて」はトラトーラトーラトラで知られるお座敷遊びのじゃんけんです。これは近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」(正徳五年・1715)大坂竹本座初演後に歌舞伎化、からきています。「和藤内」というのは主人公の鄭成功のことで、明朝の復興運動を行った彼が中国人と日本人のハーフであったため、「和でも唐でも無い」から洒落た呼び方です。その和藤内の鉄砲(加藤清正の槍もあります)と虎とお婆さんのじゃんけん遊びです)。

<唄は続きますが読み解きは省略>
 内藤様は下がり藤     富士見西行後ろ向き
 むきみ蛤ばかはしら    柱は二階と縁の下
 下谷上野の山かずら    桂文治は噺家で
 でんでん太鼓に笙の笛   閻魔は盆とお正月
 勝頼さんは武田菱     菱餅三月雛祭り
 祭り萬燈山車屋台     鯛に鰹に鮹まぐろ
 ろんどん異国の大港    登山するのはお富士山
 三遍まわって煙草にしょ  正直正大夫伊勢のこと
 琴に三味線笛太鼓     太閤様は関白じゃ
 白蛇の出るのは柳嶋    縞の財布に五十両
 五郎十郎曽我兄弟     鏡台針箱煙草盆
 坊やはいい子だねんねしな  品川女郎衆は十匁
 十匁の鉄砲二つ玉     玉屋は花火の大元祖
  (以下省略)

2.「江戸の言葉遊び」に関連するそば猪口

そば猪口01 そば猪口02 そば猪口03
そば猪口04 そば猪口05 そば猪口06
そば猪口07 そば猪口08 そば猪口09
そば猪口10 そば猪口11 そば猪口12

3.江戸時代の人々の感性に浸ってみる

 「ふ」の字のつくものは「福」に通じるということで、そうしたものを並べてお祝いしたのです。この単純明快な江戸の人々の感性を受け取めたいのです(舟・藤・富士・袋・二見が浦・二股大根・ふくら雀・吹寄せ・筆・福寿草など)。
 すると「ふ」の字のつく絵にも特別な思いが込められていることが分かってきます。もちろんそば猪口にも多く登場します。
 古伊万里によく登場する底裏銘「二重角渦福」も「升升福が回る」を洒落たものだったのです。
江戸時代の人々は言葉遊びを楽しみました。それは生活の中で使うものに多く残っています。そば猪口などは紋様を楽しむ食器であったのでそれが際立っているとも言えます。

そば猪口13
大根の上に鼠が乗っています。当時大根はこの「音」=「ダイコ」から「ダイコク」=「大黒」として扱われます。あの台所の守り神、恵比須・大黒の「だいこくさま」です。このそば猪口の大根をよく見ると二股大根です。「守貞漫稿」(喜田川守貞著)には「甲子日には大黒天を祭る。三都とも二股大根を供す。また江戸にては七種菓子とて七種七銭の菓子を供す」とあります。
大黒天は仏教の守護神です。日本の神道の大国主命と習合して信仰されました。もちろん「だいこく」繫がりです。だから名称は「大黒」でスタイルは「大国」(大きな袋を背負った)です。大黒さまに大根を供えるというのは、やはり「言葉繫がり」でしょう。大黒天を「大根喰天」などと洒落たりもしました。鼠は神話の中で大国様を助けたとされていて、一緒にでてくるのは当たり前。ましてお祭りするのが甲子の日というのですから。

そば猪口14
氷裂文に粟という不思議な組み合わせです。氷裂文は氷が割れる様を文様化したものという説と、中国磁器の貫入(ひび割れ)を文様化したというふたつの考え方があります。江戸時代を通じて描かれ続けた人気の地文様です。「われる」と「あわ」の組み合わせとなればすぐに浮かぶのが、百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわんとぞ思う」(崇徳院)です。
 この様なものを「隠し絵」などといって楽しんだのです。

そば猪口15
枝垂桜に飛び跳ねる馬。馬に勢いがあっていいね、現代人ならここで終わってしまうでしょう。これは元禄のころから歌われた続け、端唄・都々逸として有名な「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」を描いたものです。この歌は江戸初期からあるそうです。そんな粋な世界だったのかと、あらためてこのそば猪口を見直してしまいます。

 そば猪口の楽しみのひとつは、その文様をとおして「江戸の人々と心をつなぐ」というところにあると思います。江戸人の繊細かつおおらかな美意識に触れて、豊かな心を持つことができたら。

そば猪口16
まあ私の思い込みばかりを並べてしまいました。「あしからず」というところです。



6月講「えどの工芸・芝山細工の盛衰について」

日時:6月18日(土)15:00~17:00
場所:水道橋・ハロー会議室水道橋
東京都千代田区御崎町2-22-18 TK-WESTビル1号館6階
JR水道橋駅西口から徒歩1分
講師:松本 香 氏
会費:1,000円

<講師プロフィール>
松本 香(Kaori Matsumoto)   芝山象嵌(ぞうがん)
松本香氏    芝山象嵌

千葉県佐倉市出身
1998年 雑誌の公募(※)により、宮崎輝生氏の自宅工房にて芝山象嵌、漆芸を師事(※通販生活 ’98年冬の特大号:第5回跡継ぎ募集 あとはオメェにまかせたぜ)
2007年 独立

メッセージ
芝山を作ることが生きる喜びです。
芝山は貝やべっ甲、象牙などをレリーフ状に彫刻し、漆面などに象嵌する華やかな装飾技法です。芝山細工、芝山象嵌とも呼ばれます。
安永年間に下総国芝山(現在の千葉県山武郡芝山町)の芝山専蔵により考案され、江戸と横浜で作られ、輸出工芸として栄えました。
かつて関東にこのような細工があったのだと、お知り頂ければ幸いです。

報告

水無月講・芝山師 松本香さん
 芝山とは、安永年間(1772~1781年)に、下総(千葉県山武郡芝山町)出身の大野木専蔵が考案した装飾技法です。江戸に出て芝山専蔵と改め、技術を広めて、弟子にも芝山の姓を与えました。
 明治に入り、万国博覧会に出品。ことに明治6(1873)年のウィーン万博には、多くの品を出品して各国の称賛を浴び、それから輸出向けに横浜でも多くの作品が製作されました。
 江戸で作る芝山は、繊細で優美、上品で江戸好みの根付や簪(かんざし)といった小物にその技の極みを尽くした品が多く、初代から受け継ぐ芝山でした。
 これに対して横浜製の芝山は、家具などの大きな物で作風も派手、いかにも海外受けするような物でした。あまりに増産されたため、質が落ちて芝山全体の衰退につながったとも言われているそうです。
 芝山は明治期に隆盛を極めましたが、四代芝山専蔵は大正期に入って廃業してしまいました。
 その後、関東大震災、第二次世界大戦で東京も横浜も大打撃を受け、現在では数名の職人を残すのみとか。
 松本香さんはプロの弟子として技術を学び、江戸の技術の一番良かったころの芝山を心に、妥協を許さない仕事師です。
 芝山は、作品を仕上げるのに多くの工程があり、気が遠くなるような根気を得て、品格の備わった作品ができあがるという。
 漆や象牙、べっ甲、貝を下絵に沿って糸のこぎりで切り、すり合わせ、彫刻、染色、象嵌(ぞうがん)などの技法を駆使して、作品を作り上げます。

芝山細工1

芝山細工2

 こうした工程は、職人さんだからこそ話せる納得のいくものでした。また海外にしかない作品の数々も見せていただきました。
 今回、彼女の気さくな人柄だからでしょうか、話の最中に活発な質疑応答が飛び交うという、いつにない展開で大変楽しい講となりました。
 (江戸がたり 寿々方)

芝山細工講演1 芝山細工講演2



5月講「日帰りバス旅行 行田・埼玉古墳群と忍城、その城下町(足袋蔵)巡り」

5月講は日帰りバス旅行「行田・埼玉古墳群と忍城、その城下町(足袋蔵)巡り」です。

行田は、映画「のぼうの城」で知られた町。秀吉の北条攻めの折、石田三成の攻撃に耐え抜いた忍城(行田市郷土博物館)を見学します。又、当日、忍城下の足袋蔵が数多く公開されます。ガイドさんに足袋蔵巡りを案内してもらいます。
さらに、埼玉県の名称の由来となった関東最大の古墳のある「埼玉(さきたま)古墳群」が世界遺産登録準備中です。この現場を見学します。そして「加須の古民家」では郷土史家による北武蔵の武士文化の講演を拝聴します。盛り沢山の内容ですが、多数の皆様のご参加をお待ちしています。

日 時: 5月21日(土)
集 合: 午前9時 JR駒込駅改札北口前
バ ス: 東武観光バス大型(定員53名)
参加費: 5,000円(交通費、施設入館料、昼食代その他。飲み物は
各自持参)
振込先 ゆうちょ銀行「とくほ江戸連」
募集人員:53名、希望者多数となることが予想されますので会員及び
その家族限定とし、申し込み順で満席となり次第締め切ります。
コース: JR駒込駅-さきたま古墳公園(稲荷山古墳等)-さきたま
史跡の博物館-昼食(割烹魚豊)-足袋とくらしの博物館
-足袋蔵めぐり(ガイド)-行田市郷土博物館(忍城)
-加須古民家(休憩・講演)-帰着・解散
JR池袋駅18時予定
案内人: 新実由無

報告

 5月21日、これ以上無いと言うほどの皐月晴れ。51人という多勢での町歩きツアーは3年ぶり。江戸時代を江戸周辺から見てみようという思いから始めたバスツアーは、第1回の平成21年長月講「もうひとつの日光-日光東照宮の謎」で東照宮の謎を徹底して勉強してみようという旅から始まりました。

 今回は7回目。その内5回は利根川流域を訪ねる旅でした。これまで、銚子・外川湊の他、北関東の鬼怒川、渡良瀬川流域に江戸文化を訪ねてきました。それは、江戸地廻り経済と文化を訪ねる旅ということになります。

 そして今回は利根川本流右縁、武蔵国。いよいよ徳川家康が江戸へ入府以降の核心部分になるわけです。豊臣秀吉の小田原北条征伐によって徳川家康が関東に配流された、関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍として江戸に幕府を開いた思いは関東平野の可能性を確信していたからに違いないと思われる。一方、今一つの理由は京都・大阪の宗教・朝廷政治から距離を置きたいという思いであったことだというのも又、確かである。大きな決断には多面的な考察があるのは道理であるから。その意味で今回の潜在的なテーマである利根川東遷論、荒川西遷論も利水が主目的とか、治水が主目的とか、明治以来論が交わされているが、裏表の関係で、利水があってこそ治水が必要になっていたことが今回の旅行資料作成過程で当然のように理解できた。

 今回の旅は、その関東平野の可能性に賭けた家康の行動の端緒を見付けたいとのことで企画したものであるが、何故家康は関東開発の端緒に行田地域に目を付けたのであろうか。
 埼玉平野は低地・台地よりなるが、その周辺は丘陵・山地よりなる山地部である。埼玉低地は二つの地形から構成される。山に近い所に発達する扇状地と、その先の平野部に広がる自然堤防地帯である。行田加須地域は高崎・秩父の山地部から扇状地と自然堤防地に切り替わる所にあり、行田辺りの利根川は水深が深く、水量が年間を通して安定している区間である。更に地下水も豊潤で沼地も多く、新田開発と水運の便に富むという特性を持っている。
 そこで、高崎周辺から埼玉にかけての古墳群の多様さと、関東武士の発生の大きな要因となるこの地域の経済の発展は、この自然特性によるところが大きいことが理解できる。

今回一番注目したのは
(1)中条堤が鎌倉時代から整備が進み、徳川家康によってさらに整備され明治時代までの利根川治水の根幹であったこと
(2)家康が関東開発の最初期に伊奈忠次に中条堤から1㎞下流の会の川を締め切り、利根川と荒川に挟まれた埼玉平野の見沼溜井を整備し、新田開発をさせたという事実
(3)8代将軍吉宗の指示で、井沢弥惣兵衛が見沼代用水を行田の利根川筋から取り入れた地点が、昭和43年の東京大渇水問題の発生により、利根大堰から荒川への武蔵水路の導水口に成ったこと

 このような地域が行田であり、近世、忍藩領の戦略上・治水上・利水城の重要性であり、近代・昭和に時代までその重要性が踏襲されてきたことがわかる。

 さあ、バスの中で配布した資料が説明しきれないうちに早や東北道・加須ICに到着。間もなく最初の訪問地、埼玉古墳群。解説は時間切れ、終了。

 埼玉古墳群へ何故江戸連がと思われるが、戦国時代の北条の北の固めとなる忍城、江戸時代の治水・利水の要となった行田地区は、古墳群の誕生に関わる埼玉の津から窺えられる水運と周辺居住群の発達に重なる部分が多く、埼玉平野の江戸地廻り経済の発展に欠かせない要素であることが改めて理解できたと思う。

 埼玉古墳群の見学には意外にも連衆の関心が高く、丸墓山古墳にはなんと、皆さん登り、さきたま史跡の博物館の金錯銘鉄剣などの国宝展示にも興味をもたれ、もっと時間がほしかったという意見をもらうほどであった。

古墳1 古墳2

さきたま史跡の博物館 国宝

 さて、いよいよバスツアー恒例の昼食。ガイドをする者にとって一番悩むところ。今回は行田と言えば鰻でしょうということで、創業文久2年(1862年)の川魚割烹店「魚豊」。先ずは少々鰻を味わってみたいと肝吸いをお付けいたしました。今の時世、久しぶりに鰻を食べたなという感想を聴き、楽しんでいただけたかなと安心しました。料亭にも多勢の利用で喜ばれ、地域貢献できたかな。

昼食

 さて、午後の部は足袋蔵めぐり。年1度の足袋蔵まつりというのに、江戸連の一行ばかりが目立つこと。お祭りを引立てに行ったようで、お役に立てましたかね。行田観光ボランティア5名による案内は大通り、横丁、路地とめまぐるしく曲がりくねった町歩きになりましたが、心配した迷子もなく無事忍城に到着と言いたいのですが、直前に疲れたということで小休止。考えてみれば江戸連の平均年齢は、前回平成25年から3歳高くなっているんですね。暑い日差しの中での町歩きでした。私が8年ほど前に行田に行ったとき初めて地元にNPO足袋蔵ネットワークがスタートして、足袋蔵ミュージアムで活動を始めたばかりだったことから考えると、わずか8、9年で大きく発展したことに敬意を表します。

足袋1 足袋2

 さて、忍城・行田市郷土博物館見学。忍城の壮大なジオラマを見ていただき、水城と言われた城で三成も攻めあぐんだという伝説に納得されたと思います。しかし皆さん40分位の見学を精力的に、そして三重の櫓(やぐら)も見てきましたという人もいて、連衆の元気度がわかりました。お見事。忍城をバックに我が江戸連の名カメラマンによる記念撮影。それにしても多勢だなと久しぶりの感嘆。

 そろそろ帰路に懸り、何とか利根大堰を見たいと、見沼代用水と武蔵水路(荒川連絡水路。東京の朝霞浄水場への水路)が並行する水路を見ながら利根大堰へ(水流の速さと、その先の沈砂池を見て、不自然に思い、後日川口中央図書館にて再調査の結果、バスの中で沈砂の水かきのためと言う説明が誤っていたことがわかり、訂正して陳謝いたします)。しかし残念ながら、時間がなく沈砂池をみて素通り。残念でした。

 いよいよ最終コース。江戸連理事の長谷田氏お知り合いの加須の古民家で郷土史家・奥澤市孝氏の講演を聴く。江戸幕府直轄領の幕末の治安の悪化から生まれた農民の天然理心流による武装、そして利根川の備前堀管理統一に果たした奥澤氏の曽祖父の尽力の話などには、昨年日野宿本陣で聞いた、佐藤家と近藤勇の天然理心流稽古の話と合い通づる、江戸周辺の幕府直轄地の農村文化というものを感じ、思わず聞き入ってしまいました。連衆も、もっと話を聞きたかった様子でしたが、帰路の時間が迫り残念。

古民家

 帰路から見える夕焼けに映える大麦の畑は、来週位にも刈り入かも。そして、この地域の麦生産農家はサッポロビールの契約農家。間もなく美味いビールになるそうで、楽しみです。しかし喉が渇いた、ビールが待てない、早くコンビニに寄ってとバスガイドに急かす。

 池袋帰着は予定を20分過ぎ。二次会がこれまた大勢で先ずはビールで喉を潤しました。



報告

(講演レジメより抜粋、文責:白石 徹)

~火事と火消制度~
1. 江戸は“火災都市”
  江戸時代を通じて大火の回数を比較すると、京都9回、大阪6回、金沢3回、その他合計して17回なのに対して江戸では49回。
2. 江戸の主な大火
(1)寛永18年(1641) 桶町火事
   死者は数百人という。幕府は「大名火消制度」を創設。
(2)明暦3年(1657) 明暦の大火(別名 振袖火事)
  焼死者は「十万七千四十六人といえり」。またこの時、江戸城天守閣も焼失し、江戸の市街地の大半を焼き尽くした。幕府は従来の「大名火消」に加えて「定火消制度」を新たに創設した。
(3)明和9年(1772) 明和の大火(行人坂火事)
  「焼死怪我人其の数知らず」明暦の大火に次ぐ大被害(死者数千人)
(4)文化3年(1806) 文化の大火(車町火事)
  「焼死溺死千二百余人といえり。」松平定信の寛政の改革に一環で「町会所」が、米・金を貯蓄、類焼にあった貧民用の御救小屋(15箇所)がすぐに建てられ米、銭が支給された。
(5)文政12年(1829) 文政の大火(神田佐久間町の火事)
  「焼死溺死の輩千九百人と聞けり」今回も御救小屋(9箇所)が建設
(6)安政2年(1855) 地震火事
  深川・本所あたりを震源地とした推定マグニチュード7強の直下型地震。「市内震死者の総数は約7千人なるべし、地震後市内諸所より火事起こり焼失面積は14町四方」

3. 江戸の火消制度
(1)江戸初期
  きちんとした消防組織はなかった
(2)大名火消制度
  寛永20年(1643)にできた制度。大名16家を4組に編成、1万石に着き30名の人足を、1組(420人)が10日ずつ防火に当たる。その後10家・3組体制になる。
(3)定火消制度
  万治元年(1658)にできた火消制度。3千石から5千石程度の大身旗本4名に「火消役」を命じ、それぞれ火消屋敷(約3000坪)を与えた。また火消人足を抱えるための役料300人扶持を給し与力6名、同心30名を付属させた。その後火消役は追加され、寛文2年(1662)には10組体制になった。
(4)町火消制度
  享保3年(1718)に、町奉行大岡越前が作った町人自身の火消制度。47の小組に分けいろは四十七文字を組名とした。小組はそれぞれ鳶人足20~150人と店人足50~500人くらいからなっていた。
(5)火の見櫓
  定火消の櫓には大太鼓と四隅に半鐘、大名屋敷は板木、町方は半鐘。

~火事の経済学~
 火事による被害が大きく、かつ復興費用の持ち出しが多いのは武家層。他方火事による比較的少ない割に、復興の利益が大きいのが町人層。
1. 幕府の損得
(1)火事による直接的被害
  ①江戸城、②幕府の公共施設(直轄の橋、米蔵、材木貯蔵所など)
(2)復興による持ち出し
  ①幕臣、②大名、③御三家、④町人に対しても銀1万貫(約17万両)を下賜、配分。寛政の改革で町人自身の積み立て制度を導入。
(3)火事による幕府のメリット
  復興に伴い江戸市街の拡張整備を行った。
2. 幕臣(旗本・御家人)の損得
  時代を下るに従って幕府からの援助額が低下、火事被害は家計の「火の車」状況を増幅させる要因だったと思われる。
3. 大名の損得
  幕府は大名の石高に応じて恩賜金を出したがそれも時代と共に減少。10万石以上の大名は対象外で自力再建。
4. 商人の損得
  復興需要の取り込み。商家の火事に対する備え。①土蔵、②穴倉、③家訓、④積立金制度(保険制度)
5. 職人の損得
  職人たちにとっていつも仕事に困らない状況を作り出している。
復興関連の職人:大工、左官、瓦師、穴倉師、屋根職、石工、鳶職
職人手間賃の高騰
6. 日庸人の損得
  借家住まいで財産を持たず、失うものは何もない。災害復興事業で日雇い仕事にありつける。それまでは御救小屋で世話になる。
7. まとめ
  幕府は消火体制の強化や放火犯の取り締まりに力を入れたが、火事は減少するどころか増加する一方であった。特に幕末にかけては急増している。火事の原因は出火より放火が多かった。不景気になると火事が多くなる。江戸が焼けることにより建築をはじめ産業や商業が全国的活性化した。
4月講1 4月講2

(参考文献)
『江戸学事典』(弘文堂)・斎藤月岑『武江年表』(平凡社)・黒木喬『江戸の火事』(同成社)・稲垣史生監修『江戸の大変』(平凡社)・北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館)・安田政彦『災害復興の日本史』(吉川弘文館)・寒川旭『地震の日本史』(中公新書)・小沢詠美子『災害都市江戸と地下室』(吉川弘文館)・荒川秀俊編著『実録大江戸壊滅の日~安政見聞記ほか』(教育者)・『図説江戸考古学研究事典』(柏書房)・佐藤雅美『将軍たちの金庫番』(新潮文庫)・吉田豊『江戸のマスコミ「かわら版」』(光文社新書)・魚谷増男『消防の歴史四百年』(全国加除法令出版)・吉原健一郎『江戸東京年表』(小学館)



3月講「赤坂周辺の歴史と花見散策」

開催日:3月26日(土)
集合場所:日比谷線「神谷町」2番出口
集合時間:午後2時
コース:
神谷町駅~西久保八幡宮~雁木坂~三年サカ~我善坊谷~御組坂~アークヒルズ(休憩・花見)~南部坂~氷川神社~勝海舟屋敷跡~報土寺・三分坂~赤坂サカス
懇親会場:
「北の味紀行と地酒 北海道赤坂見附店」
港区赤坂3-10-4 赤坂月世界ビル3F
℡ 050-5798-8716
会費:一人3,300円(呑み放題無料)17時まで入店の事
懇親会当日ドタキャンはキャンセル料を徴収します。

報告

3月26日(土)に開催された講「赤坂周辺の歴史と花見散策」には41人の連衆が参加しました。この日も天気は“江戸連日和”の快晴でしたが、寒の戻りで寒く、期待していた桜は六本木スペイン坂辺りを除いては一分咲きで、満開の桜を期待していた連衆からは「来週あたりが見頃だね」「せっかくカメラを持ってきたのに…」と残念がる声が出ていました。

期待した桜は一分咲き
当日の散策コースは、日比谷線神谷町駅→西久保八幡宮→雁木坂→三年坂→我善坊谷→御組坂→泉通り→スペイン坂→六本木アークヒルズ→南部坂→氷川神社→本氷川坂→勝海舟屋敷跡→報土寺→三分坂→TBS赤坂サカスまでの4.5㎞。この辺りは都内でも屈指の坂多発地帯で、しかも高低差の激しい急坂ばかりとあって、この日はある意味で坂との闘いの日でもありました。
坂歩き アークヒルズで一休みする連衆
見所解説は江戸と坂に精通している松本崇男さんと圓山稔さんのお二人が担当。その主なポイントをまとめると下記の通りです。
説明役・松本氏 説明役・圓山氏
「西久保八幡宮」=寛弘年中(1004~12)に源頼信が霞ケ関あたりに創建したものを、太田道灌がこの地に遷したと伝えられている。二代将軍秀忠室・お江が1600年の関ヶ原の戦いの折、戦勝を祈願したことでも知られている。
「三年坂」=港区麻布台1丁目にある坂。この坂で転ぶと3年のうちに死ぬとの迷信があったことに由来する。
「南部坂」=アメリカ大使館宿舎(信濃松代藩十万石の中屋敷跡)の北側の坂。坂名は、この近くに南部家(陸奥盛岡藩二十万石)があったことに由来する。急峻な坂のため「難歩坂なんぽ坂」とも書いたとか。この南部坂は播州赤穂の上代家老・大石内蔵助が雪の中を南部坂上にある浅野家(備後三次藩五万石)に身を寄せる瑞泉院(浅野内匠頭奥方)を訪ねた際、歩いた坂としても有名。また南部坂は都内に二つあるという。もう一つは港区南麻布にある有栖川宮記念公園近くの坂。浅野家と南部家の屋敷が相対替となり、南麻布に移った南部家の近くにも坂があるためそう呼ばれている。
「報土寺」=雷電為衛門(江戸時代の大力士)や井部香山(江戸時代の儒学者)の墓があることで有名。とくに雷電は寛政8(1796)年に30歳で大関に昇進し、引退する文化8(1811)年の春場所までの16年間で32場所大関を務め、その成績が254勝10敗1引き分け2預かり5無勝負で勝率が何と96.2%を記録する無類の強さだった。このためあまりの強さで横綱に推挙されなかったという。またこの寺の塀は慶長19(1614)年の創建当時の築地塀で、その姿の美しさから訪れた人々を魅了している。
雷電の墓
「三分坂」=これを「さんぶざか」と呼んではいけない。「さんぷんざか」が正しい。急坂であるため荷揚げする際、車夫に払う料金に銀三分(さんぷん100円余り)増したのでそう呼ばれるようになった。「さんぶ」では1両の4分の3となり、現在の貨幣価値に直すと7万5,000円追加払いすることになってしまう。
三分坂
一行は約2時間半ぶらり散策を満喫、歩数は約1万2,000歩でした。二次会は「北の味紀行と地酒 北海道赤坂見附店」で開催、27人が参加しました。皆様お疲れ様でした(平)。